お言葉22 水の章10講から

18年8月26日(土) 水の章第10講 小竹祥善講師法話から転記しました。
故マザーテレサさんの施設で働いた日本人のお話の中で

信者訓戒に「(22)ご本尊様は何時でも何処でもあなたの背中についておられます」というお宗祖様のお言葉があります。

これは私達がご本尊様と繋がっている存在であるということを教えています。
このご本尊様は目で見ることはできません。
目で見ることができないなら心で見ます。
私が支部の感謝祭に行きましたとき、支部長さんが申し訳ありません端っこで祭壇が見えませんといわれましたが、目を閉じたらご本尊様は目の前におられるのです。
私達の目は視野があり見える範囲が限られています。
しかし目をつぶると視野に関係なく想像で見ることができます。
背中にいらっしゃるご本尊様は心の目でしか見えません。
これは心がないと見えないということになります。
慈悲も私達の心を育てないと慈悲も大きく成長しません。
相手を大事に大事に思う気持ちが、つまらない相手だと思っていたのにすばらしい方であるということが見えてきます。
人でなくてもつまらないものと思っていたものがすばらしい価値があることを発見することがあります。
相手を大事にし、優しくする心を磨きますと、相手の言葉遣い、顔の表情、態度動作の違いが見えてくるのです。
それは相手のことを思うという心が見せてくれるのです。
皆様方が掃除をされるとき、きれいにしようという心が有るからゴミが見えるのです。
きれいにしようという心がなければゴミがあっても見えません。
これと同じように私達は慈悲の心を育てますと、更に優しくしなくてはならない、大事にしなくてはならないところが見えてきて、優しくすることにより更に慈悲は大きく育つのです。
私達が学ぶこの優しさの原点は大慈大悲のご本尊様です。
目の前にいる方がイエスさまですといわれても私達はなかなかはいそうですといえないところがあります。
しかしその方の中にご本尊様だいらっしゃる。お宗祖様がいらっしゃる。
ご本尊様がお宗祖様が私のためになさったのだとすべてにご本尊様、お宗祖様を結びつけて考えることができると相手をもっともっと大事に優しくできるだろうなと思います。
そうして私達は慈悲の心を育てましょう。
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ご本尊さま礼拝時の心・作法について、

18年の礼拝経4講で聞いた話の抜粋です

「お言葉集成5集 85 祈りで養われる澄んだ心」を朗読された。

お宗祖様は何時も座っておられるが足が痛くないのか、トイレにも行かれないのかという信者の素朴な問に対してのお話し:
『足の痛さもトイレも忘れ去っています。
不思議といえば不思議です。
何故かと言いますと、お百度を踏む時、ご本尊様の前でご祈祷をしている時、御神示をする時、私は無我境地になるのです。
何時でも私は一心です。そういう時には私というものがありません。
どうかお助け下さい。
あの方をお救い下さいと一生懸命ご本尊様にお祈りをするその心がすべてなのです。
身も心も清らかで静かに正座しておれます。
心頭滅却すれば火もまた涼しとおなじ境地だと思います。
このような無我の心でないとご本尊様の心に届かないと言うことです。
皆様がご本尊様にお祈りを捧げられる時はこの無我の境地でやって頂きたいのです。
ご本尊様のお知らせはあくまでも皆様のお祈り次第、信心次第です。』)

ご本尊様に、心を通わせる事です。
ご本尊様を敬いつつ自分の最高の気持ちを向けさせて頂くことが私たちのお勤めであると思います。
ご本尊様に心に敬いを持って、お祈りをなさることが大事であると思いますので実行して下さい。
折角お祈りをしますから、ご本尊様に届くようなお祈りして頂ければ結構です。
人間を越えた大きな力に敬いを持って生きると言うことが人間としての謙虚な生き方であると思います。
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昭和37年6月12日大阪本部でのお宗祖様のお諭し

(編集項目:ブログ者)
1 お宗祖様は狐つきと非難する方
2 大和であった日蓮宗の信者さん
3 みんなお釈迦様からでた泉
4 弘法大師と弁天さん

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