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道険しかりし(私の歩いたみち)4

道険しかりし(私の歩いたみち)4

道険しかりし(私の歩いたみち)3の続きです。

(編集項目:ブログ者)
19 布教師講習所
20 始まったお運びの話
21 お運びに関して宗祖さまの諭された心構え・態度
22 宗祖さまの願われた幸せになる行
23 研修科(当時は修養科)4期生
24 因縁因果を、自己の因縁を知る
25 喜びと感謝の因縁解き
26 振り返って思う最高の行でした
27 ご神示で梅木先生の研修科お手伝いをする

道険しかりし(私の歩いたみち)1にリンクしています。




19 布教師講習所

だが、9分9厘まで助けて頂きつつもうあと一息というところで、どうにもならなかったのです。
すでに大和本部の落慶祭典が済み、昭和30年3月10日から布教師講習所が開講され、100日行が始まっていました。
この100日行は、只ご神示を受け、お詣りをしているだけでは救われない、深い因縁故に苦しみ、困っている人達を、足の裏に土を付けただけでも、因縁を解いて下さるという霊地へ招き、神様の内懐に抱かれつつ100日間、明けても暮れてもみ教えを聞き、悟り、かつみ教えを行じることによって、どの様な深い因縁で苦しむ人をも助けようとして始めて下さったのでした。
1期生は、初めての試みでしたから、講元さん(支部長の前身)や古くから熱心にお詣りしている人の中から募集し、総員22名で発足しました。
3期生までは卒業後は教えを受けた道の先駆者として、布教という指名を課せられていましたので、布教師講習所という名目でした。
そして、得度もうけ、法名をそれぞれ与えられました。
ところが4期生になって、参加者の様相ががらりと変わり、信仰の「し」も知らぬ若い男女が大半でした。
ともかく修養してい頂こうと言うことで、修養科という名称になり、やがて験修科、そして研修科と文字が変わり、昭和57年9月35期生からは人材養成をキャッチフレーズにして、研修学院と改称し現在に至っています。
この研修科(当時は修養科)に最後の願いを託して、1年中で1番寒い寒行の時期を選び、100日行に参加させて頂きました。
この4期生開講と共に、一方では研修別科お運びが始まりました。
時々研修生でもない人が、午後4時から私たち研修生と共にお掃除に加わり、夕食も夕勤めも一緒、1泊して、その後も修養生と終始行動を共にし、4時に真行(まことぎょう)終了とともに帰って行かれました。
御所の中本長易さんが記憶に残っています。
「あの人修養科でもないのにどうして私たちと一緒なんだろう」
「お運びというのが始まっているらしい」ということだったのです。
その後、お運びさんは2人、3人と増えていきました。

20 始まったお運びの話

これからしばらくお運びの話に移らせて頂きます。
霊場で3月(みつき)100日の行に勝る行はありませんけれども、いくら善いことであってもこの行は万人向きではありません。
宗祖さまは、在家からでもこの研修科に匹敵する行、研修科に準ずる行をと、いろいろお考え下さり、月2回のお運びを始めて下さったのです。
ところが、参加しにくいだろうからと「朝は8時半から午後2時まで」と変更されました。
場所は研修科とは別に、教堂でご神示のお休みの日に設定されました。
お話もお運びに魅力を持たせるためにと、宗祖さま御自らご法話をして下さる。
又管長様は般若心経の講義、時にはご母堂さまも「私も一寸ー」と仰り、胸のところで腕を組み、小首をかしげて前へ行ったり、後へ下がったりされ「何をお話ししましょうか」と仰る。
乗りやすい私など「ご母堂さんあんなに言っておられる。
大丈夫かしら」と真剣に心配しました。
ところが、一旦口火を切られますと、矢張り、宗祖さまという神様をこの世に送り出された方ですね。
ご自分の体験を通し、理路整然、堂々と信仰の話をしてくださったものでした。
今でも髣髴(ほうふつ)として、その時のお姿が浮かんでまいります。
その頃は、お運びの先生は梅木先生でしたが、やがて林先生も加わられるようになりました。
冬は宗祖さまは「寒かろう」と熱いかす汁接待してくださいました。
又、事あるごとにお運びの重要性を説かれると共に、ご神示でも、この人は普通の信仰をしているだけでは深い因縁から救われないという方には「お運びをしなさい」と勧めておられました。
こうしてできるだけ沢山な方たちにお運びに参加して頂き、お運びによって本当の幸せをと願われて一生懸命でした。
又、宗祖さまとタイアップして、梅木先生も標語を作り、木造平屋の教堂(昭和43年焼失)の柱に、垂れ幕をたらし啓蒙運動を起こし呼応されました。
だが、お運びはオリンピックのように参加する事に意義があるのではなく、徹底した行を行うことによって救われるのですから、宗祖さまは、お運びの有り様を実に厳しく示されました。

