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19年水の章20講法話

19年1月22日(月) 水の章20講 K講師の法話
(編集項目:ブログ者)
1 伝統行事
2 感謝は思いにあらず行いなり。(53)
⑴ 感謝とは
⑵ 東京での出来事
⑶ 水の章からの考えられる「続ける」
3 上よりの流れを受けて、我あるを知れば、知らざりし我を懺悔すべし。(53)
⑴ 呉音と漢音
⑵ 上よりの流れを受けて、我あるを知ればとは
⑶ 知らざりし我を懺悔すべしとは
⑷ 親元を訪問される役員さん
4 懺悔なきところに感謝なく、上に捧ぐる石はあらじ(54)
⑴ 3つのない
⑵ 懺悔、謙虚
⑶ 感謝
⑷ 代償を求めないお手伝い、お役に立ちたい
5 懺悔あるところに上の恩を知り、上に感謝を捧ぐるにより、罪業は消滅して、その身ますます清浄とならん。(55)
⑴ 懺悔あるところに上の恩を知り
⑵ 反省する出来事
⑶ 上に恩を感じ、生かされている
⑷ 清浄となるとは本来の姿に立ち返ること
⑸ 心の眼を開く
⑹ 辯天宗の布教の目的そして各人の天啓





1 伝統行事 節分のイワシと柊、仏壇購入時のおまじない

15日小豆がゆをお召し上がりになりましたか? 
この辺では節分の日にはイワシの焼いたのと柊の葉を門に吊しますか? 
大阪茨木市冥應寺にいますときは、ズーと玄関(マンション住まい)でやっていました。
イワシの頭は回ってこず尻尾しか配分がないのです。
それで私宅は頭でなく尻尾でした。
柊は葉っぱの尖ったところで鬼の目を突くのだそうですね。
イワシは、あれは生臭いからでしょうかね。
生臭さが邪気を払うのでしょうね。
(インターネットで調べたら→イワシの生臭さが邪気を追い払い、ヒイラギのとがった葉が鬼の目を破るからと、『本朝食鑑』に載っているそうです。
『本朝食鑑』とは、元禄8年に江戸で出版された食品百科事典で、 あらゆる食べものについて、その性質・取り方・効能などを記述した書物。近年では柊の枝に鰯の頭を刺したものを戸口に挟み、邪気を払う行事が行われます。
これは追儺(ついな)といって、朝廷の年間行事です。
大晦日の夜、悪鬼を追い払う儀式であり、鬼遣らいともいいます。
更に土佐日記にはイワシではなくボラも子供のイナの頭になっているそうです。
(プログ佐藤直暁の徒然なるままにから転載)

辯天宗では仏壇を新しく購入するとご本尊様や位牌を入れない空っぽの仏壇の中に、前の日の夕方から生魚をお皿に入れて、翌日生魚を捨てて、それからご本尊様等を仏壇の中に入れて拝んでいただくように教えられています。
これも生臭さが邪気を払うのでしょうかねえ。

節分の豆が、今入荷し、宗祖殿に納めてあります。
節分がやってきますとお豆を年の数だけ食べますが、年を取ると遠慮しますね。
辯天宗には色んな行事がありますので、それに従った行事を取り入れることが家庭の仲にいいムードを作るのではないかなと思っています。
できました葉付きの柊の小枝に焼いたイワシの頭をさして玄関に飾って頂ければいいと思います。
節分の日に販売します「当たり矢」ですが今北宇智教区で作成して貰っていますが。
元々は、お宗祖様と西川先生がこの地方だけか知りませんが、髪を「オバケ」(という髪型?)に結うそうです。オバケとはどんな髪型か知りません。
「当たり矢」のようなものを髪飾りにして差していたそうです。
お宗祖様が年越しの髪飾りとして作ってくださったのが、各家庭の1年間の入口のお守りに変わっていったようです。
お宗祖様からいわれてある信者さんが作っていたのだそうですが、今は教区で作っているそうです。
この様に辯天さまの行事はそれぞれの教区・支部でお手伝い頂いているのですよ。
節分お豆は、河内長野教区さんがビニール袋に豆を入れた節分の豆まき用の豆を作っていますね。
節分祭の豆には、景品が入っているのもありますのでどうぞ沢山おいでくださり、福をいただいてください。
感謝の講は今日で終わり、次からは不平不満の講になります。

2 感謝は思いにあらず行いなり。(53)

⑴ 感謝とは

有り難く思う、感じるということになりますが、お宗祖様は、本当に感謝の力を発揮するのは行いであるといわれています。
別の言い方では「思う」だけでは、「相手に通じない」のです。

思い   →→行為 →→ 続ける 
(通じない) (通じる)  (新しい感謝を生み出す)

有り難いことがあれば「思い」として心の中にしまっておかず、それを言葉とか、行いとか形に現して行く。
何故かというと、思い出は通じない。通じなければ喜びが広がらないという意味合いです。
形に現して始めて相手が反応し、喜んでいるのが分かります。
電車の中で席を譲ります。譲られた方が「有り難う、助かります」といってくれるのといってくれないのではずいぶんちがうと思いませんか。
相手が黙っていては席を譲ってよかったのか判りませんね。
言葉に表すということが相手に通じて、そこから新しい感謝につながる。
新しい感謝を生み出して行く動きになりますね。
そんなに喜んでくれるなら、また機会があれば席を譲ろうにもつながります。
思うだけでは果たして喜んでくれているのか判りませんから、譲ってよかったのかどうか困りますね。
挨拶でもそうですよ。
「おはよう」といって「おはよう」と返ってきたらね。
またおはようと言おうという気分になり、返ってここなければ悪かったのかなでは止めようとなりますね。
自分達がそういう出会いに合えば直ぐにアクションを起こしてください。
有り難うでもかまいません。喜びを伝えることです。

