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19年水の章24講法話

19年3月18日(日)水の章24講 小竹祥善講師
(編集項目:ブログ者記)
1 上を押さえて成り立つまじ。(65)
1)上を押さえるとはどんなことか
2) それでは成り立つまじ
3) 天上天下唯我独尊
2 不平不満は、自らの運命を損なう道なり。(66)
1) 不平不満は何故起きるのか
2)  世の中は出した通りに戻ってくる(因果は巡る)
3) 見える部分と見えない部分がある
4) 見えないものを観る修行
5)夏目漱石の夢十夜という題の短編小説の話です。
6) 不平不満を少なくする方法
7) 出来事の中にご本尊さまのご意志がある体験談
3 水の章まとめ




1 上を押さえて成り立つまじ。(65)
1)上を押さえるとはどんなことか

  ★ 拒否、認めない、否定
     ↑
  ○ 上を押さえる→→押さえない=感謝して肯定する・受け入れる
     ↓
  ◎ 他、社会、出来事

自分は下ですから、自分以外のものすべてが上です。すべての代表として「他、社会、出来事」を上として考えます。自分以外の方々、色んな社会での物や組織集団、自分に起ってきた出来事に対して押さえるとということはどんなことか、これはお前出てくるなと押さえつけることから考えますと「拒否、認めない、否定すること」です。この様な接し方をすることを上を押さえるというのです。起こってきた出来事が、自分の思い通りでないからそれを否定する。拒否する。認めない。そういう風な接し方を上を押さえるということになります。

2)それでは成り立つまじ

   ☆ 自分の存在
      ↑
     上があって我がある
      ↓
     上を認める、肯定⇒感謝

何故これが成り立たないのかと申しますと、私たちがここに存在するということは、一人でおるのではなく、自分以外の方々が、私を支えてくれています。ですから自分がここにいるということは、実は、一人でいるのではなく、上があって始めて、自分がここにいることができる。たくさんの方々によって自分は支えられている。ですから
否定ではなく、そのことは自分にハッキリ分かっている。本当にそうだなぁと思っているということは上に対しては、あなたのお陰でという肯定で認めて又は受けとめて行かなければならない。しかもこの肯定には、感謝の域まで入った肯定でなければ、本当に分かったとは言えません。自分以外の方々のお陰で自分がいるのですから、このお陰が感謝です。このとらえ方が私は一番、自分というものを、また上を見据えたとらえ方であると私は思っています。
自分の位置をしっかりつかまえるということは、自分が一人で生きているのではなく、皆さんに支えてもらって生きているのですから、支える相手が時にはいやだなと思うときも、辛いなと思うときも、不平不満がでそうな時があるのは、事実です。しかし私たちはそれら嫌なことも含めて、私たちはその方方によって活かされているのです。感謝できるというこの位置で、始めて集団社会家庭の中の自分の正確な位置を、私はつかまえたことになるのではないかと私は思うのです。
他とか、上とかいう存在は、感謝すべき存在なのです。ご先祖様もそうです。この認識を、私たちは上ということに関する一番大事な認識であると思っています。つまり、かけがえのない存在なのです。それくらいのとらえ方の感謝が大事だと思います。かけがえがない。その方がいらっしゃらないとその出来事がないと自分は存在できない。それぐらいの思いでもって上をつかまえることが、認識することが大事だなと思っています。

3) 天上天下唯我独尊

相手をつかまえるということは、自分の存在をそんな風にしっかり理解することです。お釈迦様が生まれると直ぐに、どちらかに7歩あるいて「天上天下、唯我独尊」と仰ったといわれています。一方的に捉えますとこの世界の中で私が一番尊いという言葉でありますが、これは真理です。お釈迦様がみんなは馬鹿で俺だけが尊いといわれるはずがありません。私が天上天下唯我独尊というと、この方もいう、あの方もいう、みんながそうなのです。皆さん全員がかけがえのない尊い存在なのです。各人のそういう自覚です。それだけ自分を大事にしなさいよといってるのです。その自分をみんなが支えてくださっている。自分をしっかり認識する。自覚を持つと言うことは、相手をしっかり認識する相手の存在を尊いと自覚することなのです。
上を押さえて成り立つまじというところは、上があって始めて自分が存在するのだという認識をもう一度、確認していただきたいと思います。

