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先祖に関するお宗祖様のお諭し

先祖に関するお宗祖様のお諭し

先祖を粗末にしてはなりませんという日々のお言葉から、粗末という言葉以外でお宗祖様は先祖の大切さ、そして供養の仕方を諭されていますので、全部ではありませんがブログで収集したお話の中からまとめました。

1 先祖を大事にする人が好き
2 先祖を、親を、目上を大切にする。感謝する
3 先祖の恩を知って敬え
⑴ 祖先と50回忌法要
⑵ 系図がなくとも皆一様に優劣新古の差別のない祖先を持つ
⑶ 私達の最初の祖先は仏
⑷ 仏事法要は祖先が仏果を得るため
⑸ 祖先は私達であり、私達が祖先
4 先祖供養の御利益と先祖供養のお経
⑴ 仏の回向(でご利益を頂く)
⑵ 恐ろしい両親の因縁
⑶ ご神示を聞かない人、辯天さまが救えない人
⑷ 先祖供養のお経




1 先祖を大事にする人が好き
(平成19年2月15日遷神祭で流されたお宗祖様のテープから)

遷神祭で聞いたお宗祖様の話

とにかく先祖さんを大事にする人は、私一番好きです。先祖を大事にするのが辯天宗です。
先祖を大事にする。先祖を尊ばないものが何で発展しますか。
私はそう信念を持っているのです。親を大事に、先祖を大事にする人は必ず、助けられます。


2 先祖を、親を、目上を大切にする。感謝する

妙音新聞48号 第4感謝のまことを捧ぐべしNO2 から

かりに、私1個人のことを考えてみますと、私1人を産み出すためには、私の両親とその又両親の両親というように、私にはたくさんの親があることになります。
何でも10何代前にさかのぼると何億という親があることになります。
この何億という大きな流れが私1個人を産み出したのです。この流れが大切なのです。
この流れを無視して私はありません。先祖を大切にすることです。親を大切にしなければなりません。
この先祖あればこそ、親あればこそという気持ちが自ら感謝となって参りましょう。
上の流れを感謝で受けることのよって益々流れの道開けができたどんどんと流れが自分にやってくることになります。
これが私達の「徳」となって参るのでございます。これが先輩や目上やその他自分より上のところに当てはめて見ても又同じことが言えるでしょう。
この上があればこそという気持ちがなければ、私達はダメです。上の流れを受けた私達は又、自分でこれを止めておいてはなりません。
自分より下へ又、流してやらねばなりません。自分のところで止めて遮ってしまっては流れは下に行かず、流れが詰まってしまって大洪水となるでしょう。
このことは又別の時のお話しすることにいたします。

3 先祖の恩を知って敬え

先祖の恩を知って敬え(妙音新聞24号から)

⑴ 祖先と50回忌法要
⑵ 系図がなくとも皆一様に優劣新古の差別のない祖先を持つ
⑶ 私達の最初の祖先は仏
⑷ 仏事法要は祖先が仏果を得るため
⑸ 祖先は私達であり、私達が祖先

⑴ 祖先と50回忌法要

私達が名のために祖先の恩を謝し、そのために霊を敬わねばならないのか。
これは非常に難しい事柄でありまして、このことにつきましては、多くの人と申すより、その殆どの人は自分の祖先と言うことに無関心でありまして、祖先をわきまえぬように考えられます。
祖先の恩に謝し、敬うには自分達の先ず祖先を知らねばなりません。
私達が常に口に致します祖先というのは、私達のごく近い祖先に限られて申すのであります。
第1には自分達の父母であります。
それから祖父母、その次は曾祖父母位を限度とした祖先であります。
中には7代前とか、10代前に居られた祖先を語られますが、その祖先が特に社会的に特別な働きがあって歴史に伝わった人のことを語るのであります。
自分達から2代3代位前の祖先のことは父母から或いは祖父母から聞かされて、子供心にも曾祖父母のことは親しみをもって知っておりますが、それより前の祖先のことは知らぬままになっているのが常のようであります。
仏事法要に致しましても、50回忌をもって一応法要が終わったことになっております。
普通50回忌を済ませますとその位牌は寺におさめたり、或いは仏壇より取り除いて片づけられるのです。
俗世の習わしによって50回忌の法要をもちまして祖先に対する恭敬の霊を終わりますのは種々な事情の上と考えます。

