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道険しかりし(私の歩いたみち)5

道険しかりし(私の歩いたみち)5
道険しかりし(私の歩いたみち)4の続きです。

(編集項目:ブログ者)
28 研修科1日の午前の行
29 研修科の質素な食事と食事作り
30 研修科1日の午後の行
31 百姓仕事(今は宗に田も畑もありません)と貴重な体験
32 苦しい柴刈り仕事と喜び
33 研修科1日の夕方から夜の行
34 研修生の指導
34 研修生との起居生活と宗祖さま管長様の夢

道険しかりし(私の歩いたみち)1にリンクしています。




28 研修科1日の午前の行

朝は1日の大事なスタートです。
心弾んで見事にスタートを切らなくてはらないのに、好きなだけ何時までも寝ていては、人生という競技に遅れをとってしまいます。
常に計画を立て太陽と共に起きだし、目的に向かって努め励んでこそ充実した意義ある人生を送って行くことができます。
だから早朝起床は人生を前向きに生きる姿勢を養うためなのです。
同じ午前5時起床でも夏はもう明るく、早く起きれば却ってさわやかな朝の冷気にうたれ気持ちがよろしいが、冬は外は真っ暗だし寒いし冷たいしなかなか起きにくく努力がいります。
起きようとすればいやが応でも自分にとらわれている心を、思い切り突き放さなくてはなりませんから、早朝起床はつまり自我への挑戦の行でもあります。
又、掃除に明け暮れる生活はすべての場を神様の体の一部として受けとめ、真心をこめて丹念に掃き浄め、吹き浄めさせていただくことによって、神仏に仕えさせて頂く姿勢を培い、同時に掃除を通して自身の心の汚れを取り除き、自身を磨いていくことになります。
お釈迦様のお弟子に、自分の名前さえ言えず、札に名前を書いて頂き、肩に担っていたお馬鹿さんの周利槃得が清掃を徹底することによって悟りを開いたと申しますが掃除に徹することだけでも、悟りへの道が開かれるものなのです。
研修科でも100日間便所掃除を引き受け、とうとう「便器も生きている」と名セリフを吐いた人がいます。
何からでも神様への道は通じているものなのです。
なお祈りに明け暮れる行は、祈りを通じて神様とコミュニケーションを計り、神様と一体にならせて頂くための必要欠くことのできない行として行います。
教えの学びに明け暮れますのは、ご本尊さまのみ心を学び、自身を見つめ、神様の子として更生していくためなのです。
具体的には、朝は春夏秋冬を問わず午前5時に起き出し、直ちにとこをあげ身繕いをし洗面を済ませて、午前5時10分には、お天気ならばお百度石の前に集合し、各斑ごとに点呼し人員報告を行います。
点呼はかなわず次の行動に移る時の決りであり、節度をつけるために行います。
人員報告後は後は朝のお祈り、ラジオ体操、その後は女子の炊事当番は朝食をつくり、その他は斑ごとに本堂、教堂、便所、境内、門前の道路、溝掃除の5箇所に別れ、午前6時の朝勤めの予鈴がなるまでの半時間余りを霊場すべてをご本尊さまのお体と受けとめて、塵1つ残すまじ、草1本残すまじと、真心の限りをぶっつけて丹念に各所を浄めさせて頂きます。
冬などは雑巾掛けをすると直ぐ凍りついて、ツルツルになることが幾度あったことでしょうか。
それでも皆、黙々として拭き浄めていきました。私もまた自分の行として皆とともに掃除に加わりました。

そして午前5時50分の朝勤めの予鈴と共に教堂の廊下へ集合、点呼を済ませ、粛として本堂へ入り朝勤めを行い、そして朝食。朝食は粥と漬物のみ。午前7時には、はやお百度石の前に集合、点呼。舞台は十輪寺に移り、午前8時までの1時間を十輪寺の内外全域にわたり丹念に浄めさせて頂きます。
道場内の掃き掃除、拭き掃除は勿論のこと、ガラス拭き、便所掃除、中庭の草引きと掃き掃除、本堂の欄干・階段の拭き掃除、十輪寺前の広場の草引きと掃除、チベン保育園(以前は本堂裏のあったが今は駐車場になっている)から本部の門前にいたる溝と掃き掃除…と結構1時間では時間が足らないくらいの広範囲を皆で手分けして浄めさせて頂きます。
講義は午前8時から50分単位で10分休憩、ひるまで4時間消化します。
但し4時間目は、女子が炊事当番ですから講義に代わって写経をします。
この写経は卒業までに100巻を目標にし、ひたすら机に向かいます。
研修科で行う写経は、祈願成就のための行うのではなくあくまでも精神修養の一端として行います。
理由は、本宗は教理信仰によって救って頂くのがメーンですから。