2 不平不満は、自らの運命を損なう道なり。(66)
1) 不平不満は何故起きるのか

  ☆ 出来事→思いと違う→不平不満
      ↓
    (因果律) 出した通り戻ってくる。
    やったことを踏まえた世界

前回お話しいたしましたように、不平不満が起こる。何故かと申しますと起こってきた出来事が納得できないからです。自分の思いとは違うからです。一つの出来事が起こってきたときに、出来事に対して、こんな馬鹿なことはない。自分の思いと違うと思いますから、不平不満が出てきます。その時、私たちは現れた出来事が不平不満の対象と思っているのでありますが。よくよく考えてみますと色んな出来事の起こりはどんな法則があるのかということをお宗祖さまは、

2)  世の中は出した通りに戻ってくる(因果は巡る)

ある時に一人の信者さんが、お宗祖さまのご神示受けに、お宗祖さまの前に坐られました。その方は目がだんだん見えなくなってきた。どこの病院に行っても分からない。そのためにご神示受けに来られたのです。お宗祖さまは、あなたがその目が見えなくなってきたのはあなたの家の因縁です。どんな因縁ですかと尋ねると、あなたの家はお米やさんで、もみや玄米から白米を作る精米料が1升につき幾らと値段を付けて精米していますが、その米屋さんでは、精米料金をいただきながら、精米を渡すときにこっそり手で一握りすくって盗むんだのだそうです。あなたの家ではそういう生き方をしてきました。それが因縁となって、あなたの目に現れましたと仰った。あそうですか。ご先祖様のしたことですが、たいへん申し訳ないことをしました。私は目が良くなるためにその因縁を解くにはどうすればいいのですか。今はご先祖様がすくって盗った相手の方はいません。
もしあなたの家で精米をすることがあって時は、逆に一握りのコメをのせて精米を渡しなさい。どなたであっても今までの行為を詫びて懺悔しながら一握りのお返しをしなさい。そうしますとその方の目は良くなってくるのです。お宗祖さまはそのような話をされ、続けて「世の中は出した通りに戻ってくる」と言われました。
ですから、起こってきた出来事は、自分にとって不平不満かも分かりませんが、前回申しましたが、その出来事は実は、そういう因縁という働きで、難しい言葉では因果律といいます。良いことをしたら良い結果、悪いことしたら悪い結果が起きてくる法則を、しっかり踏まえた世界としてこの世は成り立っています。このことを考えますと、あなたとってどう見えるか分からないけれど、当にそういう法則を踏まえて起こってきている。だからふさわしいとか釣り合っているといえるのです。ところが、出来事は当然として起こってきてるのですけれど、自分には当然とは見えない。

3) 見える部分と見えない部分がある
 
 ☆ 三日月と見える月の部分と隠れた見えない月の部分

それはこういうことです。お月様が三日月の時は丸く見えません。太陽と地球と月の関係で、丸い月が三日月に見えるのです。ここで大事なことは私たちにこういう風に見える部分と見えない部分があるということです。この三日月のようにものは見える部分と見えない部分により成り立っているのですが、私たちは見えない部分により成り立っていると認識した方がいいようです。何故かと言いますと見える部分は見えない部分によって支えられているからです。ここにあります鐘(きん)がありますが、職人さんがおられて道具を使い作られました。完成すると鐘製造の職人さんはいなくなります。この教堂もそうです。建てるときは足場がありそれらで支えられて建築されました。完成しますと足場は取り払われて無くなります。私たちの世界はものが完成すると支えるものはみな姿を消しと考えた方がいいと思います。姿をみんな隠してしまいます。姿が残って居るということはまだ完成途中です。だから月では三日月部分を残して姿を消しました。目に見えるものを通して、三日月を支えている目に見えない部分を観て行く修行が大事です。

4) 見えないものを観る修行

見えないものを見る修行が大切です。目の見えている部分がすべてではありません。支えているものはほとんど見えないと思いますので、見えてない部分を観抜くというのか、観て行く修行がいります。この修行で一番代表的修行は、決められたことを繰り返し繰り返し行うという修行です。そうしますと、見えないものが見えてきます。決められたことにはあまり深い意味はないと思います。決められたことを繰り返すことにより見えないものがどんどん浮かび上がってきます。先祖供養も同じです。お宗祖さまの言葉に「先祖を粗末にしてはなりません」という言葉がありますが、決められたお塔婆を家に持って帰って、家でお塔婆を供養する。5年10年やっていますと、1体1体の仏様が、それこそご先祖様の生き方が見えてくる。私たちには決められたことを繰り返すことが行です。この行を行うことが大事だと思います。