21 お運びに関して宗祖さまの諭された心構え・態度

例えば「お運びに行きたいけれど眠たい話はごめんだ」という方があります。
そういう方には「面白い話は誰だって苦労なしに聞くことができます。それで聴聞の行ができていると思えば大間違いです。眠い話でもしっかり聞かせて頂いてこそ行ができていると言えます。眠たい話ほどしっかり聞くべきです」と気合いを入れられたり、
又「今日は切角お運びに行ったけれど、外題が悪かった」と慨嘆する方があったりしますと「弁天様のお話に、面白い話や涙ものの話はありません。面白い話を聞きたければここは場違いです。そういう人は中座か何処かへ行きなさい」とピシャリと言葉の鞭を当てられたり、
又「あの先生は話が上手だ、下手だと下馬評があったりしますと、上手な話を上手として受けとめ、下手な話を下手と受けとめる。
それは人間の感情としてやむを得ない。
けれども何時までもそのことにとらわれ、批判のみしておれば神様の御心を押し返しているのと同じです。
そのような聞き方をしておれば、5年経っても10年経っても神様は働いてくださらない。
例え下手な話でも、この話の中に何を悟らせていただこうかと耳を傾ければ、神様はその話に乗ってあなたの中に入り込んでくださり、結構にお陰をいただくことができる。
それに先生方が話をしてくださっているが、皆、私の代わりに話してくださっているのだから、どんな話でも、私の話を聞いていると思って、しっかり聞き悟るように」とも仰せになりました。
中には、お話が始まりますと、お寺さんへお説教を聞きに来ているような気楽さで「ボツボツ風呂敷を広げ、飴を取りだして食べたりということも当初は良くありました。
お運びが行であるという自覚がないから、遂こうゆう事もよくありました。
宗祖さまはこの事に対しても「この道場を何と思っているのか知らないけれど、ここは菩提樹こそ生えていないけれども、話を聞いて悟りを開く大事な悟りの場です。
だからものを食べながら話を聞いてはなりません。
ものを食べるどころか全身を耳にして、一言一句聞き洩らさじと聴き耳をたてるべきです」と受講の姿勢についても事あるごとに厳しくお示し下さいました。
又、居眠りのことも。
終席式には1人1人が前に進み出て、宗祖さまからお灌頂をうけます。
宗祖さまのことですから1人1人のお運びの状態が手に取るようにお分かりになり、毎回式が済めば決まったように
「この中の半数以上の方は、お運びカードにはしっかり印を押して頂き、カードはお運びをしても、ご本人は殆ど居眠りをしておられます。
それでどうして行をしていることになるのですか。
しっかり目を開けて聞くべきです」
とのご注意がありました。
当時は終席式の案内状が来ても、やましさを感じる方は「宗祖さまのお前に出ると恥ずかしいからやり直します」と式を辞退する方も幾多ありました。
今もお姿は見えないけれど、かってのように1人1人の行の有り様を注意深く眺めていらっしゃるのではないでしょうか。
この方は「合格」、この方は「不合格」と

22 宗祖さまの願われた幸せになる行

いろいろ厳しい注文でしたが、宗祖さまは1000人参加すれば1000人が1000人とも皆、徹底した行により、100%洩れなく助けたいお気持ちだったからなのですね。
宗祖さまはお慈悲の方でしたが、行にはとても厳しい方でした。
このようにしてお運びを軌道に乗せていくために、大変力を入れてくださったのです。
なお、このお運びはあくまでも研修科の100日の行に代わる行として設けてくださったのですから、研修科の行の基本である「早朝起床」「祈り」「教えの学び」「掃除」を原則として展開して行かなくてはなりません。
時間に来て話を来て帰るだけでは、本当のお運びにはならないのです。
必ず何かの形で身の行が入らなくてはなりませんし、遅刻も早引けも禁物です。
そうでなくては、切角のお運びが空回りになってしまいます。
私自身も、日々は勿論ですがとりわけお運び(の講師)に当たった日は、特別な行の日と心得、前もって護摩殿(前の初席お運び会場)を浄めその他の準備を整えておき、当日は念のため再点検し、手抜かりのないようにして臨ませて頂くことにしています。
やがてお運びの時間も、現在(午前と午後の2回で1回3時間が基本)のように変わり、曜日も、土曜、日曜、月曜と参加しやすくなりました。
地方の方たちも最初は泊まりがけで受講されましたが、各地で開講し、本部から出講することになりました。
信仰は困ったときにお詣りしお願いするだけでなく、教えを学び教えにより信仰をしてこそ、因縁解きの信仰もでき、又因縁を積まぬようにと心掛けますから、根本的に救われることができます。
今ではお運びも普及し、お運びをうけなければ本当の信仰ではない。
本当の信者ではない。
そして本当に幸せになれないと、お運びへの参加が1つの流れになっています。
まことに結構なことです。でも宗祖さまの願いは、信者様だけが幸せになればいいと言う小さな考えではなく、日本の国の人々を、果ては世界の人達もというお考えでした。
この宗祖さまのお心を心として、お互いに手をさしのべお運びによって救われるお友達作りさせていただけば、どれほどご本尊さまも、宗祖さまもお喜び下さることでしょう。
その喜びは誰のところに行くのではなく。みんな行った人のところへ跳ね返るものなのです。

