18年礼拝経5講法話

18年6月4日(日) 礼拝経5講  KA講師の法話
(編集項目:ブログ者)
1 雨と成長する草木
2 懺悔文
3 字句の解釈からお話しします。
4 このところでは懺悔するということが大事です。
5 人間は本来供養の生活をしなければならない。
6 懺悔ということである支部長様の話をします。
7 懺悔の必要性
8 お言葉集成5集ご本尊様に通じる祈りについて




1 雨と成長する草木

梅雨になると草木が成長する。育つ時期です。畑を3日ほっておくと雑草が生い茂ります。草木の回りに吸収する水が沢山降るからです。吸収しなくては成長しませんね。人間も同じであると思います。私達の回りにも色んなことがいっぱい起こってきます。この起きることから吸収することが成長するためには大変大事なことではなかろうかなと思います。しかし私達には心があるので、自分に合うものと合わないものを選別して、吸収したり排除したりしますから、思い切り成長する事は難しいかもしれません。
ヤマモリカズオ?(漢字不明)という方が「人はなんのために生きているのか」について問い、答えは「生きている時に少しでも魂を美しくする」ということだとありました。魂を美しくするためには、私達の身の回りに起きたことを選り好みなく、全部受け入れて成長につなげると魂が美しくなるのになあ思いますが、それは至難の技です。しかし成長につなげるためには少しでも心を向けて、受け入れるようにしなければなあと思います。

2 懺悔文

我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡 従心語意之所生 一切我今皆懺悔
懺悔とは
キリスト教的にはザンゲと読みますが、仏教的にはサンゲと読んでいます。読みからどうこうと言うことは
ありませんが、当宗ではサンゲと読んでいます。懺悔の語源はサンスクリット語のサンマーとうい言葉からでているそうですから、サンゲの方が語源に近いかなと思います。懺悔とは、罪科を悔い改めることです。従って懺悔しますと今までと違った自分になるということになります。これもなかなかできないことです。

3 字句の解釈からお話しします。

我昔所造諸悪業とは、我、昔より作れる諸々の悪業はです。皆由無始貪瞋癡とは、皆無始の貪瞋癡によるです。
無始が出てきましたがこれには無始無終と受け取ってください。私達の煩悩は抜き去ることのできないものであるということです。消し去ることではなく、抜き去ることができないということです。貪は「むさぼり」で、瞋は「いかり」で、癡(痴)は「おろかさ」です。3つ合わせて3業といいます。従身語意之所生とは、身と口と意(心)から生ずるものなり。身語意は、私達が身口意といってるものと一緒です。一切我今皆懺悔とは、一切を我、今みな懺悔し奉るです。通して訳しますと、我、昔より作れる諸々の悪業は、皆無始の貪瞋癡による身と口と意より生ずる所なり、一切を我、今みな懺悔し奉るということになります。

4 このところでは懺悔するということが大事です。

懺悔するといいますと私は生まれてこの方悪いことしたことがありませんよといわれます。殆どの方はそうだと思います。しかし、仏教的な解釈からは、すべての人間は懺悔しなくてはならなくなすのです。
キリスト教的な懺悔は、人間が生命界では一番上にいて、動植物は人間のために与えられたものですから人間は全部搾取しても良いということになります。仏教は違います。私達が生きるということは、何かの生命をいただいて生きているのです。生きている人間は殺生をしていることになり、殺生の罪を懺悔しなくてはなりませんと教えています。そのように解釈しなさいと教えているのが当宗です。

5 人間は本来供養の生活をしなければならない。

昔、私は何も悪いことをしていないのに、何で信仰しなくてはならないのかという男性の方がおり、お宗祖様は、生きているものはすべて殺生しているので、供養の生活をしなければならないと説明され始めて合点がいったという話があります。
何故供養の生活をしなければならないのか?
私達は生命をいただいています。お返しをしなくてはなりません。そのために尽くして行くという生活をしなければならないのです。尽くす供養して行くこれが本来の生き方です。これはもらうだけではなく、出さなくてはならないということになります。もらって出しもらって出す生活が本来の生活です。これを教えていますのが懺悔文です。