5) 夏目漱石の夢十夜という題の短編小説の話です。

その中に東京の護国寺というところの山門で、仁王さんを彫っている運慶さんという仏師が出てまいります。運慶さんが仁王さんを彫っていますと見物客がいて、えらいもんだな。あの木の中にさも見えているかのように目があり、鼻があり、口がありどんどん彫って行く。あんなもの見えるのかなと思ったら、また別な見物客が、あの木のこの部分が目でこの部分が口だと、彼には見えているんだ。そのために修行したのだ。師匠について繰り返し繰り返し職人さんとして修行しました。そうすると1本の木を見たときに彼らには見えるんだ。これはミケランジェロもロダンも同じ表現をしています。石の中に目がある。鼻がある。だからその見える通りに彫っていったらいいのだという表現をするのであります。修行であります。だから、見えないものを観えるという修行を私たちはしておかないと、こういう風(見える三日月)にこちらだけでものごとを判断して見誤るのです。この代表的なものが、私にはこういう風(三日月=月が丸くない。満月でない)にしか見えないという世界です。これが不平不満(月が丸くない。満月でない)を作り出します。不平不満というものは、お宗祖さまの教えはこの世界(丸い月)ですから、本来不平不満という実体はないのです。何故かと言いますと私たちの心にそう見えただけのことなのです。私たちの心に生じた見方であります。

  ☆ 見える世界

  (ご本尊様のご意志)

  ○ 見えない世界

そういう風にしか見えないと言うことは、まだまだ自分飲めに見えないものを観る商業が足らないと言うことです。ましてや、私にはどちらにあるか分かりませんが、このどちらか(三日月と影の丸い月)に、私たちはお宗祖さまから教えられたご本尊様のご意志が含まれているのです。お宗祖さまは「そうなるのがご本尊さまのご意志だ」と仰っています。そのご意志が見えてきます。ご意志がハッキリ分かったら、多分不平不満は出ないと思います。病気になっても出ない。ケガをしてもでない。辛いことに出会っても出ない。このことを通してご本尊様が私をこういうふうにしてやろうと思っていらっしゃるということになれば、不平不満は出ませんよ。むしろ感謝が出てまいります。不平不満が出ると言うことは、これら(三日月と影の月)は何もいっていません。自分の心の中の見方で、都合が悪い、こんなのはいやだと言って不平不満というものを起こしているのです。弁天宗の教えでは不平不満というのは、本来実体はないのです。あなたの心の中に生じた見方なのだ。その心に生じた見方、でありますから、そんなものは実在しませんから、そんなものを相手にして、幸せなんて作れるはずがない。それでこの章である「不平不満を思うべからず」と教えているのです。そういう実体のないものをあてにしてどうして幸せが作れますか。だから、思うべからずと仰った。しかもそれはそのことだけではなくて、外のものまで全部腐らせてしまいます。ですから私たちは何としても起こってきた事柄は、決してこの様(三日月)に見えるかもしれませんけれど、ここに自分の本当の姿が現れている。因果律を踏まえた世界のだ。完全な流れなのだというふうに把握して、しかも有り難いことに、その中に弁天さまの心を入れているとお宗祖さまは仰った。そういう受け止めかたができるように私たちの心を磨く必要があろうかと思います。

6) 不平不満を少なくする方法

不平不満を少なくする方法を私は一応3つ考えています。どうしたら不平不満が少なくなるか。

1つ目は、不平不満と消すほどの「真理の勉強」をすることです。「本質の勉強」です。例えば般若心経を勉強致しました。1500年以上昔からあるお経です。皆さんすごいと思いませんか。1500年も300足らずの文字は変わってないのです。変わらないのに、それぞれの時代の人間がそれを勉強してきた。それぐらいすごいお経です。そのすごいお経を身につけて、それらをベースにして自分の人生を作り上げて行く。勿論、お宗祖さまの教えも同じです。お宗祖さまの教えをベースにして、自分の心を入れ替えて行く。そういう中心となるものをしっかり持つ生き方が、私はいいかなと思います。だからこれは、不平や不満を思いがちなのですが、いや本当はこうなんだと言って不平不満を消すのです。起こってくる心を消すと言うことは、先ず本質を勉強すると言うことです。