29 研修科の質素な食事と食事作り

昼食は御飯と漬物とあと1品だけです。
神立は魚の日、カレーの日、野菜の日、干し魚の日ありでした。
但し日曜日は予算に少々アルファしてちらし寿司をつくったり、フライの各種をつくったりしてお楽しみの日々として皆この日をとても待ったものでした。
夜は御飯と漬物、みそ汁これだけの内容の最低限の食生活でした。
家でご馳走を食べてきている人たちは、栄養失調になりはしないかとさかんに心配しましたが、青い顔をした人もいつの間にか頬に紅がさし、ふっくらと肥えてきて健康体になりました。
面会に来た父兄は、この様子を見て「家では栄養のあるものを与えていても一向に顔色が良くならないのに、研修では一体どんな良い物を食べさせてくださっているのですか」と不思議そうに尋ねられたものでした。
食べ物に対する心の受け入れができるからなのですね。
色んなものはお金を出しさえすれば、何でも買うことができますが、お米でも野菜でも果物でも作るためにお百姓さん達は言うに言われない苦労をされますし、お魚だって夜を徹して暁をついて漁をしてくださる漁師さん達の苦労があってこそ、頂くことができるのですと…いう風に。
これらの方々に感謝の念を送り、又すべての物は、私たちを生あらしめるための神様のお恵みであること、神様のお恵みに手を合わせ、又私たちの生命を保ち、体の各所を養うために犠牲になった食物に感謝し、又、お料理をつくってくださる方の真心に対しても、手を合わせつついただく。
この料理をしてくださる方たちへの感謝ですが、研修科では自分達で食事を作りますからそれがどれほど気を使い、大変な物なのかを体験させて頂くことができます。
御飯も今のように電気釜へ洗い米を入れ、お水を入れ、スイッチを入れさえすればフックラとした美味しい御飯がわけもなく炊けますが、当時は洗い米を釜に入れ、水加減はお米の上に掌をのせ、踝(くるぶし? ブログ者は母から人指し指の第1間接の皺まで水を入れることを教えられた)を目安にしてお水の分量を決め、古米ならは少々水増しし、釜の下に蹲(うずくま)り、火吹き竹を吹いて空気を送り、煙で涙を流しつつ、釜の底で火が燃えているかを確かめて、炊き続けなければなりません。
「始めチョロチョロ中パッパ………」の要領で。
でないとお水の加減も勿論影響しますが、火加減も多分に影響し、どうかすると芯の入った御飯ができたり、固い御飯ができたり、お焦げができたりします。
お菜も美味しく作ろうと思いつつも、甘かったり、水臭かったり、辛すぎたりして、当番に当たった人達は、皆さんが箸を置かれるまで、今日はどうだっただろうか、おいしくいただいてくださっているだろうかと、気が気ではありません。
家ではお母さん任せで、甘いとか、辛いとか文句ばかりをいい、作ってくださっている方の苦労など分からなかったけれど、十分で実際にやってみて、始めて食事を作る人の苦労が身にしみて分かり、心から感謝して頂くようになりました。
こうして神様の恵み、食事を作る人の苦労、はたまたお百姓さん漁師さん酪農家の方たちにも、又食品に対しても感謝の心を持ち、心の中で手を合わせていただけば、栄養価の上からは最低であってもすべての栄養を100%吸収し、血となし肉となしていくことができます。
いくら栄養価がある物でも、不測小言を言っておれば栄養をはねつけていることになり、身には付かないものなのですね。
こうした事で、私は研修科では、食事は自分達で作らせて頂ければいい行になると思います。
又質素は食生活をすると食べ物の本当の味が分かります。
もう早30年から経ちますが、研修の話がでますと決まった「あれ美味しかったなぁ」と粥の話が必ず出ますのも、そういう生活をした者のノスタルジアでございます。

30 研修科1日の午後の行

食事の話から元に戻らなくてはなりませんが、午後からは身の行になります。
理趣経や観音経のお稽古、勤行基本、宗歌その他情操を豊にと歌のいろいろの練習、時にはお花やお茶の稽古、又短歌を作り、俳句を作り、それを色紙や短冊に書き行の想い出として残したり、いろいろの試みをします。
午後3時から午後4時までの1時間は、真心の実践行としてまこと行があります。
今は、祭典行事は主管教区によって準備し、本番に臨み後片づけもして頂きましが、当時はまだまだそのようなシステムにはなっていませんでしたし、だから研修生によって祭典行事を予測しつつ、前もって準備をすすめました。
例えば春の大祭を控えている時は普通護摩木にはゴム印で判を押しますが、特別護摩木には七輪で火をおこし焼きゴテで判を押します。
この焼きゴテの火加減が何と難しかったことか。
お盆には先祖供養を行い灯ろう流しが行われますが、灯ろうは始めの頃は500~600くらいの数でしたので、紙に手書きで模様を描き、箸を削って台板の四角に挿し、紙で周囲から囲み、手作りの灯ろう流しだったことを懐かしく思い出されます。
祭典の後は宗祖さまご厚意のすき焼きで慰労会を催し、労をねぎらってくださいました。
平素口にできないすき焼きの何と美味しかったことか。
このように気配りしてくださる宗祖さまのみ心に応えなくてはとお互い心に励みをもったものです。
こうして祭典行事の準備を早くからしたり、後片づけをしたり、又境内の砂利はまだ川へ採りに行っても法に触れない時でしたから、リヤカーを引き遠くの川へ何回も出かけ綱で引いて帰り、境内にばらまきました。