6 懺悔ということである支部長様の話をします。

支部長さんのお仕事は、支部の信者さんのお世話をすることです。色んな相談を受けます。信者の願いがかなうようにお世話をすることです。通常はそれでは辯天様にご祈祷しなさい。お百度を踏みなさいと指示されます。しかし、その支部長さんは、願いが成就するようためには、貴方はまず懺悔のお百度を踏みなさい。その後にお願いのお百度を踏みなさいと指導されました。
今までの言葉使い、心遣い、生き方で助けてくださいという事実が生じたのです。今までと同じ事をしていても助けて貰えない。今までと違う生き方をしなくてはならない事になります。
古い家の土地に新しい家を建てる時には、古い家を壊して新しい家を建てます。心の状態もこれと同じです。
心をまっさらにする必要があります。そしてお願いをするというのが正しい順序ではないでしょうか。
今までと変わった状態を作る。どう変わるかといいますとお宗祖様の教えに添った真心を作り生活をするということになります。

7 懺悔の必要性

懺悔は難しく、人間は横着でできないのです。しかし少しでも懺悔して教えに添うようにしなければなりません。
そのためには、私の方が悪いのですと言えることが大事です。もう一つは、ご本尊様への懺悔です。無始無終から、人間は煩悩を自分では抜き去ることができないのです。今良い人でも、時間が経つと心が変わり悪い人になるのが人間です。従って私達がよりどころとしておすがりするのがご本尊様です。人間はどこまで行っても真っ白にはなりません。しかし、私達は少しでも真っ白にするために、何時もなくすことができない煩悩をなくす懺悔をご本尊様に行い、魂を美しくするのが、お宗祖様のお示しになられたご本尊様に救われる生き方であると思います。礼拝の時も1番最初は懺悔で、2番は感謝で、3番目が祈願です。最初から最後までご祈願であるというには間違いです。心を真っ白にして、神の心に近づけて感謝をし、お祈りをするのだいうことからも懺悔が大事だということが分かります。

8 お言葉集成5集 ご本尊様に通じる祈りについて
(朗読前のお話)
祈る時の心を学んで頂くために、朗読します。勤行も大事ですが、勤行を形通りやっても心がむちゃくちゃではご本尊様に通じません。やはり通じるお祈りをして頂きたいと思います。

(お言葉集5集 80 「信じるからこそ信心」の「神様と心のキャッチボール」の箇所を朗読)