⑵ 系図がなくとも皆一様に優劣新古の差別のない祖先を持つ

例えば幾代を続く忌日命日を弔いますのは全く煩わしいことでありましょう。
或いは50年の間にはその霊の納まるべきところに納まった事として法要の用がなくなったことにも考えられるのであります。
こうした法要の行事もその供養する人の身近な仏に限られておりまして、それより前の古い祖先は次々に忘れられて行きます。
もしそれより古い先祖を知っていたり、又は話題に上がるのは、その人の家は特別な家柄であって、何10代も伝わってきたという家系図を持つ家であります。
こうした系図を持つ家の祖先は、子孫のために系図を書き始め、そして代々の子孫がこれに1代1代を克明に書きつづってきたものです。
私の祖先は、天彦屋根の命の何代の孫藤原鎌足の何10代の家柄だと言っておられます。
しかし、この由緒ある系図と申しましても1000年か2000年位の日本歴史始まった以来のことです。
系図のない家には祖先はないのでしょうか。
系図を持たぬ家の祖先はそうしたことに無頓着で子孫に系図を残さなかっただけで、系図の有無によって祖先を語るにその優劣を区分することはできないのです。
しかし、これも2000年余りの祖先を知るだけの事であります。
私達の祖先はその家柄によって早くから祖先を持ったり、或いは途中から祖先ができるものなのでしょうか。
現在この世に生きておりますいずれの人にも皆一様に優劣新古の差別のない祖先を持っているのです。

⑶ 私達の最初の祖先は仏

私達の祖先は、2000年や3000年前に生まれたものではありません。
それでは私達の祖先は一体いつの頃から始まったのかと申しますと、それはいかなる科学者も測り知ることのできない久遠の昔……。
即ちこの世が始まった時よりですから歳月にしては幾億年か幾10億年の昔から私達の祖先は正しく伝わってきています。
科学者の一部では人間の祖先はアミィバーであって、それが段々進化して今日の人形に達したのであると申しております。
この人間の進化論は科学者の推測に任せいたしましても、最初の祖先は仏であるのです。
その仏より別れた私達の祖先は、親は子を産み、その子が親になる一定の規道を何万代、何10万代繰り返して今日にいたっています。
ここで重ねて申し上げますのは、この世で正しい系図を持った人は古い祖先があって、橋の下で雨露を凌ぐ貧しい人は天から降ってきたのでも、地の底から涌いてきたのでもありません。
やはり親から子への道筋を通ってきています。
1組の親が2人3人の子を産み、その2人3人の子が矢張り3人4人の子を産んできたのです。

⑷ 仏事法要は祖先が仏果を得るため

更に存命中仏果を得られずに外道に生を受けた人もないとは限りません。
ある人は、この世に非常な亡執を残した霊やこの世を呪って死んだ霊などは定められた六道にも行けずこの宇宙の迷い霊となって祟り障りをしているのもあります。
こうした亡執の霊が種々な災いをその子孫に与えていても子孫である人は凡夫の浅ましさにその因縁を知ることができずして苦難に泣き暮らしているのです。
成仏をとげた人、又は人界に還元した人以外の外道に落ちた霊や迷い霊となっている祖先が少しでも仏果を得られるように追善供養したり、或いは施しをして、その霊が落ちた奈落より浮かび上がり、又は迷うより逃れてその落ち着くところに往かしめるために仏事供養を営むのであります。

