お言葉9  宗務総長(感謝祭)

日々のお言葉9「じっとしていて何が救われますか」 宗務総長

21年6月15日感謝祭での宗務総長のお言葉9についての話
(宗務総長のお言葉と日々のお言葉がダブった場合は、。各カテゴリーから検索できるように、日々のお言葉を再投稿することにしました)

さて、今月いただきました宗祖さまのお言葉は、9番目で、「じっとしていて何が救われますか」こういうお言葉です。

じっとしていて何が救われますか。
このお言葉につきまして私の思いますところをお話いたしたいと思います。
さて、じっとしていて何が救われますか。
お救い、あるいは幸せとか喜びとか。
私たちが本当に手にしたいと思うことがあります。
で、それらを願うのですけれども、ただ願っただけでどこからかやってくるのだ。
そもそも、お救いとか、喜びとか。どこからか飛来してくるのか?
これはそうではないのだ。そうではない。

(編集項目)
(1) 願うだけでは不十分、幸せは真心から生まれます。
(2) 生み出すとは、鐘の音と拍手のたとえ
(3) 因と縁が出合って果が生じる
(4) 果は弁天さまのお働き
(5) お言葉集成の中の火事になったお寿司屋さんの話
(6) お寿司屋さんを救うためのお宗祖さまの祈り
(7) 縁が生まれてくるような動きをすること
(8) 動く方向を間違えてはいけない。
(9) 榎木が芽を出す縁の話
(10) 因があっても縁がないとかは生じない。
(11) 方向を定めるべきだ。その方向とは
(12) 信仰の世界は10聞いて1できる人の方助かる。

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お言葉9 教区便り
お言葉9 水の章から




(1) 願うだけでは不十分、幸せは真心から生まれます。

私たちが手にしたいのだけど、それを願うだけでは不十分。
さてここで、お言葉1番に立ち返って頂きたいと思うのですけれど。
「まごころがすべてです。幸せはまごころから生まれます」とあります。
このお言葉のいう、幸せは生まれるのです。
私たちが手にしたいと願うその幸は、どこからかやってくるのではなくて、私たちが産み出すのです。

(2) 生み出すとは、鐘の音と拍手の例

生み出すということはどういうことなのだろうか。
ということで、私はよくお話しを致しますけれども。
鐘を撞木で叩いたら、ゴーンという音がします。
このゴーンという音はどこからかやってきたのか。
そうではありません。
右の手と左の手を合わせると、パチパチと音がします。
このパチパチという音は、どこからかやってきてこの両手にくっついたのかというと、そうではありません。
そうではないんですね。
どうやってこのパチパチという音は生じたのでしょうか。
右の手と左の手がこのように出合うことによって、この事で生まれたのです。
パチパチという音は、右の手にあるのか左の手にあるのかといっても始まりません。
しかし、間違いなく、こんなふうにして(両手が)出合うことによって生まれて参ります。
ゴーンという鐘が欲しいからと言って、鐘を100年見ておりましても200年見ておりましても、(鐘は)鳴りません。
この鐘と撞木が出合うということによって、音が生み出されてくるのです。
で、そんな風に、私達のこの世の中というものは因縁果という言葉で、現されていますように、原因がある。そこに縁が働けば結果が生まれてくる。
ですから、幸せもまた。生まれてくるものです。

(3) 因と縁が出合って果が生じる

その時の原因はまさに、我々自身です。
我自身が原因となった時に、どの様な変化が働くかによって、生じてくるものが違う。
さあ、そこでね。
今申しました。弁天さまの因縁果という動きの中に、弁天さまはどの様にして働いてくださっているのかと思うのですよね。
右の手と左の手こんなふうに出合うことによって、パチパチと生まれてくる。
当たり前なんでありますけれど。
じゃあ。これは。考えてみますと。
出合うことによって生まれるという働きこそ。
私は弁天さまのお働きそのものであると思うのです。
よく縁は異なものと申しますが。
不思議ですね。
因と縁が出合って、果が生じる。
当たり前のようなのですが、これほど不思議なことはないなと思う。

管長猊下と総裁さんが出合うことによって私が生じた。不思議だ。
皆さん方も、お父さまとお母さまがいらっしゃって今ここにいる。

(4) 果は弁天さまのお働き

因と縁をズーッと遡って行くとどこに行くのでしょうか。
私は詰まるところ、ご本尊さまのお働きということにぶち当たらざるを得ない。
という気がいたしますのです。
即ち、因と縁が出合うことによって、果が生じてくるということがまさに弁天さまのお働きなのです。
ですから、そのお働きに乗っかって、しっかり信仰しなくてはならないな。
そんな風に思うわけでございますね。