先日弁天宗のお仕事を手伝ってくださっているある女の方が、こんな話をしてくださいました。
その方には4才になる男の子がいらっしゃるんですが、その坊やが外で遊んでいたのでしょうね。石か何かに躓いて倒れまして、膝小僧にちょっとしてケガをして家に帰ってきたそうです。見ればスリ傷ていどでケガでたいしたこともなく安心されたわけですが、ともかく軽くても傷は傷だからと赤チン(赤チンキ、昔の消毒兼治療液)を塗って簡単に包帯を巻いてやりながら、「あんたがね、いつもいたずらばかりしているから、まんまんちゃんが怒ってバチをあてはったんや」坊やにいいますと、坊やがけげんな顔をして「まんまんちゃんてなんや」と聞きます。「まんまんちゃんて、日本で1番偉い神様や」と教えましたところ、何といっても相手は4つの子供です。直ぐには得心いたしません。「日本で1番偉い神様て、どんな神様や、何で日本で1番偉いんや」という風に次から次へと質問攻めにあって、はたと困ってしまわれました。「あのね、神様というのは、人間のすることを何でも見てはって、助けてくださる偉い偉いお方なんや」こういってなったくさせようとしますと、「そんな偉い神様やったら、なんで僕がケガをせんように守ってくれはらなんだんや」とまだ十分舌の回らない子供に聞かれた時には、返答ができず困り果てたということでした。
◎1
この話を聞いた当座は、“子供は正直で、ごまかしができんもんや”と皆で笑いあったわけですが、よくよく考えてみますとこの坊やの素朴な疑問こそ、大人の誰もが抱いている気持ちではないかしらと思ったものです。弁天さまとご縁を結ばれてからまだ日の浅い信者さんは勿論のと、何年も何10年も信心していらっしゃる方の中でも、また今までに弁天さまに救われ、大きな利益をいただかれたはず信者さんの中でも、ふっとこの坊やと同じ疑問を感じられている方がたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。
その証拠に「こんなに信仰しているのに、なんでご利益いただけへんのやろ」とか、「こうなる前に、なんで助けてくれはらなんだんやろ」などと文句をいったり、愚痴をこぼす人がいらっしゃいます。また、口に出さずともそういうことを1度でも心の中で思ったことのある人を数えればきっと大変な人数になるでしょう。
そう考えますと、わたし、とても情けなくて悲しくて“なんのためにこんなに一生懸命拝んでいるのやろ”という気持ちになってしまします。年端のいかない子供のいうことなら、まだ笑ってすませられますけれど、「お助け下さい」「ご利益下さい」と必死の気持ちで神様にすがっておいでになった皆さんが、神様の気持ちを疑ってかかるようなことをいったり、思ったりするなんて、とんでもないことです。
いつも申し上げていますように、ご本尊さまは意地悪をして、人を不幸におとしめたり、気まぐれで人を救ったりなさるのではありません。ご本尊さまはいつでも皆さんと共にあって幸、不幸ともどもに、そこにはご本尊さまの大きなみ心がはたらいているのです。それは人智ではとうてい計り知れない無限無辺のお慈悲です。ですからご本尊さまにお救いいただかれたかとも、まだ不幸の渦中にいらっしゃる方も、それは何故なのかということを自ら悟っていってくださることが、信心の第1歩だと申せましょう。
◎2
例えばキャッチボール、あれは2人が向かい合ってボールを投げ合い、受け合うという一見単純なスポーツです。勿論、わたしはしたことがありませんし、路上やグランドで若い人たちがやっているのを見るくらいなものです。あのキャッチボールにも、お互いの呼吸が合っていなければ、運動にも遊びにも成らないと思います。相手が投げたボールをこちらがしっかり受けとめて、また相手がうまく受けてくれるようにこちらもしっかり投げ返すという配慮がいるはずです。めちゃくちゃの方向にボールを投げて「相手が受けてくれない」と文句をいうのはおかしいですし、また受けようとすれば受けとめられるボールを外して「投げ方が下手や」と言いがかりをつけるのも筋が通りません。
2人の技量に差がある場合にしても、技に上の人が投げ方、受けた方に心をを配る必要がありますし、一方、技の劣る人はそれなりに上達しようと努力することが大切だと思うのです。
神様と私たちの関係もこれと同じです。いわば“心のキャッチボールをしているのだ”と考えていただきたいのです。
皆さんが純粋に祈りボールを投げられたなら、必ず神様のみ心に届き、大きなご利益となって皆さんの許へ戻ってくることでしょう。また神様が与えてくださるお慈悲に応えて、皆様も心からお祈りを捧げていかなければなりません。投げては受け、受けては投げ返す心の交流が不断になされているならば、神様の御心を疑う様な気持ちには絶対なれないはずです。
たとえ、皆さんが至心の祈りを忘れていることがありましても、神様は一瞬の間も休むことなく、「しっかり受け取れよ」と無限のお慈悲、ご利益を投げかけてくださっているからです。そのお陰を受け取るのも、受け取りそこねるのも結局は皆さんのお心次第だと申せましょう。神様を信じて信じ切って、誠のお祈りを捧げ尽くすことが大切です。
このように考えていただけば、信心とはどういうことなのか、少しは分かっていただけるのじゃないかと思います。まず何よりも信じることです。心から信じることこそ信心なのです。信じて祈るからその心が弁天さまに通じて、弁天さまから大きなご利益をいただくのです。
それなのに“神様って本当にいやはるのやろうか”とか“不幸になる前になんで救ってくれはらへんのやろ”と始めから神様のみ心を疑ってかかる気持ちでいては、幾ら「南無弁才天」と唱え、お祈りを捧げても、それは口だけ、形だけ、心にまことの信心ができていないのですからご利益をいただかれないのも当然です。
そういう気持ちを少しでも抱いている人の信心は、本当の信心とは申せません。それは信心ではなく心に疑いがあるのですから、疑心です。疑心がある限り、幾らお祈りのボールを投げたところで、神様のみ心に届きません。必ずまた自分のところに戻って参ります。戻ったボールには、自分自身の疑心が一杯詰まっているのですから、ますます皆さん自身が苦しむばかりです。
この事をよく心におさめて頂いて、神様と正しい信心のキャッチボールをしていってくださるようにお願いいたします。そうして大きなご利益のボール、喜びのボールをたくさん受け取られて、幸せになって頂きたいのです。

(朗読後のお話)
神様に受け取って貰える祈りを常々して頂きたいと思います。先輩信者さんに相談し1度でなく何度でも繰り返し信心を勉強して通じるお祈りをしてください。お祈りのときは心を無心して、大きなものに任せる事です。無心は心がないのですから、とらわれない心です。すべてご本尊様に預けて、祈りに徹するということが無心ということです。できなくてもできるように努力しましょう。
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by nohara4241 | 2008-05-31 15:44 | 法話礼拝経