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19年 宗祖伝23講法話

19年3月3日(土)宗祖伝23講 北畑祥繁講師
(編集項目:ブログ者記)
1 教会と教区の設置
2 御親教
1) 北陸
2) 関東
3) 四国
4) 九州
5) 函館
6) 中国
7) 東海
3 智弁学園の設立




1 教会と教区の設置

宗祖様の御霊徳により、全国各地に信者が増えました。信仰と組織の強化を図るために、教会及び今日区政が設けられました。全国に教区制が布かれたのは昭和36年(1961)です。
布教所という形で、昭和26年2月富山県真言宗大善院内に富山分院が作られました。
昭和29年5月、福田氏宅に大阪市住吉区澄江に住吉分院が設置された。昭和52年に大阪府大阪市住吉区清水丘に新教会が建立されました。
昭和29年5月、森川氏のお世話で奈良県磯城郡川西町結崎に磯城分院が設置されました。昭和47年に新教会が設置されました。
昭和31年に御所市東久保の梅木氏宅に御所教会を設置し、昭和45年に奈良県御所市東松本に新教会を設置しました。
昭和31年、神奈川県藤沢市の出口氏宅に藤沢分院を設置し、修養科を卒業した坂部夫妻を教師として派遣した。
昭和33年、富山県新港市の塩谷氏の寄進した富山教会が設置された。
昭和36年、宗勢拡張のため、それまでは教会の下に支部~班があり、教会の管轄区域がハッキリしていなかった。教会に変わる制度として、1市1郡の割合で教区制を敷き、各地区の支部をその統率下に置いた。教区~支部~班という組織ができた。
昭和37年、東京都墨田区に東京仮本部が設置された。昭和40年東京教区支部が設置され、昭和52年渋谷区渋谷に東京本部が設置された。
昭和39年、大阪本部が設置された。

2 御親教

お宗祖様は各地を御親教されていますが、弁天様のお引き合わせでしょうが、各地で熱心な信者さんがおられ、御親教を支えてくださっています。

1) 北陸

昭和26年から諸国を御親教された。昭和25年のある日、富山県高岡市の真言宗大善善院の僧がご宗祖さまの噂を聞いて十輪寺に尋ねてきた。富山は真宗王国で真言宗の寺院では食べて行けないので、妻に弁才天のご神示を授けていただき、食べて行けるようにして欲しいと申し出があった。お宗祖様は貴方の奥さんにお告げをすることをゆるすわけには行かない。しかし、病気の手当て、方位の見方を教えます。お宗祖様は薬の知識が豊富でしたので、薬草をご存じでした。管長様にご相談されて施薬や方位の知識を教え弁天宗のご分身を大善院にお祀りし、分院を設置してもらった。弁天様のご分身が十輪寺外に初めて出ました。
昭和26年2月に富山へ御親教されました。富山分院では、ご宗祖さまの教えで間違いなく信者さんはできたのですが、形だけになり、心がついて行かなかったようですね。人助けを第1に考えお宗祖様の良く言われた蓬莱世界をこの世に作りたいというお考えに沿えなかったのでしょう。信者がだんだん離れて行き、分院に来なくなったようです。昭和28年に富山分院は廃止になっています。
昭和33年に塩谷氏が土地建物を寄進され、富山県高岡市堀岡又新に富山教会ができました。他の教会は室内に弁天様をお祀りしていますが、如意寺と同じ様式で、池に囲まれた奥殿が本堂の奥にあります。ご分身が室内にある教会では、朝お勤めする時には新しい空気を入れなさいと古い信者さんに教えられています。弁天様は自然の中におられる神様ですから、室内にお社やお厨子がある場合、朝起きたら窓を開けて新しい空気を入れなければならないのでしょうね。
昭和37年5月、塩谷氏が土地建物を寄進され、石川県小松市赤瀬町に石川教会が建立されました。昭和37年7月に、お宗祖様のご神示により富山教会塩谷氏がボーリングした結果、摂氏56度の温泉が湧きました。現在は温泉は休んでいます。

2)関東

昭和28年、お宗祖様は笹川良一氏の招きで戦争犠牲者慰霊祭の参拝するために上京しています。その後、年に2~3回上京して御親教されています。
昭和37年4月、森本氏と原健三郎様の協力を得て、東京都墨田区向島に民家を買収して仮東京本部を設定しています。
昭和52年、渋谷区渋谷に5階建てのビル内に東京本部を設定しています。
私も弁天様にお世話になり、東京本部には2回出張しています。宗務員になって半年しますと東京本部の感謝祭で法話をする指令書が来ます。総長様の前で法話をする実地試験みたいなものです。必ず講師になった先生には東京本部の感謝祭でお話をする指令があるのです。朝5時頃起きて新幹線で東京に行きます。東京本部で総長様をお迎えして、お話をさせてもらって帰る日帰りの出張です。お話しするために行きは緊張してあれこれ考えながら出かけますが、帰りの新幹線は、みんな終わってほっとし、缶ビールが美味しいですね。

