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道険しかりし(私の歩いたみち)2

道険しかりし(私の歩いたみち)2

道険しかりし(私の歩いたみち)1の続きです。

(編集項目:ブログ者)
2 国民学校(現小学校)に奉職
3 退職し習い事を始め、因縁からの病魔に襲われる
4 病んで健康の有り難さを知る
5 1ぺん騙されたと思ってお詣りしませんか
6 初詣り
7 お宗祖様は慈母でした
8 宗祖さまとの出合いが転換期
9 ご神示のクジに当たりたい人間模様
10 当たりクジは10~12人に1人
11 当時の十輪寺




※ 1人でワープロをうっていますので浄書が不十分で誤字脱字があるかも知れませんご勘弁下さい。

2 国民学校(現)に奉職

その私が皆さんの予想通りに、信仰の世界へ入らざるを得ないことが、やがて起きて参りました。
先生ほど偉い人はないと思っていた母は、我が子をその先生にするのが夢でした。
2つ年上の姐が、女子師範学校の二部卒業とともに今度は私が入学し、二部卒業後専攻科に入学し、卒業後は姉が奉職した高田男子国民学校(現在は片塩小学校)へ勤める事になったのです。
高田は昔、男子と女子が別々になっており、私たち姉妹は、男子のみの学校でした。
同じ親から生まれた姉妹とはいえ、全く性格が対照的で、姉はすごく社交的で雄弁家でした。
だから学校でも師範学校でも全校生徒の前でお話しができたものでした。
片や妹の私は、人に出会うと挨拶をしなければならないと分かっていても、恥ずかしくてスーッとコースを替えるという風で、人前で発表などとてもできませんでした。
只、コツコツと黙って机に向かい幾何や代数を好んで解き、難問を解いた時などは、鬼の首でも取ったように思い、密かに自己満足し楽しんでいたのです。
こんな状態ですから、自分の世界に閉じこもり人見知りもきつく、お友達も限られ決して自分から他の人に話しかけたりしなかったのです。
こんなせいか鵜ですから、一応母の夢を果たしたのですが、奉職後は大勢の児童を前にして、明けても暮れても付き合わなければならない生活は、私の性格に合わず苦痛でした。
丁度五年間勤務させて頂き、姉が嫁いだ後2番目の私も色んな習い事をしなければありませんでした。
学校勤めのかたわら、お茶やお花、和裁洋裁など習う余裕はありません。
当然学校を辞めなくてはならなかったのです。
辞めることに些かも未練はありませんでした。
なぜか嫌なことから解放されるとホッとしました。
 それから片道1里近くを徒歩で高田まで習い事に通いました。
既に、悪夢のような戦争が終わり、遅ればせながら青春を取り戻そうと新しい反物を買って頂いては、1枚1枚縫い上げ、着物の数が増えていくのを楽しみだしていました。
だがその反面、父や母が苦労して働いたお金で、高価なものを買って頂くことが申し訳なく胸が痛みました。
だが、遅れんぼの私は、そんな習い事をしつつもお嫁に行かなくてはならないなど考えても居なかったのです。
お友達が嫁いでもうらやましがることもなく、他人事のように思い、淡々としていました。遅れんぼで帰ってよかったのかも知れません。