31 百姓仕事(今は宗に田も畑もありません)と貴重な体験

又、畑もあり、田もありましたから草引きなども随分させていただきました。
秋には総出で稲刈りをしました。
殆ど町の人達で釜を持つのが初めてという人達ばかりです。
いまでこそ百姓仕事も機械化し昔のような造作が無くなりましたが、昔は中腰になり何もかも手作業でそれはそれは大変な苦労でした。
百姓仕事ができればどんなことでもできると言われるほどに。
1株1株を満身の力を振り絞り、腰を屈め足を踏ん張って稲を刈り、刈った後は稲束ねです。
これまた中腰でしなくてはなりませんから容易なことではありません。
腰は痛くなるし、手は逆むけがしますし、風呂に入ればヒイヒイ言うほど染みます。
足なども太ももにみが入り座るに座れません。
稲刈りだけでなく、脱穀もまた研修生の仕事でした。
垣根から稲を降ろして運んでくる者、稲こき機械を踏みつつ籾を落とす者、脱穀後のワラをすすきに積み上げる者…という風に皆で手分けして作業をしますが、脱穀仕事はハシカクテ、ハシカクテ入浴がどれほど待ち遠しかったことか。
百姓仕事を実際にやってみて、身に染みて辛さしんどさがイヤというほど分かります。
それまでは「一粒の米にも万人の力が加わって……」と上の空で言っていた食事作法の言葉なども、心の底から唱えられるようになりますし、一粒のお米も、血の滲み出るようなお百姓さんの苦労の賜だから勿体ないことをしてはいけないと大切にして行くようになります。
作業は辛いけど、体を通して貴重なことを分からせて頂くことができたことはとても有り難いことです。

32 苦しい柴刈り仕事と喜び

また、冬の期の人は賀名生の山へ毎年弁当持ちで柴をしに行きました。
研修科の生活は本部と十輪寺が行動範囲でした。
山柴作りはどれほど困難が伴うかも知れないのに、拘束された生活から、自由な世界に羽を伸ばすことが、とてつもなく嬉しく、弁当持ちで行くことも更に嬉しさに拍車をかけうずうずしたものでした。
行けば最後、くりから峠ほどの急な坂を登り、倒してある樹々の枝を払い、適当に束ね、縄で背負子(しょいこ)にして2束ずつ背負い二山三山も急な坂を登り降りして何回も何回も麓のバス通りまで皆汗ダクダクになって運び降ろしました。
これも実際自分がやってみて、柴を作ることの苦労がイヤというほど分かり、一切れの木切れも大切にするようになりました。
又、平素は平坦な道を歩いていても、有り難くも何とも思っていませんが、今にも息が切れそうになり、一歩も足が前に進まない急な山路を登り降りして、平らなところを歩かせて頂くことの有り難さも分からせて頂くことができたものでした。
それに汗を出しきった後の入浴の何とサッパリしたことか。
私たちは極力辛いこと、苦しいことを避けて通ろうとしますが、苦労は決して無駄ではなく、必ず反面(楽しいこと)を得ることができます。
いろんな学びも苦労というフィルターにかけて分からせて頂くことができる打出の小槌ではないでしょうか。
苦労と喜びは隣り合わせであり、これまた神様が私たちをsだててくださる恵みではないかと思います。
昔は研修科では体を通して学び取ることが多々ありました。
今はもう薪でものを炊く時代ではなし、宗の田圃もなくなり、稲刈りも稲こきもできなくなりましたが、研修科では体で学び取る行が多ければ多いほど良いのではないかと痛切に感じます。
今でもこれらの辛かったこと、苦しかった想い出の数々が、ムクムクと頭をもたげその当時の面影を偲ぶのでございます。

33 研修科1日の夕方から夜の行

さて日課の続きですが、まこと行の後午後4時から夕べの掃除、午後5時から夕食、午後6時から夕勤め、午後7時から自己整理。この自己整理はノートを整理したり、写経が遅れている人は写経をしたり、手紙を書いたり繕い物をしたりして、この時間だけは唯一自分が自由に使える時間でした。
午後8時から入浴、午後9時から神通念を行います。
神通念は本堂で明かりを消して神様と対峙し、1日の自己反省をし、明日への修行のステップと致します。
こうして息をつく間もなく矢継ぎ早に繰り広げる行も午後9時には消灯し、漸く1日の幕を閉じることになります。