⑸ 祖先は私達であり、私達が祖先

こうして私達の因縁、即ち私達の祖先の因縁を仏に縋って解いて頂くことによって今世の苦しみを救われ、更に今世の幸福をそのままに、今度の往生の一大事には安養の浄土に導いて頂かねばなりません。
私達が現世を幸福にそして来世を救って頂くには、必ず祖先の因縁と切り離しては得られないのです。
もっと簡単に申し上げますと祖先は私達であり私達が矢張り祖先であって、決して祖先と私達は別々のものでないということを深く心に悟らねばなりません。
これを知りますと祖先を尊び敬う事の理が自ずからお分かりになると存じます。
このことは大変難しい事柄でありまして、お話も十分言い現しかねますが、
最後の申しました祖先と自分とは別々のものでないことをお悟り下さいますと自然にご理解になって1日1日が信仰の心なくして過ごされない厚信の心にはいることができると存じます。

4 先祖供養の御利益と先祖供養のお経

真実一路の年お宗祖様のお話NO1の6項に掲載されているお諭しです。

⑴ 仏の回向(でご利益を頂く)
⑵ 恐ろしい両親の因縁
⑶ ご神示を聞かない人、辯天さまが救えない人
⑷ 先祖供養のお経

⑴ 仏の回向(でご利益を頂く)

皆さんに一番御利益をもろうてもらうお話をしたいと思います。
若い人には、このあまりヒンとこん話やけれど、商売かてね。仏さんおご回向なんかしてもろうて、ようけ儲けるような人もある。
仏さんのご回向してもろうて縁談、整わしてはる。
仏のご回向してもろうて病気治る人ある。
1回ですむ場合も毎日毎日回向する場合もあります。
皆さん各人で先祖の持ってない人ない、私があんた先祖の祟りというと、私とこ、シンタク(新宅)ですと平気で言う。
新宅だったらどこからできたのか、木の股からできたのですかといいとうなる。
本家も新宅もありますかいな。
親があってこそ、そこからわかれもし、家もこさえた。子もとなる。
シンヤ(新家)というような言葉、絶対に使わないようにしてもらいたい。
ご先祖と親というものは、本家であろうと兄弟であろうと末子であろうと誰であろうと、みんな親が中心、先祖が中心、先祖を忘れましってはダメです。
御利益くださいという前にね。
うちのご先祖どうやろかということをひとつ考えてみることが必要です。

⑵ 恐ろしい両親の因縁

本当に、恐ろしいと思うことがあるんですね。娘さんがおられます。お姉さんがあります。
そこに養子をもらっはります。
そして私が拝んであげると、ひどい因縁やな、姉さんに婿養子に来て、妹の婿養子になっている。
姉さんはかわいそうに指しゃぶっています。この生活が長いことあったでしょうね。
仕方ないさかいそういうふうにする。
これを苦にしているうちに、どうやらその代はすんで、その人の子の代になってから、また同じ問題が起きる。お姉ちゃんの養子に来て、また妹の婿養子になる問題を起こしている。
これは何でしょう。仏の因縁なんです。
作った因縁というものは恐ろしいもので、中々切れっこないんです。
皆さんのお顔の違うだけ全部因縁は違います。
そんなんのがこないだからでてきます。
今度の妹さんの方はえらい。私の前に来て、辯天さん私なといってバラバラ涙こぼして、小さいときしか見なかったけど、もうこないに大きいなった。
いくつになったん。私17になりまして。お姉ちゃんかわいそうで、そんなことでけへん。
学校かていきたいとこによういかしてもらわんと。
そう入学はいつだったの。去年でしてんけど、1年あんじょう遊んでしまいましてん。
かわいそうやさかい、総長さんに相談してな、うちにおいで、うちに来たらな、今頃からやったら、どこかの高校行かして上げるからここおいで。
あなたのお父さんがどないいうてた。
かわいそうになと思うたんで、そないにいうてやりました。かわしそうだと思うて、私その人の前でも涙こぼします。
しかし、それを、晩寝て考えた。因縁て恐ろしいなと思います。
先の時にお姉さんに婿養子に来てはるのに、妹の婿養子になった。
目の前の姉に見せつけて、今度はその人の子供や。
その人の子がまたお姉さんに婿養子に来て、また妹に変更しようとしとるんや。
その苦しみを見たとき、こんなもの世の中にいくつもあらへん。
私が以前そないなりますでいうたら、そないになった。
そうですから、今拝んでいる中にも、たんとあります。あんたのうちはそないになりますよ。