3 退職し習い事を始め、因縁からの病魔に襲われる

和裁を習い、今度はコンパスや定規を使い、丁度幾何学的に図を引く伊東式の洋裁に熱中していた矢先に、突然病魔にとりつかれたのです。
暑い夏の日でした。洋服の裾を細かく細かく纏いづけしていた時、急に息ができなくなり、やがて目の前が真っ暗になるとともに、身体全体から血の気が引き、手も足も冷たくなり、そのうち手足が痺れてきて意識も次第に遠のき、紙一重と言うところまで行きました。
僅か5・6分でしたが、その時の何と長く感じたことでしょうか。
お医者さんが来てくださった時には手足も温まり、本の状態に戻りやれやれでした。だがこれですべてが良くなったのではなくて、その後も時を選ばず、場所を選ばすこの不幸な症状に見舞われたのです。
切角戦争で失った青春を取り戻そうと、青春への蘇生にチャレンジしかけたばかりだというのに全く生と死の狭間に立ったくらい生活でした。
お医者さんにもかかり、また病院にも行きましたが、平生はさして悪くありませんでしたから「病気はありません。
悪くなると思うから悪くなるのです。神経ですから気を楽しにして、ゆっくり養生しさえすれば治ります」と気休めのようなことを言われます。
結局、心臓が止まりそうになるのに、病名もつかず、病名がないのですからお薬も治療法もなく、信仰を持たない私は只医師の言葉に従うより外なかったのです。
だから良くなるどころか次第に物が食べられなくなり、やせ細る一方で顔色も蒼く、唇も紫色になり、腰を伸ばす力もなく、まるで生きた幽霊のような状態になってしまったのです。
医学が進んでいるのに分からなかったのは結局、因縁から来た病気だったからですが、信仰を持たない私には、それが長い間分からなかったのです。
私は小さい時から、ひ弱い感じでしたが、さして病気という病気を知らずに成長しました。
少々踏ん張りも聞きました。それが、これから青春への蘇生をと夢見た矢先に、病名すら付かない不可解な病気にとりつかれ、手当の仕様もなく、すっかり落ち込み死を見つめての味気ない生活になってしましたのです。
「健全なる精神は、健全なる肉体に宿る」と申しますが、身体が痛みますと心まで痛み、次第にネクラになっていきました。
その間、縁談もあってもとても縁談どころではありません。
上が病気であれば妹さんから先にと妹の縁談を持ってこられます。
けれども母は、私とかばって「上からでないと……」といって話に乗ろうとしませんでした。
でも、私の病気は治る保証は全くないのです。
このままでは妹も縁に遅れてしまうと思うと気が気ではありませんでした。
ともかく焦りました。一刻も早くこの苦痛から解放されたいと。

4 病んで健康の有り難さを知る

人間というものは、失った始めて失ったものへの有り難い味が分かるものですね。
それまでの私は少々無理をしてもさしてこたえぬ体力と健康を与えて頂いていても、それがどれほど有り難いことかということが分かりませんでしたが、日々苦しむような体になって、健康がどれほど有り難いものだったかを分からせて頂くことができました。
喜怒哀楽、幸不幸一切を引っくるめて神様の世界だと申しますが、病気という不幸を通して、半面の健康であることの有難味をイヤというほど分からせて頂いたのです。
それにそれまでは、呼吸できる有難味も思ったことがないのに、支障なく呼吸できることが、どれほど有り難いことだったかをも分からせて頂き呼吸への感謝の心も起きてきました。
日々は「この病気を助けてくださるならどんなことでもさせていただきます」と全く身を投げ出す思いでした。
病む身には、野良で暑い真夏の直射日光を直に受け、稻田の上をはいつくばって草取りをしている人のことさえどんなに羨ましく映ったことでしょうか。
私の家は、1町余りの農家で、病気をするまでは、小さい時から子供たちも色々と手分けして手伝いました。
だから親の苦労も又、百姓仕事の辛さもそれなりに分かっていたのです。
分かっていたから努めて両親お手伝いをし、助けました。直射日光を背に一杯受け、稲の葉すれすれにうつむき、這いつくばり草取りをすることがどれほどしんどいことか。
なのに病む身にはその重労働をする人すら羨ましい対象に映ったのです。
今から思えば、なかなか治らないこの大変な病気になったからこその、信仰への誘いだったのですが……。
順調に人生を歩むにこしたことはありませんが、順調であれば神様との出合いはなかったでしょう。
そう思えば、病気は大変辛く苦しいことでしたが、病気をしたからこそ神様との出合いがあったのだと、今は病気に感謝しています。