2つ目は、もっともっと素朴なものからそれを知ることができようかと思います。天
候、天気です。

  ☆ 天候・天気 ①晴れ→→楽
             ②雨 →→苦  

天気の代表的な1つは晴れで、もう1つは雨です。皆さん晴ればかりでも、生物は育ちません。砂漠の中にものが育たないのは、晴ればかりだからですね。雨ばかりでもものは育ちません。両方いるのです。両方でもってものが育つ世界であることを考えますと、片方だけという世界はないのです。両方認めて行く世界なのです。私はそれが正しいと思っています。私たちの人生も、もし晴れを楽と考え、雨を苦と考えますと、苦楽両面からよい影響を受けいい人生を送るのではないでしょうか。肥料となるものを見たとき自然界では美しくないものが肥料になることが多い。また私たちの人生でもこういう失敗をした。こういう辛いことがあった。それらをバネにして頑張った。苦の方を自分達の人生の栄養に肥料にされている方が多いように思います。ですから、人は皆、順風満帆という人生を望むのでありますが、人間が成長する上ではどうしてもこういう風な出会い(苦を指す)を避けて通ることはできないと思います。だから、苦楽両面から人間として成長する栄養分を見つけることができる見方をすることが、正しいと思っています。両方必要なのです。片方だけではダメです。

3つ目は、ご本尊様がいらっしゃる世界であるということです。このことを先輩の体験談でもご自分の体験談でも感じられると思います。私は15年前東京転勤になったとき、何でこんな時に転勤なのかと不満を心の中に持ちました。しかし、行ってみて自分の身体のことでご本尊様の存在を気づかせて貰いました。それは医者の先生から、小竹さんあなたは1年半前に大きな生活の変化があったのですね。その時あなたは胃潰瘍でした。その生活変化がなければ、あなたは胃に穴が開いて倒れたでしょう。良かったですねといわれました。転勤と私がいわずにそんなことを言われました。丁度転勤して1年半で検診したら胃潰瘍の治癒痕が見つかったのです。転勤を何故だとおもっとその時期に転勤が必要であったのです。

7) 出来事の中にご本尊さまのご意志がある体験談

原健三郎さんが亡くなられましたが、あの方は沢山のことを私たちの教えてくださいました。例えば、あの先生の奥さんが長野県の大町のご出身です。年に1回お墓参りにご夫婦で行かれその時泊まる温泉が葛温泉だったともうのですが、松本の郊外の温泉地です。ある時何時も予約している温泉宿の予約が取れなかったそうです。奥さんは何かあると直ぐ御祈祷される方で、その時も御祈祷されたそうですがそれでも予約が取れなかった。仕方がないなあといって同じ日程で別なところに宿を取りました。そうしますと自分達が泊まる予定であった旅館がその日程の日に大雨で大洪水が起きて流されるのです。
また北海道の千歳から東京に帰るときに、予約を入れていた飛行機に時間的に遅れ、乗れなくなったので、キャンセルしました。乗れなかった飛行機が墜落しました。この様な不思議なことを沢山経験されています。50何年かけて明石大橋を架けられました。ところがこの50何年の間に10年間工事がストップした時期がありました。さすがにその時は原先生はダメかも知れないと思ったそうです。しかしその時心の支えになったのはお宗祖さまの「原さん時間はかかるができるよ」と初めて出会ったときに仰った言葉でした。その言葉を信じて10年間過ごしたそうです。10年間工事がストップした間に、2つ動いていました。1つは海の中で早く固まるセメントが発明された。もう1つは橋の工法が開発されました。弁天さまはこの2つを待つために10年間工事を止めたのだ。この新しい技術と工法で橋を造ることができましたと体験発表してくださいました。

自分達の思い通りにならない。願い通りにならないということは、あくまでも自分の見方で見ているのです。もう少し行を通して、修行して見えないものを観る。ご本尊さまの働きを知る。そんな体験をしますとね。私は、今はこう見えるけれどその裏側には、私には想像できないが、分からないがきっとご本尊様のお働きがご意志があるのだという考えることによって、悟ることによって不平不満と乗り越えて行くことができるのではないかと私は思うのです。
この3つをお考え頂き取り組んでくださったらいいのではないかなぁと思うのです。
不平不満は自らの運命を損なう道であると仰っているのです。