(5) お言葉集成の中の火事になったお寿司屋さんの話

で、宗祖さまと申しますと。
宗祖さまは弁天さまのお働きの中で、我々がしっかり信仰して行こうとことを根底からしっかり支えてくださっているお方だと思うことがあるのです。
例えば、お言葉集成をひもときますと、火事で全焼しましたお寿司屋さんのお話が出てまいります。
覚えているお方もいらっしゃると思います。
商売が上手くゆかず赤字で苦しんでいたお寿司屋さんでございます。
ご主人の方もあまり仕事熱心ではなかったのでございます。
そのご負担が奥様にかかっていて、そのことをお宗祖さまもたいそう心配されていた。
そこで、お寿司屋さんにお金を差し上げたらいいのだけれども、そのお金を差し上げたら、そのご夫婦は信仰をやめてしまうに違いない。
こんなふうに思われたんです。
そして心配をして、心配して、そんな中で火事が起こる。
そのお寿司屋さんは全焼してしまった。
普通ですと、神も仏もあるものかとこんなふうに思うのだそうですけれど。
多分思うと思うのですけれども、たった一つ焼け残った。
もう焦げてもいいのにそのままで残っていた一つのものを頼りにまた信心を始めている。
それは、一つの信者証です。
その信者証が焼けずに残っていた。
そのことで、自分の信仰は、自分の信仰はまだ途切れていないと(?)と悟られる。
なお一層信仰されたということです。

(6) お寿司屋さんを救うためのお宗祖さまの祈り

で、宗祖さまはたいそうそのお寿司屋さんのことを心配なさっていました。
お金を差し出す替わりにどうなさったかと申しますとね。
ひたすらお祈りをなさった。多分冬の日、21日だろう。
そのご夫婦のために、お百度を踏み続けたというのです。
その宗祖さまの祈りもあってか、一文無しになったっしまったのだけれども、知り合いのお寿司屋さんから、お店を譲って頂くことになり、そのご夫婦は繁栄繁盛の道を辿って行かれるというお話です。
宗祖さまはお金じゃなくって、祈りを差し上げられた。
宗祖さまがどれだけ祈っていてくださったか。
なかなか私たちはそのことを知ることができません。
例えば、王子の駅から東京へ行きます。
夜行列車で9時間かかるその道中、ズーッと祈り続けていた。
そんな話も聞かせて頂きます。

(7) 縁が生まれてくるような動きをすること

夜中に起きて、信者様のためにお祈りをなさった。
その姿をご覧になった信者さまが、その方も夜遅くお百度を踏んでおられたのでしょうね。
宗祖さまそんなに無理をするとお身体をこわします。
こんなふうに仰られたんだそうですけれども、いや、私には足を運ぼうとする信者さんの足音が聞こえるんだ。
といって、お疲れになった身体をむち打たれてお祈りをされていた。
我々が、ぐうすかイビキをかいている時にも宗祖さまはお祈りをなさっていらっしゃった。
その祈りを、………。
しかし、間違いなく宗祖さまは、祈りで我々を支えてくださっていらっしゃるお方でございますね。
ですから、宗祖さまは応援してくださっている。

だから、私たちはですね。そのご縁が生まれてくるような。動きをしなくちゃ成らないと思うのです。
そうなんですよね。
ジーッとしていましたらその因縁果が働きようがないのです。
弁天さまが働きようがない。
そう思うのです。

(8) 動く方向を間違えてはいけない。

さあそう考えました時に、一つ大事なことがある。
それは、確かに動くことの大切さをここで、お諭し下さっているのですけれども。
その方向を間違うととんでもないところにいってします。
例えばね。
私は法律家になるのだということで、六法全書を暗記しまして、司法試験に通ったとします。
この方が、法の網をくぐってお金をしこたま儲けてやろうとおもって、身につけました知識を使ってしましますと、私は多分、その人の人生は失敗やと思う。
方向を間違っているから。
世のため、人のために使った時にはじめて、それにふさわしいご縁が生じてくる。
スポーツで鍛え上げた肉体を、人に暴力をふるうという形で使ってしまいますと、なんと、これまたその人の人生はダメになってしまう。
人に希望を与えよう。自己実現をして行こう。
そのような思いで、スポーツにいそしむ。
この事を通してはじめて、それにふさわしいご縁が生じてくる。
と思うんですよね。