5 1ぺん騙されたと思ってお詣りしませんか

何時しか2年の月日が流れました。家へお醬油を持ってきて下さったおじさんが青い顔をして精がない私の姿とチラッと見て「姉ちゃんどないしやはったんですか。精がないようだけど」と仰る。
私はおじさんの言葉に釣られるようにして、「実はこうこうこういうことで…」と話すと「そりゃいけませんね。
姉ちゃん弁天さんに詣りはらしませんか。
うちの婆さんお医者さんに手え放されて、もう棺桶に片足突っ込んではったんやけど、弁天さんに助けてもらって今はぴんぴんしてまっさ。
姉ちゃん悪いことはいわんから、1ぺん騙されたと思ってお詣りしやはったらどうです」と野原の弁天様詣りを勧めて下さったのです。
その頃お詣りに誘う合い言葉は、1ぺん騙されたと思ってお詣りしませんか」でした。
お醬油やのおじさんもそのとっておきの言葉で弁天さん詣りを勧めて下さったのです。
そして早速「何時なんどきでもお詣りして良いというのではなく、ご神示の日が決まってまっさかいにおばさんとこで聞いてきたげまっさ」と言って、「3と8の付く日が休みで、講社の日はその休みの日以外の奇数日、一般の人は偶数日だ」と言いながら、親切にお詣りに日を書いた紙を持ってきて下さいました。
謂わばこのおじさんが私と神様を結びつける救いのキューピットだったのです。
でもおじさんの親切に対しても、神様などこの世にいない主義の私でしたから、直ぐには私の心は動きませんでした。
おじさんがお詣りを勧めてくださる神様の役目をして下さる方がこの世にも尊いお宗祖様だなんて知る由もなく、世間で良く言うお稲荷さんを拝まれるお代さんぐらいの受け止め方でした。
母にしてみれば助けて下さる方があれば、どなたでも縋り付きたい気持ちだったのでしょう。
何とかして私をその野原の弁天様に連れて行こうと誘いかけました。
母のこの懸命な様子とおじさんの親切を無にしてはならないという義理的な心が漸くお詣りをさせて頂こうという心が動いたのです。

6 初詣り

忘れもしません。昭和25年9月12日でした。まだ季節は秋でもないのに、その日は霧の深い日でした。
速く歩けば息が苦しくなりますので、母は私に調子を合わせて歩いてくれました。
当時は順番制から抽選制に変わっていました。
それでもお詣りする方は4時起きし、1番汽車で詣られました。
私もその1番汽車に間に合うようにと朝早くから起き、勿体ないことですが、不承不承お詣りしたのです。
漸く五條駅に着きましたが、当時はタクシーもバスもない時代でしたから野原まで、みんな歩かなくてはなりませんでした。
朝8時と11時の2回抽選があり、8時の時にクジが当たれば午前中のご神示を受けさせて頂くことができ、2回目の11時の抽選に当たれば午後からのご神示を受けることができるシステムでした。
1回目はダメでしたが、2回目に都合良く午後のクジに当たりました。
さて順番が来て、おそるおそる宗祖さまのお前に出ますと、私をいとおしむようにご覧になり、にこやかに微笑みかけていきなり「としちゃんよう来てくらましたね。
待ってたんですよ。辛かったでしょう。
苦しかったでしょう。
助けて上げますわよ。あなたは自分の病気は、あんまり色んなことに頑張りすぎたから心臓が悪くなったと思っているけれど、そうじゃないのですよ。それにどこのお医者さんもどこの病院でも病気はないと仰ったけれども、病気がないどころか、良いところがないほど方々病んでいます。
私の前に、あなたの家のご先祖様が一杯現れてきておられます。
成仏していない仏様のお障りを受けていますから、今度お詣りする時にあなたの家の過去帳を持ってきなさい。
そうすれば、どの仏様が成仏しておられないか印をつけて上げます。
分かれば回向して頂き、家でおロウソクの1本を立てお経を唱えると共に、御飯やお茶を供え、心から供養するのですよ。
又お薬はこの5種類のお薬を煎じていただきなさい。
ともかく、ご本尊さまは一生懸命になりさえすれば助けると仰っていますからとのお言葉でした。

