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母の日と父の日についてのお話





1 母の日について

⑴ お母さんお父さんのいわれ

お母さんの「かあ」とは「太陽、お日様です。」天気がよいとはかっかと照るといいます。
家(うち)のかかはといいます。
お父さんの「とう」とは「尊い」という意味だそうです。
尊い人という言い方で石川県ではお父さんを「とうと」と呼ぶところがあるそうです。

⑵ 親に信じられた子供は天国に行ける話(作家小林多喜二とその母)

明治36年に生まれた小林多喜二は秋田で生まれて、北海道に移住しています。
拓殖銀行の勤務しプロレタリア作家として蟹工船の中で虐げられ働かされた労働者を描いた「蟹工船」という小説を書かれました。
このため特高警察に捕まり築地の刑務所に収監されました。
拷問を受け顔形が変わりました。
母に某日某時間に5分間だけ面会させると連絡があり。
生きている多喜二に会えるなら行きますと言って近所の方からお金を借りて雪の小樽を出て、面会の30分前に東京の築地刑務所を母が訪問しました。
母に、警察官が寒かったでしょううどんを食べますかと聞くと多喜二は食べていますかと聞き食べてなければ食べませんといい、更にストーブにあたりませんかというと多喜二の所にストーブがあるのですかと聞き無ければストーブにあたりませんと言います。
面会では暴行で分からないほど顔が変形していたが多喜二かと尋ねるとハイと応えたまま親子は泣だけだったそうです。
警察官が残り2分です、お母さん何か言ってくださいと言ったので、母は「私はお前を信じる。お前の書いたものは少しも間違っていない。私はお前を信じているよ。」ということを残り2分間ズーと繰り返しました。
面会時間を終わり母は小樽に帰ります。
その後一時小林多喜二は釈放されますが又捕まります。
又最後の拷問の時に、もう鞭を頂かなくても結構です。
私はもうすぐ死にます。
あなた方は私を地獄に落とそうと思って拷問されましたが、私は地獄には行きません。
私の母は私を信じてくれました。
母親に信じられた子供は天国に行きます。
ですから私は死んでも天国に行きますと言ってにこっと笑って29才で死んだ。
お母さんは名前が分かる程度で字が読めなかったそうです。
しかしそれでも子供の書いた小説を正しいと信じる深い親子関係であったのですね。
色々事件がありますがこどもの日、母の日には記念日で終わることなく、こんな親子関係を思い出すことも大事ではないかと思います。
母の日には私は子の話を何時も思い出します。

2 父の日について

5月の母の日では蟹工船尾作家小林多喜二が拷問を受け死ぬ時に、母に信じられた子は天国に行くので私も天国に行きますと言って死んだ話をしました。
6月の第3日曜日は父の日で、花はバラです。
今日は子を思う父親である野口雨情の話をします。
はぶの港、しょじょ寺の狸囃子、15夜お月さん、七つの子、船頭小唄(俗称:枯れススキ)の作詞者です。
結婚しても子が授からず、8年目でやっと娘を授かり、目に入れるほど可愛がっていました。
童謡の普及に他所に出かけていた。
2歳になって娘が伝染病にかかり危篤状態になった。
雨情は旅先から帰ってくるが、死に目に会えなかった。
それから生活が荒れ、毎晩お酒を飲み、自暴自棄になった。
周りの人が注意してもなおらなかっらそうです。
ある夜、夢に出てきた娘は泣いていた。
その姿を見て雨情はあの世にいって合わす顔がないと心を入れかえました。
少しでもお父さんこんな立派な仕事をしたよ。
つらい悲しいことに負けず頑張ったよと娘に言いたいと思い、生活態度を改めたそうです。
2歳でなくなった娘を思って作った歌が「シャボン玉」です。
シャボン玉とんだ。屋根まで飛んだ。屋根まで飛んで壊れて消えた。
シャボン玉消えた。飛ばずに消えた。生まれてすぐに壊れて消えた。
風風吹くな、シャボン玉とばそ。
すぐに死んだ子をはかない命のシャボン玉にたとえています。
子を育てる間に色んな事があったでしょうが、両親が子供には夢を託すとか何かしたいと思った時期があったと思いますと父の日、母の日を通して、両親の思いを振返ることがあっても良いと思います。
おられると孝行し、なくなった両親であれば供養して頂きたい。
親もつらい苦しい事があった。
酒を飲んで暴れることもあるでしょう。
これは人間ですから当たり前と思い、過去の親の行動のつらいことにはこだわらないで、親が酒をのんでも雨情のような気持ちもあることを理解しすれば、親子の因縁に対するわだかまりが変わるのではないかと思います。