⑶ ご神示を聞かない人、辯天さまが救えない人

この間も、あんたのうちはこんなんやけど、1年先になったら、こないこないなりますよいったら、疑うていました。案の定そないになりました。
そのうち、ご宗祖さまのいう通りになりましたんやといいます。
紀州の方で、あんたとこ絶えますで、このうちは絶える絶えるとお指図でているから絶える。
しっかり信心しなはれやいうたら、影で、ご宗祖さん錫杖ふったら金になるのや。
あの錫杖ものすごい金ものやいうた。錫杖ええもんやいうてくれてると思うたら、そやあらへん。
錫杖を振ったら金になる。そんなことを言います。
あんなこと言うて回向さそうと思うてるとこないに言う。
これはあかん、こんなに根性のひねくれたら、どうもいいようがない。
それで、何をゆうねんと机たたいて怒ったことがあるけれども、その怒った気持ちはその時だけで、私もう相手にも何もしませんでした。
それから回向つけてもいえへん、仏の障りのこともいう意欲がない。
そして、やっぱり絶えた同然になられましたな。
今その姿を、7年前と今日比べてみたときに恐ろしい。
それは辯天さまが救おうとしても、救おうとしても、救われようとしない気持ちがあるから、救われないのです。そういうふうに私に対してもひねくれてくる信者も、何万人に1人はあるわけです。
決してね、そういうひねくれた気持ちでご神示をおとりにならないようにしてください。

⑷ 先祖供養のお経

なんにもいりません。無かったら、なんにもいらん。
もしお坊さんにいいお経をもろうてもらうのやったら、自分で観音経を唱えたらいいし、オンソラソバテイエイソワカを100遍いうてもいいのです。
村の坊さんに拝んでもらうのを聞いたら、たんとお布施包んだらいいと管長さんいうてはった。
お金を包む、返すことのできる人はエエは、包めん人もあります。
包まんかって、仏は成仏します。
お家の辯天さまの前で、南無辯才天、南無辯才天と100遍唱えていたかて、仏さん感じます。
できなければそうなさいませ。できるだけね。
管長さん言うてはったな。方々の坊さんようけ呼んで。お布施包むことで仏が成仏するのやというてはった。
それは、私の考えに反対することになりますからいいませんけど。
包む返すお金が無かったら、別に無理にしなくても良いが、おしいなこの坊さん呼んだらお布施なんぼ包まんならん。
お金がおしい思うたら、そのもらったお経はあきません。
それよりも一生懸命南無辯才天でも、オンソラソバテイエイソワカでもいい。
観音経でもいい。お唱えすれば仏が成仏します。
仏を成仏させると己が幸せになるのは間違いありません。
商売に、縁談に、病気に、願っていることがことごとく御利益頂けます。
明日に起こってくる災難を、それは不思議に逃れて行きます。
なんとなんと奇跡の、あの不思議の起こることといったら、昨年の11月に拝んであげてから、こっち御祈祷している間は良かったけれど、あと、2月以上もその人のことで、御祈祷してても、もう次に何もいわれへんな。いいわと、次から次とたんとあるので忘れているうちに、また次死ぬ。
また次死ね。かわいそうなことになります。
理屈でゆうたら、かわいそうにもなんにも引っ張らんで、ええてなもんですけど。
餓鬼道に落ちた霊は、自分は、お経の力で引き揚げられなければならないときは、だれか、おうちの子供でも取って、やっぱりお経をあげるお催促を受けます。
道の辻で死んだり、踏切で死んだら、また次に踏み切りで自殺やります。
やったものが呼ぶとこういわはります。あれはな。お経が足らんのです。
お経上げてやることによっていいとこに行く。参って行くのです。
仏が毎晩迷うてる。私たちが幸せになるためにそれは絶対にダメなんです。
今の世の中でも、何1000年も進んだ世の中になっても、この魂の浮かばないということは、いつまでたっても、決して変わるものではありません。
どんな世の中がこようと、仏のことはいうてたらあかんわていうことは絶対にありません。
これはお経にないことです。