7 お宗祖様は慈母でした

神様なんかこの世にない。
そんなの迷信だ。盲信だ。
神様がいらっしゃるなら目の前で見せていただけば信じないこともない…なあーんて言っていた私に「あなたは神様の存在を認めないのに、どんな気でここへ来たんですか」などと仰らずに、まるでわが子を迎えるようにして「としちゃんよう来てくれましたね。
まっていたんですよ」と藪入り(ヤフー辞書:《草深い田舎に帰る意から》正月と盆の16日前後に奉公人が主人から休暇をもらって、親もとなどに帰ること。また、その時期。
特に正月のものをいい、盆のものは「後(のち)の藪入り」ともいう。宿入り)に帰ってくる我が子を迎えるようにして、優しくにこやかに迎えて下さったのです。
その宗祖さまの何とお美しく温かい感じだったことでしょうか。
ファーッと真綿でくるんでいただいたような気持ちでした。
そして私が何にも言っていないのに、バチィ、バチィと仰る。
みんなその通りなのです。
もう何をかいわんや、何をかうたがわんやです。
そして一生懸命になりさえすればと言う条件が入っていたのですが、この難病大病を助けると請け合って下さったのです。
神様嫌いの私も、お宗祖様の上に神様を見、神様は存しまさないのではなく、厳として存しますのだと神様の存在を知ることができたのです。
この最初の出合いで、私は全く宗祖さまの魅力の虜になってしまったのです。
そして何の抵抗もなく、この方の仰る通りにさせていただき助けていただこうと漸く信仰の心を起こし、生きる希望が湧いて生きたのです。

8 宗祖さまとの出合いが転換期

この時の宗祖さまとの出合いが、その後の私の運命を変えていったのです。
宗祖さまの救いがご神示から始まりましたのは、私のように神様の存在を知らない者にご神示を通して神様の存在を知らしめ、その存在を知ることによって、合わせにくい手を合わせ、信仰に誘って行くための方便だったのですね。
どんなにゴウタクを言っている人でも、1度ご神示を受けるとこの世に神様はいらっしゃると得心し、信仰の道へと入って行かれたものです。
私もそうだったのです。
この時の出合いからご本尊さまとの付き合い、宗祖さまとの永い永い付き合いが始まりました。
当時は、梅木先生や谷口先生のお話、又体験談などが抽選の合間に行われていましたが、今のように感謝祭もお運びもない時でしたから、一生懸命になりさえすれば助けて上げると仰っても、何をどうして一生懸命になればよいのか分かりません。
ともかく周囲の人たちを見ると、手を合わせてお経を唱えていらっしゃる。
信仰とはこういうことをするのだと見よう見まねで、それから礼拝経を買い求め、1日に半ページずつ暗記しました。
でも仏様の前では、平気で合わせられる手も、どうも弁天さまに……と言うと恥ずかしくて、家族のいるところではできません。
みんなが寝静まってから納屋の隅で、五條の弁天さまの方を向き、覚えたてのお経をしどろもどろになりつつ唱えました。
お薬も煎じていただきました。
その頃法話が待合所で抽選の合間にあり、又一口50円のお膳料寄進に奉仕の奥様方が回ってこられました。
法話の中で煎じ薬は病人の病状に応じて神様からのお指図の薬だから、お茶を飲むような気持ちで飲まず、神様からいただいたお薬だと思って、押し頂いて有り難くよばれるようにとのお話に、なるほどそうだと思いました。
2回、3回とお詣りをしている中に周囲の方の話も耳に入りますし、お連れもできて、神様詣りも悪くないなぁと思うになりました。
その頃松下電器副社長故中尾哲二郞氏夫人が十輪寺の横のふく屋という旅館でお籠もりをし、お百度を踏んだりなさっていました。
だが当時はお偉い方の奥様とは知らずに、お話をしたり、目に見えて良くなっていかれるご様子を見て、羨ましく思ったりしたことを懐かしく思い出します。私の周囲の方達は皆「うちとこはこんなお陰をいただいた。あんなお陰をいただいた」と、目を輝かせ嬉しそうにお話されます。
だが私には一向に病気をよくならせていただいているような気持がないのです。

