18年水の章5講法話

18年6月4日(日) 水の章5講小竹祥善講師法話
(編集項目:ブログ者記)
1 父の日
2 切れず離れず流るる心、これ辯才天の御心、まこと心と言うなり。(4)
⑴ 辯才天の御親の心であるまこと心は、切れず離れず流れる心がポイントで
す。
⑵ 理性と信仰
⑶ 福祉の原点と御親のまこと心
⑷ 「相手とともに」
3 水の行方は好みなく流る。うるわしき、醜き、芳しき、臭きに関わりなく、何処へも、下(しも)へ中へと沁みいるなり、これが真、辯才天御親のみ心なり。(5)
⑴ 好みなく流れるということは条件を付けないと言うことです。
⑵ 水には流れるという条件があります。
⑶ 人に尽くすということで、20年前に子供に話したこと
⑷ 何処へも、下へ中へと沁みいるなりが大事であります。
4 水は方円の器に従う。器丸くば丸とならん。四角ければ四角とならん。これすなお、角のなき御親の心なり(6)
⑴ どんな器でも器の形に合わせて修まることからすなおな心を表わしていま
す。
⑵ まとめ
5 成長するその心の行く先 マザーテレサの話




1 父の日

5月の母の日では蟹工船尾作家小林多喜二が拷問を受け死ぬ時に、母に信じられた子は天国に行くので私も天国に行きますと言って死んだ話をしました。
6月の第3日曜日は父の日で、花はバラです。今日は子を思う父親である野口雨情の話をします。はぶの港、しょじょ寺の狸囃子、15夜お月さん、七つの子、船頭小唄(俗称:枯れススキ)の作詞者です。
結婚しても子が授からず、8年目でやっと娘を授かり、目に入れるほど可愛がっていました。童謡の普及に他所に出かけていた。2歳になって娘が伝染病にかかり危篤状態になった。雨情は旅先から帰ってくるが、死に目に会えなかった。それから生活が荒れ、毎晩お酒を飲み、自暴自棄になった。周りの人が注意してもなおらなかっらそうです。ある夜、夢に出てきた娘は泣いていた。その姿を見て雨情はあの世にいって合わす顔がないと心を入れかえました。少しでもお父さんこんな立派な仕事をしたよ。つらい悲しいことに負けず頑張ったよと娘に言いたいと思い、生活態度を改めたそうです。
2歳でなくなった娘を思って作った歌が「シャボン玉」です。
シャボン玉とんだ。屋根まで飛んだ。屋根まで飛んで壊れて消えた。
シャボン玉消えた。飛ばずに消えた。生まれてすぐに壊れて消えた。
風風吹くな、シャボン玉とばそ。
すぐに死んだ子をはかない命のシャボン玉にたとえています。子を育てる間に色んな事があったでしょうが、両親が子供には夢を託すとか何かしたいと思った時期があったと思いますと父の日、母の日を通して、両親の思いを振返ることがあっても良いと思います。おられると孝行し、なくなった両親であれば供養して頂きたい。
親もつらい苦しい事があった。酒を飲んで暴れることもあるでしょう。これは人間ですから当たり前と思い、過去の親の行動のつらいことにはこだわらないで、親が酒をのんでも雨情のような気持ちもあることを理解しすれば、親子の因縁に対するわだかまりが変わるのではないかと思います。

2 切れず離れず流るる心、これ弁才天の御心、まこと心と言うなり。(4)

⑴ 弁才天の御親の心であるまこと心は、切れず離れず流れる心がポイントです。
水の流れにたとえて表現してありますが、生活の言葉に代えると私は「見捨てられない心」と考えます。
この心は自分と相手とはどういう関係にあるのかを表現したこころです。見捨てられない関係です。なくてはならない・かけがえのない関係であり、相手であると考えるのが御親のまこと心であると解釈します。あの人のお陰で存在している。私にとってなくてはならない大事な人であるというところまで心を持って行き、自分と相手との関係を理解する。

⑵ 理性と信仰
橋本から河内長野に行きますのにキミ峠があり、この出身者で岡潔という数学者がいます。この方に、信仰と理性の違いについてという話があります。他人の気の毒な場面を見て、かわいそうな人の悲しみが分かるのが理性だそうです。だから私も悲しいと自分のことのように思い他人事ではなくなり一体に悲しい思いをするのが信仰だそうです。相手にぴったとくっつき自分自身のことのように思う、自分の家族、子供と感じられるそこまで行くのが信仰だそうです。私達もこういう考えを育てて行きたいと思います。