(9) 榎木が芽を出す縁の話

まちょっと、余談になるかもしれませんが。
皆さん方、茨木の冥應寺に行かれた時に、信者会館がございますでしょう。
あの信者会館の1階のロビーにはいるところ、左側に智辯学園が甲子園に出場しますと垂れ幕がかかります。
両校が出場しますと2筋の垂れ幕が下がります。
………………(その垂れ幕の前方にある植え込みのことを言っているようです)
今度行かれたら見てください。
その中にちょと変わった木が入っている。
木が植えてあるにも、かかわらず妙な形のものが生えているんです。
ところでそこは(2階に上がる外部の)階段の直ぐ左です。
榎木が生えています。
なんであるか質問するまで気づかなかったのですが。
ここにも生えているわと思った木は、榎木です。
あれは大木になります。
私も、あの木は大木になりますので、………………ことを知っていました。
裏山に行きましてね。
裏山の薮でその榎木の実をひらってきて、土に植えて育てようと思った。
そうするとね。
肥料をやり、水をかけ、どんなに手をかけてやっても。
うんともすんともその種はいいません。種が生えてきません。
じゃあその榎木はどうしてあそこで生えたと思いますか?
この実をとりだして、ぽたっと落ちたところから生えてくる。
つまり、おそらく裏山に沢山生えていますその榎木の実をついばんだ鳥があそこで糞をしたのでしょう。
つまり榎という植物の種をとって、土にまく。
我々が人の手をかいして、土にまくということはふさわしい縁じゃないんのです。
その種にとってふさわしい縁は、鳥に食べられることです。
それを通してどういうことでそうなるのか分からないけれど、そうでなければ生えてこない。
不思議だ。

(10) 因があっても縁がないとかは生じない。

まさに、この因にふさわしい縁がないとなかなか望み通りの結果は出ないのかな。
その木を見て、思っていたのです。
ですから皆さま方、方向は是非間違えないでください。
動くのは多いに結構。
その際には、方向を確認をしておくこと。
どの方向を狙って動くのか。
どの様な場合の動きをするのか
独りよがりの動きをするのか。
これまた、そのような縁しか入ってきません。
違う方向で、喜びを手にしたいと思いながらも、方向を間違いますと、それに反する縁が集まってまいりますから、………………
方向というのは、少しでも人のために、人の幸せに寄与できるような。
そのことを通して自分は、励まされるような。
そのような方向で、歩んで行くその人に、それにふさわしい縁がついてくる。
もの(?)をあてにすることができる。
私こんなふうに思っているのです。
ですから、闇雲に動くのではなくてね。

(11) 方向を定めるべきだ。その方向とは

方向を見定めるべきだ。
そうしたら後は実行あるのみです。
そうしたら、起こってくる色んな出来事。
それは、まさに弁天さまが用意してくださったと思ってください。
こんな時に(?)そんなことではかなわんわ。
そんなことでは、助かるものも助かりませんよ。
方向も見定めてしっかり動いてください。
例えば、本部の感謝祭には必ず参拝をする。
これも、皆さんなさってください。
癖になるくらい。
本部だけでなくって、教区や支部の感謝祭にも参拝する。
こんな事も大事です。
………………(?)しようということもいい。
感謝箱をするこの事も大事。
お運び。制度が変わったからもう1回、一から勉強し直そう。
多いに結構です。
お運びを全部受けて下さい。
そんな風に方向を定めて動く。
ということから新たなる縁が一杯現れてきます。
これこそ弁天さまがあなたを救わんとしてご用意下さった縁だと私、思いますのでね。
そんな風に、できてくることをお知らせととらえて歩んで行ってくだされば。
私はきっと、喜びとか幸せがどこからなしに湧いてくると確信して止まないのです。

(12) 信仰の世界は10聞いて1できる人の方助かる。

よくね。世間ではこう言うでしょう。
1を聞いて10を知る。
そんな人が素晴らしいと言いますね。
信仰の世界は反対ですよ。
10を聞いて1できる人が素晴らしい。
1聞いて10を知る人よりも、10聞いて1できる人の方が助かります。
ですから、なんでも結構。
あれもこれもでなく。1つできることを続けて下さいますように。
私はきっと素晴らしいものを得ることができると思いますので。
こんなふうに今月のお言葉をとらえて下さいまして。
ご精進をたまわりますことを心からお願いいたしましておわります。
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