23 研修科(当時は修養科)4期生

お運びの話が先になりましたが、3期生までは谷口祥翁先生と梅木祥文先生のお2人が担当でしたが、4期生からは梅木祥文先生お1人になりました。
4期生は30人余りで年配者あり、若い人あり、病人あり、悩みを持つ人あり、又男女一緒でしたから様々な人間模様を描きつつの行でした。
私も4期生に参加させて頂きました。
曲がりなりにも信仰させて頂いて、既に6年だが、あともう1歩というところでどうにもならず。
このままでは恐らく生涯この状態で病気を引きずったまま、ウツウツとして暮らしていかなければならない。
それはとてもじゃないが耐えられない。
100日の行は大変だろうけど、この行にすべてをかけてみようと決心したのです。私にとりましては全く命をかけた行でした。
ともかく因縁解きをしなくてはならないから、みんなと同じ事をしていてはいけないと必死でした。
丁度同じような年齢の人が2人おられ、3人で善根功徳行に励に励みました。
病人の洗濯物、男子の洗濯物と洗濯機がある時代ではなし、昼食後の僅かな休憩時間を利用し、皆がお風呂に行っておられる時間を利用し、更に就寝後も起きだし、十輪寺の井戸で冷たい水を汲み固形の石けんをガタガタ塗りたくって、洗濯板をねかしてゴシゴシ擦りまくりました。
夜半近くまでかかることが再三再四でした。
手はソーダ負けとヒビで腫れ上がり、寝ていても疼き通しました。
宗祖さまのお言葉に「苦しみのない行はない」と仰せですが、休憩時間を返上し、入浴回数を減らし、睡眠時間を割き、ガムシャラに只前を向き突っ走ったのです。
お休みの日も3人で何枚も何枚もシーツや法被の洗濯をし、糊付けをし、(布団に)シーツをつけさせて頂きました。
当時はまだナイロンの靴下がない時でしたのでたいていの人のが破れているのです。
洗うだけでなく繕って本人に渡してこそ善根に結びついて行くもの。
その時間がなく教場へ持っていって講義の休み時間に繕ったものでした。
ともかく、この研修期間に助けて頂きたいと、昼も夜もなく無我夢中でひたすら善根行に励みました。

24 因縁因果を、自己の因縁を知る

それまでは病気で苦しむのは、過去の因縁のなせる業と思っていましたが、来る日も来る日も順序をおって梅木先生が諄々として教理を説いてくださいます。
研修にはいるまでは、私は間違ったことをしていない、正しいと自負していましたが、教理という光に照らされると、自分の罪科が浮き彫りになり、これまでしてきたことがすべて間違っていたことを嫌というほど知り、知らなかったとはいえ、今世でも犯している膨大な罪科に只恐れおののき、自分のことを言われているようで恥ずかしくとても頭を上げて聞かれませんでした。
よくまあ何も知らずとはいえ、シャアシャアと生きてきたものだと我ながらあきれかえる思いでした。
これでは病気で苦しむのも当然だと、すべてを我が罪の報いとして受けとめることができたのです。
この今世における罪の自覚により、本来ならば死を受けて当然なのに、よくまあ神様はこの程度で堪忍してくださっていたのだと感謝の気持ちで一杯になりました。
知らぬことほど恐ろしいことはありません。教えを知らなければ恐らく、いいわいいわで罪ばかりつくりこの世へ夥しい因縁を残し、あの世まで因縁を引きずっていったことでしょう。
教えに触れる機会を与えて頂いたことは本当に有り難いことでした。
人間は因縁の化石と申しますが、仮に1日に1つ罪をつくったとしますと1年で365罪をつくったことになります。
20才で7300という数字になります。
1日に5つ罪すればさらに5倍の36500という数になります。
50年では、60年では……。
この調子で三世に渡って輪廻転生を繰り返せば……。
気の遠くなるほど莫大な因縁を積んでいることになります。
とてもじゃありませんが、因縁消滅は容易ではありません。
でも、自分がその因縁を消滅していかなければ、これだけは誰にも助けて頂けません。
ましてや自分のことを棚に上げて「神様、因縁を取ってください」なんて言えた義理ではありません。