⑶ 福祉の原点と御親のまこと心
女性である熊本県知事の潮谷さんのご主人が慈愛園という福祉の施設を経営されています。このご主人が福祉の心の研究として、英国人でクリスチャンのデミアンさんの話を読まれました。
デミアンさんはキリスト教の布教師で、ハンセン氏病患者の隔離地であるハワイのモロタイ島に布教を命ぜられ赴任しました。話を聞いて貰えない状態が続き1年経ったある日、キャンプファイヤーを囲み談笑していた時の火の粉が自分の腕に飛んできたが、熱くない、病気に感染したと思った。自分もハンセン氏病になったと思い今まで皆様方、あなた達と呼びかけていた言葉を、私達に変えたところが患者さんが話をきてくれるようになった。この話から、福祉とは、お世話する方、される方ではなく他人と自分は一緒である。相手との間に線を引かないことが福祉の原点であると潮谷さんは学んだそうです。
相手と自分がぴたっと一緒になる。この関係がここでの御親のまこと心ではないかなと思います。
悲しいことが自分のことのようになり、他人のことではないという段階まで心を磨かないと御親のまこと心にはならないのではないかと思います。

⑷ 「相手とともに」
「相手のために」という表現しますが、切れず離れずという言葉から、「相手とともに」でなくてはならないと思います。
何かあった時にお世話に行き、終われば帰るこれはその人のためにお世話をする事で、切れず離れずともに流れるではないので、「相手とともに」より楽です。「相手とともに」の場合は、きついし、責任も重いし、汚れることもあります。言葉では「相手のために」と使っても、心は「相手とともに」でなければならないと思います。何時も一緒におってあげてください。その人とともに信仰する。その人と行をする。離れられない関係を維持してください。

3 水の行方は好みなく流る。うるわしき、醜き、芳しき、臭きに関わりなく、何処へも、下(しも)へ中へと沁みいるなり、これが真、弁才天御親のみ心なり。(5)

⑴ 好みなく流れるということは条件を付けないと言うことです。
私達は、すぐ条件を付けたがります。私達の条件は、好き嫌い、損得、都合、利害です。これは流れを止める条件です。好き嫌いをいわない。損得で動かない。自分の都合をいわない。

⑵ 水には流れるという条件があります。
高いところから低いところに流れるということです。低いところに行けば更に低いところに流れます。低い所に流れるということが唯一の条件です。しかも低いところに一方的に流れます。この流れるということを別な言葉で表わすと、自分から出す、尽くす、与えるということです。しかも清水になるために、綺麗になるために出すのですが、自分から相手に流れ出す。そこには幸せになるための救いを伴っていると思います。

⑶  人に尽くすということで、20年前に子供に話したこと
人に尽くすということで、20年前に子供に話したことですが、宗派が真宗
ですから地獄極楽の話をきて育ち、地獄と極楽の話を子供にしたことがあります。
地獄極楽がるがどちらも自分で作るものであるという話です。中華料理を食べるときを想像してください。テーブルにはおいしい料理があり、2メートルの箸が置いてあります。2メートルの箸で料理を食べようとしています。地獄は、箸で掴む事はできても、箸が長いので自分の口に料理を持ってくることができないことです。極楽は、まず長い箸で料理を掴み、向かいの人に食べてもらい、自分は向かいの人に食べさせてもらうのです。地獄極楽は同じ条件にあり、箸の使い方一つであると話しました。
長男と末っ子は素直に納得したのですが、次男は、2つおかしいところがある。1つは、相手に食べ際しても帰ってくる補償はないといいました。
食べさせて貰えるか分からないことを当てにするな、だから不平や不満が出ると教えているのが般若心経だ。
人を相手にしてはいけない。お前がしたことをしっかり見ておられるご本尊様を相手にしなさいこれが信仰の世界だ。神様がおられると話をしました。
2つ目は、2メートルの箸を長く持たずに短く持てば自分で食べる事ができる。
出すということばでこの話を思い出します。自分の中にあるものを出すその方向が真心です。従ってできないことはありません。病人には、貴方の病気快癒はご本尊様にお任せしてください。貴方は他人にできることであるありがとう・ハイを出してください。

⑷ 何処へも、下へ中へと沁みいるなりが大事であります。
これは、人に尽くす時の大きなポイントです。何処(いずこ)にもとは、どこにもですし、相手を選ばないということです。人間は相手を選びます。あの人だからあの人のためにはするとかしないとかでは駄目です。しもにとは、相手に偉そうにしては相手は何も聞いてくれません。やさしくすることや謙虚にすることが低い心です。幾ら良いことをためになる事を話しても相手が聞いてくれなくては何もなりません。話をする前から心構えです。
中へとは、肥料と思ってください。(大根の絵を描いて肥料との関係を説明した。)肥料は、そのままでは大根の肥料になりませんので、だんだん形を変えます。大根に吸収してもらうために変化します。自分が変わって相手の中にとけ込んで、相手を変えます。相手にとけ込んで相手の成長を助けます。肥料は、自分があるうちは駄目です。自分でなくなります。そして相手の役に立ちます。相
手の役に立つと言うことは相手が変化することです。
信者さんの中で相手の代わり私がしてあげるということがありますが。これは本当の役には立っていないのです。表面的帳尻を合わせただけです。本当に相手が変わるお世話をするのが肥料ですから、中にとけ込むような、自分を棄てたお世話でなくては本当のお世話ではないと私は思っています。
沁みこむとは、速度です。相手に合わせた速度です。私達が信仰して20年経ち、1~2年の新しい方が弁天様はありがたいといってもこれは20年の信仰を通したありがたさですから、1~2年の方には分かりません。相手にあわせて、ジワーと沁みいるようにゆっくり沁みこんでください。
相手を選ばないということ、どんな良いことでも心が低くなければ駄目であること、相手の肥料にならなければ駄目であること、相手に速度を合わせて行くことがここでの真心のポイントだと思います。

