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お言葉12 教区便りから

日々のお言葉12 教区便りから

日々のお言葉12 「善根功徳行は行うだけでよい。ただそれだけでよいのです」

善い事をすると人に認めてもらいたい。
見返りを期待したくもなる。
しかし、そんな気持ちが、少しでもあれば功徳にならないというのがこのお言葉である。
目的は手段の積み重ねによってしか得られないのだからといって、手段の手間を省くことばかり考えていては足元を踏みはずすことになる。
私心を押さえ、ひたすらお言葉を指針として過程を積み重ねていけば、いつの間にか願っていたものが得られる。
私たちにはできることは何が善かを学ぶこと。
他を責めるための信仰ではない。






何か違うように思いますね。
目的と手段とは何でしょうか。
人に認めてもらいたい・見返りを期待するが目的で、善根功徳行が手段という設定でしょうね。
手段を省くと目的が達成されるのでしょうか?
さらに足元を踏みはずすことになるでしょうか。

弁天様で命が助かってお医者さんになられた子供さんと信仰の事で衝突し、辯天宗を辞められましたお運びの講師で大川先生という方が居られました。
大川先生のお宅は、生駒地方では名士でお金持ちだそうで、代々地元の神社やお寺にお金や物を寄進されその記録が残っているそうです。
入信後、大川先生は大川家は代々多額の寄進をしているからどれくらい功徳を積んでいるかお宗祖さまに尋ねられたそうです。
お宗祖さま、お金や物を寄進してもあれもこれも大川家が代々寄進していると自慢している。
善根功徳の善果は全然ない。悪果の方があると言われたようです。
あなたが人のため尽くし大川家の善根功徳を積みなさいと諭されお運び講師をやられたようです。

善根功徳行に関して確か高野山の万灯会での貧者の1灯というお話があります。
ある貧乏人はロウソクを寄付したく、生活を犠牲にしてやっと少額で小さなローソクを買って寄付をした。
万灯会の最中風が出て、お金持ちの寄付した大きなろうそくの火は消えたが、貧乏人が寄付した小さなろうそくが消えなかった。

この消えなかったロウソクの話から、善根功徳の評価する方は神仏だと私は思うのです。
善根功徳行はというか善い行いをしたという功徳は、私たち人間が善根功徳者の善根功徳価値の軽重や大小を評価するのでしょうか。
(私たちの世界では、人助けで警察や消防の表彰があります)
そうではなく、私は、信仰の世界の善根功徳や善い事の評価は、神仏がご本尊さまがなさるので、行った本人や他人が評価するものではないということ原則ではないでしょうか。
そして貧者の1灯は金銭や物の大小ではなく、善い事をする人の心により神仏がその大小を評価するように思います。
寄進や表彰を表す額掲げる、顕彰碑を建てる。表彰を希望するなど自らの善根功徳を誇る心があると、神さまには善根功徳として受け取ってもらえないようです。
ですから、お宗祖さまは行うだけでよい。ただそれだけでよい。一生懸命善い事をして忘れなさい。
善い事をして後は神仏、ご本尊さまにゆだねなさいと言われているように思います。
ご本尊さまに褒めていただいてもよし、褒めてくださらなくてもよし。
やらせてもらったのがありがたい。お礼をさせてもらわなくてはならない。
といった心がけが必要だと思います。
このほかに私は奉仕等の時は、今助けていただいた万分の1のご恩返しをさせていただいている。
まだ足りない。
お宗祖さまが善くやった。もういいよと言われるまでご恩返しをしなくてはならないと思って奉仕をしています。
従って、どのような奉仕でも一生懸命奉仕しなくてはご恩返しにならないと思っていますので私語をしたことはありません。