34 研修生の指導

担当するものは皆と共に起きだし、すべて行動を共にする生活です。
まこと行も計画し、食事の献立も買い出しもし、時には料理を一緒に作り、経の稽古をしたり、礼典(?行儀作法でしょうか)や歌を教え、宗祖伝の話、入浴の引卒、まこと行の計画、神通念と全くめまぐるしい生活です。
こうして人前に出てお話をするのが嫌で学校を辞めた私が、又人前に出ることになったのです。
これは私にとっては1番苦手なことです。
苦手なことであっても敢えてして行かなければならないのも私に科せられた行だと思い、今も冷や汗をかきつつ皆様に詫びつつ下手な話をさせて頂いています。
皆から解放されるのは午後9時半の消灯後でした。
研修卒業と共に大命を拝し、とてもじゃありませんが話す内容をもっていません。
眠い目をこすりつつ鉢巻を締めて毎晩遅くまで勉強もしなくてはなりません。
やがて、梅木先生が昼話されたテープの掘り起こしをすることになりました。
1時間の話でも、何回も何回も聞き直しつつ筆記して行く作業は並大抵ではありません。
早くて午後12時過ぎ、どうかすると午前1時を過ぎることが多々ありました。
でもその日の分は、その日に片づけておかなくては、1日の分でも大変なんですから泣いても笑ってもその日の分を片づけなくてはなりません。
教理が24講済めば、礼拝経、宗祖伝、史伝が控えていました。
今は辞めておられますが、一時研修科のお手伝いをしてくださった先生は、この掘り起こしの原稿を元にして、ガリ版(白色コピーの前身青色コピーができる更に前の簡易印刷機、別名謄写版)刷りをしてくださいました。
根気の良い先生でしたが、とうとう机の前に「私でなくてはできないこの仕事」と貼り紙をし、毎日毎日机に向かってくださいました。
今お運びの先生方の講義の虎の巻はこうしてできたものでございます。
この仕事がプラスされて、睡眠時間は更に短縮され、よく寝て5時間大抵は4時間くらいでした。
病人が出た時などは徹夜で介抱することがしばしばでした。
当時はまだ少々若かったからどうにか次の日も続行することができたもののフラフラでした。

34 研修生との起居生活と宗祖さま管長様の夢

研修科の担当は、学校と違い起居をともにし、共に行じ魂のふれ合いを計りつつ四六時中の付き合いでしたから、ホッとする間もない生活でした。
神経を病んでいる人が5~6人になりますと昼夜の世話で本当に七転八倒の生活でした。
私自身ができておればそれほどでもなかったでしょうに。
真剣身に応えました。
自信が苦しむと共に研修の皆さんにも随分迷惑をかけたと思います。
多年にわたり自分の枠内でしか生きてこなかった生活から、一転して常に皆によかれと他に心を転ずる生活になり、子に対する親の気持ちも痛いほど分からせて頂くことができました。
皆さんの一言、皆さんの些細な所作に一喜一憂しつつの生活で、何事もなく1日を無事過ごした時は、心からご本尊さまに感謝したものです。

今日の日も、行つつがなく終わり、ひそかにも
首(こうべ)垂れいる祖神(おやがみ)のまえ

私の歌集に登場する一首です。
性格が内向的で気の小さい私にはひどくこの生活がこたえ、遂に欲も得もなくなり、因縁なんか解いて頂かなくても良い。
この生活から解放されたいとしばしば思いました。
ところが家に帰ると宗祖さまも管長様も夢に出てこられにこやかに「私も苦労しましたよ」と仰り、すーっと姿をお隠しになるのです。
この一言で、そうだ辛いからとて、私は宗祖さまのように警察に再三引っ張られたこともないし、又寺から出て行った下さいと言われたり、新聞に書き立てられたり、お勤め故に肉親が生命を失うこともない。
この宗祖さまのご苦労に比べれば足もとにも及ばないではないか。
だからこんなことくらいでお手上げになっていては申し訳ないと、そうそう宗へ戻ったものでした。
当時、宗祖さまもご苦労の最中で下。
睡眠時間もなく身も心もくたくたに疲れ果てているけれども、宗祖さまもっともっとご苦労されているのだから私も頑張らなければと。
もっぱら宗祖さまに目を向け及ばす乍ら、お役目を続行していたのです。宗祖様に目を向けなければ、とっくの昔にお手上げになっていたでしょう。
宗祖さまが私のガンバリの支えでした。

道険しかりし(私の歩いたみち)6に続きます。
by nohara4241 | 2008-05-03 10:07 | 講師の回想