25 喜びと感謝の因縁解き

ジッとしていてはいけないのだ。行動だ。実践だと。
座布団が乱れていればここに因縁消滅の材料を神様が提供してくださっていると喜び、履き物が乱れていればヤレ有りがたや因縁解きの材料を神様が…。
病人が沢山おられると個れっまたこの人達のお世話をさせて頂いて因縁解きをするようにとの神様の思し召しであると思えば、何をさせて頂いても、只有りがたや、有りがたやで喜び感謝しつつの行でした。
こうなれば時間が足りないのです。
身1つで足りないのです。
その中に、身体が軽くなり、周囲の人達から「転んだ方が早いのでは」といわれるほど体重が増えていたのです。
とうとう病気という長い長いトンネルから抜け出ることができたのです。
喜びが充満し、いても立ってもおられず、走り回りたい衝動に駆られました。
健康だった時は何も思わなかった健康の喜びを体一杯で感じることができたのです。
実に長い長い救われへの旅でした。
それだけ救われた時の喜びは一入りでした。

26 振り返って思う最高の行でした

私にとりましては、この100日の行の期間がもっとも純粋にならせていただき、最高に自己を高めて行くことができ良き日々でした。
それにしても、何という神様の世界の厳しさよ。何という因縁解きの困難なことよ。
全く胴身にしみて神様の世界の厳しさ、因縁解きの難しさを知ったのでした。
そして100日の行も何時しか終わり、春4月、身も心もすっかり生き返らせていただき、新しく第2の人生へ旅立たせて頂くことになりました。
身びいきではありませんが、振り返れば4期生は大世帯で様々な人間模様でしたが、皆それぞれ競いつつ行に励み、もっとも活気があり成果が上がった輝かしい足跡を残した期でした。
自身を振り返ってみて、自分が真向から挑んでいく限りでは、本宗ではこの行に勝る行はないと思います。
どの様な問題を抱えていても、必ず何らか形で光を見ることができます。
人生は長いようで短いのです。
人生に1度は思いっきり自分をぶっつける機会を持ってもいいのじゃないでしょうか。
とりわけこれからという若い人達が思いきってこの行に参加して、先の長い人生をご本尊さまをよりどころとし、教えを杖として自己最高の人生を送るよすがとされればと老婆心ながら強くおすすめします。

27 ご神示で梅木先生の研修科お手伝いをする

卒業も間近くなった時、進路についてご神示を受けますと「あなたの家は因縁が深いから因縁解きのためにも(病気を治して頂いた時点で、愚かにも因縁は消滅したと思っていましたが、ご本尊さまのお慈悲で先に助けて頂いていたに過ぎなかったのです)、又宗のためにも、何かと都合がよいから残ってください。
さしずめ梅木先生がお1人で研修科を担当されるのは、大変だからお経でもすけてあげてくれませんか」とのお言葉でした。
軽く仰ったこのお言葉がどれほど大変な内容を持っているかなど考えもせず、お経ぐらいだったら私にもできると軽く受けとめたのが運の尽きでした。
未熟な私には、研修科のお手伝いは全く七転八倒、のたうち回り、地獄のような生活でした。
悪いクジを引いてしまったと常に思いつつ、ともかく前ばかりを向き後を振り向くことのできない息づまるような暮らしがずっと続きました。
人数は大抵毎期20人はありました。
お嫁入りする前の花嫁修行として行に加わるお嬢さんや、大勢の人を使う家業を継ぐために少しでも人間が練れるようにとのご両親の意向で参加する人、修行を志して参加する人、又心の病、身の病にかかっている人もありました。
だからその人達との生活は並大抵ではありません。
日々は立場が変わって以前に勝る行をし、身を以て行の有り様を示して行かなくてはなりません。
因みに研修科の日課を紹介させて頂きますと
 1 早朝起床
  2 掃除
  3 祈り
  4 教えの学び
この4つを柱として展開して行きます。
何故、行をする人は早朝起床でなければならないのでしょうか。

道険しかりし(私の歩いたみち)5に続きます。
by nohara4241 | 2008-05-02 16:34 | 講師の回想