3 水の章まとめ
  ☆ ご本尊様の心→水の心→お宗祖さまの歩み→人のために尽くす
        ↓
     尽くす心

水の章というのは当初からその目的は、お宗祖さまが昭和9年4月17日弁天さまからお力を授かる天啓を受けました。その時のお言葉は、「水の心を心をせよ。水の心あるところ弁才天は、常にそなたとともにあって、現世苦行を滅する」です。水の心を身につける。これが私たちの信仰目標です。水の心とは何か。ご本尊さまの心というのですが、ご本尊様は中々私たちには捉えにくい。有り難いことにご本尊様の心を心として歩んだ方がおられます。それが宗祖様です。宗祖様の歩みを考えますと、それは私は人のために尽くすという御生涯であったと思います。自分のことを後にして、家族のことを後にして、人のために尽くすというのが宗祖様の歩みです。このことから考えますと、ご本尊さまの仰る水の心は、尽くすということがご本尊さまの仰る心であり、水の心だと私は思っています。ご本尊様の仰る通りに歩まれたのがお宗祖さまです。ですから人のために尽くす御生涯を送られたお宗祖さまの歩みは、当にご本尊さまの心をこうですよと見せてくださったのです。
ですから私たちは、水の心を身につけるには、自分の生き方が人のために尽くすという生き方になっているかどうかで確認することが大事だと思います。この時にこの生き方ができているときに、「水の心を心をせよ。水の心あるところ弁才天は、常にそなたとともにあって、現世苦行を滅する」というご本尊さまのお働きがあり、私たちがご本尊さまのお働きを幸せとよんだり、繁栄とよんだり、また自分達にとってものごとの成就とよんだり、私は人間としていきて行く人の価値がこの尽くす生き方の中にあるのだと思います。
人は何のために生まれて、何のために生きて行くのかということを、この中で掴まえることができるのだろうと思うのです。人は生まれてきて死ぬまでの間どういう生き方をしたらいいのか。人に尽くす生き方をしたらいいのです。そうすると生きてきた価値、意味、そんなものが全部人のために尽くす生き方の中に入っているのです。それを私たちの教えるためにご苦労されたのであると思っています。尽くすということが、私たちの一番の課題であります。この尽くすという力は自分の心の中にあるのです。みんなもっているのです。だからみんなが持っている尽くすという力を、今この場で出して欲しい。行事での主管制ですからは関係ありません。自分が今ここで尽くす力を出すのです。今職場にいるのであれば職場で尽くす方向に動いて欲しい。今自分のいる場所で尽くすという方向に自分の足を1歩踏み出して欲しいのです。その生き方が
お宗祖さまにここにありますように
幸せに導き、繁栄に導き、ものごとの成就に導く、価値のある人生に導いて行く、その力がこの(水の心)中にあります。そのことを私たちに教えてくださるためにお宗祖さまはご苦労されたのだと思っています。
幸せに、繁栄に、成就に到らないのは、私たちの心に尽くすということ少ないからです。弱いのだと思います。またもっともっと純粋な尽くすになっていないのだと思います。こうしたらこうなるといった先のことを考えていたり、先のことを気にしているのかも知れません。そんな風に弁天宗の信仰を捉えていくようにしたらどうかなと思います。ご本尊様はたんに私たちの願い事を適える。思い通りになる。そんな小さな満足を人間に与えるために現れたのではないと思っています。そしてこれは、年齢や信者に関係なくすべての方に通じるものであると私は思っています。今苦しんでいる方、悩んで知る方、困っている方がこの人に尽くす生き方をするときに、幸せ、繁栄、成就の世界を作り上げることができるのです。
信者さんが先祖供養しても、ご祈願しても、行事に参加しても、最終的に尽くすという生き方をしないと根本は変わりません。どうか年齢には関係なく、死ぬ直前でもいいのです。病床に伏していればお世話をする方に有り難うと心から感謝を尽くしましょう。もし何もできなかったら、手を合わせて自分以外の方の幸せを心から一生懸命を拝めるようにしましょう。今ここで尽くすという方向に向かって動くとこが弁天宗の信仰です。その時にご本尊さまはお働きなさるのです。そんなことを水の章で私たちは学ばさせて頂いたと思います。

by nohara4241 | 2008-03-01 09:23 | 法話水の章