3) 四国

昭和28年、笹川良一氏の招待で、鳴門において御親教されています。
昭和42年11月に徳島県鳴門市撫養町斉田大池に教会ができています。

4) 九州

昭和31年頃にお宗祖様とご縁を結ばれた松山氏の招待で、昭和39年門司に御親教されています。

5) 函館

昭和34年、35年北海道函館に出かけられていますが、後のホローが無く残っていません。

6) 中国

昭和37年広島県東条町の木元氏の招待で、広島県下を御親教されています。

7) 東海

昭和35年、岐阜市に数回御親教されています。
昭和34年、名古屋市に御神示をされています。
昭和34年、愛知県津島市に御親教されています。昭和50年愛知県津島市大和町に津島教会が建立されています。
昭和38年三重県四日市市に数回御親教されています。昭和47年三重県四日市市羽津甲岡山に三重教会が建立されています。お宗祖様とはご縁の深い土地で小学校6年生の時に製糸工場に年季奉公に行かれていますね。三重教会はその製糸工場のあった土地の一角に建てられています。
昭和32年に三重県尾鷲市に御親教されています。
昭和30年和歌山県日高町に御親教されています。昭和40年4月和歌山県御坊市塩屋町に紀南教会が建立されました。

3 智弁学園の設立

昭和39年4月16日から20日まで大阪本部の落慶祭典が行われていますが、5月には学園建設を決意され、昭和40年4月1日、智弁学園高等学校が開校されました。
お宗祖様は、信者子弟の教育のために学校を建てると仰いました。大阪本部を建てる時に、お金を全部使い切って終っていたから、管長様、総長様外役員もこぞって反対しました。お金が無くても建てるとお宗祖様は言い出されました。これは自分の寿命が分かっていたからでしょう。十輪寺改修、如意寺建立(大和本部)、冥應寺建立(大阪本部)をされましたが、最初はご本尊様のご意志に従い無理をせず、計画的に時間をかけて建立されて来ましが、学校建設には時間がないと悟られていたのでしょう。とにかく学校を作りたいとお宗祖様は発表されますが、お宗祖様の寿命に気づかぬ廻りの方は全部反対されました。
かつらぎ教区の水元(?)さんが、落慶祭典の後片づけを奉仕されて、4月30日終わりお宗祖様様に終了報告をされました。その時に水元(?)さんにお宗祖様は、学校建設を話され、あんただけは私の味方してやと言われたそうです。
お宗祖様は小さい時から、朝起きて着物着てお薬とって学校たててという夢を持たれていましたから、学校を建てることに最後の力を注がれたのではないでしょうか。役員の方がお金の方はどうするんやと言われると、これからもっともっと人を助けて、その人の真心で建てると仰ったそうです。
お宗祖様はどんな学校を建てたかったのか。本格的な学校を建てたいと仰いました。それは学校教育法に則った正規の学校のことです。その内容は神仏の存在とその有り難さを教え、徳育、知育、体育の3育一体の教育を行う学校でした。信仰の心ある子はまっすぐ育つというお言葉がありますが、信仰心のある子供を社会に送り出したいという思いをもたれていたようです。
五條市の方からも学校建設の要請がありました。その頃、五條高校しかなく、高校受験に溢れる子供さんが沢山おられたようです。
ご宗祖さまが言い出せば、教区長会,支部長会も賛成せざるを得ず、弁天宗は宗団を上げて、学校建設に乗り出します。感謝箱貯金と学校建設奉加帳を各支部に回し、また、学校債を発行し債券の購入を依頼し建設資金を集めました。
学校の建設予定地は当時全部田圃でした。学校の創立記念日は、地鎮祭を行った6月12日です。ですから田圃には稲が植えられていますので、土地代とお米の補償金もありました。地主さんが弁天様のためならと快く手放してくださいました。
昭和39年5月に建てると言って、翌年の4月1日には開校してますからすごい早さです。学園長にはお宗祖様、理事長には先代管長様、理事には現管長様外3名、監事に2名で、昭和40年3月に1棟建設され、1億5000万円で建設されました。
1期生500名募集に1004名の応募がありました。入学式ではお宗祖様は感激の涙に濡れながらご挨拶をされました。これが最後の事業ですからお宗祖様の一番うれしかった1日ではなかったかと思います。
私立の学校ですから、信者の子弟があっちこっちからやってきました。私も卒業生ですが、同じクラスには広島、鳴門、尾鷲、四日市、大阪からの生徒がいました。お宗祖様は、本堂にお供えされたお菓子のお下がりを持って、自分のお子さんにはしてあげられなかったことを、学校を建て、子供たちが沢山できたので、1期の寮生が一生懸命勉強しているところに行き、励まされながら、お菓子を食べなさいと配られたそうです。今も遷神祭などでは献花の中に智弁学園1期生有志一同という献花が必ずされています。これもお宗祖様と1期生との結びつきがいかに強かったかを物語っていると思います。
昭和41年に2棟目が完成し、2期生の入学がありますが、お宗祖様は出席されましたが、声帯を痛めて声が出ないと言うことでご挨拶はありませんでした。記念品を生徒のお渡しになり帰られています。

by nohara4241 | 2008-02-27 10:05 | 法話宗祖伝