4 水は方円の器に従う。器丸くば丸とならん。四角ければ四角とならん。これすなお、角のなき御親の心なり(6)

⑴ どんな器でも器の形に合わせて修まることからすなおな心を表わしています。
素直な心とは、相手に合わせる心を素直な心といいます。相手にあわせるということは相手を認めることであり、相手を受け入れる事です。
相手とは何か。毎日の出来事、出会いする人です。弁天宗の言葉では因縁です。出来事に合わせる。人に合わせる。自分を因縁に、出来事に合わせて行く。因縁を、出来事を認めて行く。因縁を、出来事を受け入れて行く。これはスタートラインです。
自分の周囲に起こっていること家族の病気、家族内がうまく行かない、何時も喧嘩をしている。隣近所と喧嘩する。そのことをまず受け入れることから始めるのです。レベルが違うと喧嘩にならなりません。
受け入れてどうするかは、何故受け入れるのかは、その出来事を通じてご本尊様の深い意味を学ぶのです。
こうゆう意味であったと知ると自分が変化する。これは成長することです。気に入らなくてもそうだなと受け入れるということは、受け入れられるように自分が成長しているのです。
信仰しているのに何故病気になるのだろうと思ったが、病気になって、ご本尊様のこういう深い意味があったのだなと分かった。こうして成長するのです。私は成長が悟りであり、救いであると思っています。
人間の心は絶えず元に戻ります。1度悟って成長しても元の木阿弥です。常に自分を反省する人が救われて行くのです。出来事で、対人関係で、病気で、事故でご本尊様のお計らいを学んで経験を積んで常に成長を繰り返します。私は素直な心が高度な素直な心にならなくてはなりません。高度なとはすなおな心に感謝と喜びを伴うことをいいます。受け入れる、仕方ないから相手に合わせる努力をしているとつまらない出来事でもすばらしい
ものがある事に気付き体験するとそれを感謝し、出来事の出合う前からどんなことに出合えるか出合える喜びや感謝の心で一杯になってくるのです。このように私達の心を育てることが大事だと思います。

⑵ まとめ
今自分の周囲に起こっていることを受け入れる。いやなこと、つらいこと、しんどいことでも、トラブルでも病気でもまず受け入れて、そこからスタートすることだと思ってください。人間はその繰り返しの中で元に戻る心を成長させて行くのです。

5 成長するその心の行く先 マザーテレサの話

ある男性がボランティアをするために、カルカッタのマザーテレサの施設を訪ねた。
ノーベル平和賞を受賞したマザーテレサは行き倒れた、身寄りのない人を死ぬまで手厚い看護で世話をしていました。ある男性は寝たっきりの方々の世話をする事になった。ある時寝たっきりの老人をトイレに連れて行ってくださいと言われ、ハイと言って背中に負ぶってトイレに連れて行き用を足して貰ったときに、はっとここはインドには、紙がないことに気づいたのです。しかもその老人には後始末をする体力もない。私はどうしたらいいのかとパニックになりました。混乱しているとマザーテレサの書いた1枚の紙が目についた。それには今貴方の前にいる方がイエスキリストですと書いてあった。この文章で思わず下を流れる川の水をすくっておしりを洗った。したことがないことをして緊張していたのか、顔を引きつらせて老人をベッドに運ぶ途中、後ろから肩を叩かれ、振り向くとマザーテレサで、もう1枚の紙を見るようにマザーテレサに言われた。
貴方も緊張すると貴方の側にいる方も緊張します。貴方が優しい心になるとその方も優しい心になりますと書いてあった。背中の老人は緊張してこわばっていたそうです。そこでマザーテレサに、スマイル・スマイルといわれ、無理矢理に笑ったら、マザーテレサもにこっと笑いました。これがその方のマザーテレサの施設での一番の思い出だったそうです。
貴方の前に左右に後ろにいる方がキリストではなく弁天様です。そのようにできる心が私達にはあります。マザーテレサの書いた、今貴方の前にいる方がイエスキリストですという世界に入って行かなければなりません。弁天様と喧嘩できますか。弁天様であればハイと言ってやらしていただきます。そうは思えないという方もいますでしょうが、そう思って頂くのが信仰です。私達はそのような信仰の世界に今いるのです。

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by nohara4241 | 2008-05-31 15:48 | 法話水の章