9 ご神示のクジに当たりたい人間模様

ともかく、お薬の切れ目にお詣りし、ご神示を受けなければ助けていただけないように思い、何とかして抽選に当たりたいと、朝家を出る時に、履き物をわざと放り上げ、両方とも表向きになれば今日はおうけがあるかも知れないと心を浮き浮きし、仄かな期待を抱きお詣りさせていただき、片方でも裏を向くと、ひょっとすると今日はダメかも知れないと意気消沈しお詣りする心も鈍り勝ちになったものでした。
その頃、皆さんはお百度を踏むことに一生懸命でした。
これは「どうぞくじを当てて下さい」とのお願いだったのです。
クジ棒はお百度の竹棒(竹製の数取り棒)の長さで3分の1位に、空クジは赤色をベッタリ塗ってあり、当たりクジは墨で漢字の数字が書いてありました。
係の方が空クジと当たりクジをガチャガチャと混ぜ筒に入れて、前から順番に回ってこられます。
どうでもよいと思えば平静でおられるのですが、当たって欲しいと思うものですから、ただでさえ悪い心臓が激しく動悸をうち、体に悪いと思いつつ、祈る思いをして引かせていただいたものでした。
赤い色がちょっとでも見えるともう致命傷です。抽選の時は黒い字が出てこなければご神示を頂くことができないのです。
その黒字を目指して、お百度を踏む人、家から祈りつつお詣りする人などで、籤に当たりたさに、種々、様々は絵模様が織りなされました。
私自身も一生懸命にお縋り祈れば、宗祖さまのお手を煩わさなくても良いのに、それが分からず、ご神示ご神示とご神示ばかりに縋りました。
ところが不思議に前に並んでいる方がトントンと続いてクジに当たられることがあるのです。
そうなりますと、いくら時間に着ていればよいとはいえ、前に並ぶほどの熱心さがなくたはならないと、次からは努めて前のほうに座ったり、又中ほどでこの現象が起こりますと「中庸は……」と言うから片寄らない真ん中がよいのではと次からは真ん中に座ったり、時には1番ビリでバッチと1番を引く方があったりしますと欲のないのが1番神様に通じるのではと、わざと最後の席に座ったりという風にして抽選に当たることに生命を注ぎました。

10 当たりクジは10~12人に1人

そのうち講でお護摩のお呼び出しが行われるようになりますと、護摩の呼出券を持った方達が20人、30人とお詣りされるようになりました。
当時は1日90人のご神示でした。
その中から神代券と申しまして宗祖さまが是非ならない方に交付される券が10枚ありました。
更に護摩の呼出券を持った方を20人、30人と引きますから、時には10人に1人、12人に1人の率でしかクジが当たりません。
その僅かなクジを目指して待合所も一杯、中庭も一杯、時には門の外まで溢れ門を閉ざしして整理しなければ収拾がつかない状態が起こりました。
皆、ご神示を頂きたかったのです。
こうした状態の中、抽選の合い間の法話がよりよき信仰への手がかりとなり、クジに当たらなくても、神様の目から見ればそう急(せ)いたことではなかったのだ。
クジに外れて良かったのだと徐々に受け止め方が上手になり、目くじらを立てクジ、クジと言わなくなりいい傾向になってきました。

11 当時の十輪寺

その当時は、十輪寺の横の広場にはすごく枝振りの良い松の木がありました。
土地の方達が「羽衣の松」と言っておられた松が、又北西にも大風の時にゆーらりと揺れ、なぜか庵主さんの霊が見えたとお葉集成でお話ししておられる松の木もありました。
今、十輪寺の広場には、ご本尊さまをお祀りしてあった祠と、お稲荷さん、庚申さん金比羅さんをお祀りしてありますが、これらを荘厳にする松の木は皆なくなり、昔の面影はありません。
そして中庭には、枇杷の木がありましたが、今は杖楼山という山号に因み桜が新たに登場していますし、お墓の西南にあった銀杏の木々も、柿や梅の木もすっかり伐り取られ、お墓は青空が続きとても明るくなっています。
この柿や梅の木は第1世管長猊下が9才の時十輪寺へもらわれてこられ、お師匠さんに叱られて平面に逃げ場がなくなった時に、立体的に難を逃れられた想い出の木々でした。
十輪寺は第1世管長猊下の幼い時の苦行の数々を印された思い出が至る処に息づいている場でもあります。

道険しかりし(私の歩いたみち)3に続きます。
by nohara4241 | 2008-04-20 18:11 | 講師の回想