⑵ 東京での出来事

雨の日にゲタを履いて傘を持って電車に乗っています。
どうもお坊さんには酔っぱらいが絡んできますね。
普通私の隣の席には、仕方がないからと最期に坐ります。
お坊さんの衣姿は、法事とか、命日とかの非日常的な場合でしか見ることがありませんので、非日常的姿であると思っています。
お坊さん側に坐る方は少ないですね。
理由は分かりませんが間違いなく電車の中で寄ってくるのは酔っぱらいです。
私の前に酔っぱらいがいたので寝たふりをしました。
回りでくすくすと笑い声が聞こえるのです。
それとゲタがつつかれているのです。
酔っぱらいがまた来たかと思いました。
酔っぱらいが私が気づくとサーと自分から横に座ってきて、「な坊さん、釈迦も日蓮も何とかも一緒やな」、「人間は何とかが大事だ」等と話しかけてくるんです。
よく分からないので「ふんふん」「はい」と答えていますと。
酔っぱらいの降りる駅に電車が停車しましたが話しているので降車に遅れ、ドアーが閉まってしまいました。その時、前の席に若い女の子が座ったので、開いている横に酔っぱらいは座りました。
こんなことがよくあるのです。
私の横に黙って坐られたのは年配のご婦人が1人です。
そのご婦人は開いていると私が呼びますと直ぐ来てくださいました。
私たちの生活の中ではタイミングというか、呼吸が大事ですね。
私たちが有り難いなと思ったら、遅いと効果がありませんので直ぐに「有り難うございます」と言うタイミングのある生活をするのが大事ですね。
ここでは、難しく解釈せずに、感謝とは思いではなく、行いなんだ。
その行いがまた別の感謝につながって行くのだというふうに行いの大切さを考えて頂きたいなと思います。

⑶ 水の章からの考えられる「続ける」

お宗祖様は、水は一滴では流れない。
集まって流れるといわれています。
お宗祖様の感謝の行いには、続けるという要素があると思います。
例えば1回では通じないときに何度も続けると通じことがよくあります。
一滴では水は流れないので、何滴も集まって流れになるのですから、行いも何回も続けて行くことを、私は考え実行することが、次の感謝につながる行いではないかなと思います。

3 上よりの流れを受けて、我あるを知れば、知らざりし我を懺悔すべし。(53)

⑴ 呉音と漢音

皆さんご存じと思いますが仏教には、読みがちがう言葉がありますね。
礼拝経の礼拝は、呉音で「らいはい」ですが漢音では「れいはい」です。
正を呉音では「せい」とう読み、漢音では「しょう」と読みます。
これは日本に仏教入ってきたのが6世紀半ばで、中国の呉の国から入ってきました呉の読み方が伝わったのです。
後に漢の国から伝わった読み方が漢音で漢字と言いますね。
最初に経典が渡来したのは呉でしたから呉音の読み方が多いのです。
2つの読み方があるのです。
辯天宗での読み方は、仏教用語ですから呉音で読むことが多いのです。
懺悔を「さんげ」と読みますね。
普通の読みとちがうなと思ったら呉音で読んでいると思って間違いないでしょう。
伝わったときの読み方でちがうのです。
皆さんは「ざんげ」が読みやすいのですが、書いてるとおりに読んで行きます。

⑵ よりの流れを受けて、我あるを知ればとは

自分は1人で生きているのではなく沢山の方々の支えで生きている。
自分は1人では生きて行けない。
上よりのの流れとありますように、上にはご先祖さま、社会の方々とか色んな方の支えによって、生かされているのだということなのです。
1人ではないということですね。
このことを踏まえて懺悔を理解してください。

懺悔は反省でもよいです。この懺悔には2つの意味があります。
今日はそのうちの一つで理解してください。
一般的な懺悔は、今まで私たちが行って来た、教えに背いた行いに対して心をもう一度振り返ろうというものです。
悪業に対する懺悔ですね。
今日ここで学ぶのはこん懺悔ではなく、1人では生きて行かないのですから、私たちを支えている上がいた。
その上が居て自分が存在できるのですから、上の尊さを知らなかった。
けして自分で何でもやってきたと思いませんが、それ以上に自分を支えてくださっているご先祖様、社会の方々、支部の方、同じ信者さん仲間、友人知人とかが居たからこそ自分が存在できるのだから、そういう方々にいらっしゃったおかげでという心が弱かった、
知らなかったということももっともっと懺悔しなさいといっているのですね。
ここでは、この懺悔が大事なのです。
悪業に対してということはわかりきったことですから、自分が1人で生きて行けないことが分かっていたがその分かり方が弱かった。
もっともっと上を大事にしたら、もっともっと上の方々から幸せをいただいたであろうに。
上の方々に文句を言ったり、勝手なことをしたけれど、本当は、上の方々は尊いという存在なのだなと反省しなさいと言っているのです。そうするとご先祖様のご供養も、しなければ行かないのではなく、心からせずにはおれない状態になりますね。お金がかかる。世話がかかること以上にさせて貰えることが有り難いことだという気持ちになってください。ああそうだったなと懺悔できるところまで心を謙虚にするが大事ですね。これを理屈で知って居るのではないのですよ。

⑸親元を訪問される役員さん

19日の日に、教区の役員さんとこに遅れましたがと、正月の挨拶に行きました。両親が87才と86才で健在です。去年の暮れにも親の元に顔を出しています。お父さんが亡くなられお母さんが香川県の特別養護老人ホームに入っていらっしゃるのだそうです。97才で、尋ねるとまだ私が分かるのですよと言われました。毎月1回親元に大阪から足を運ぶのだそうです。私も親元に行っている方だと思っていましたがとても及びませんね。
親元と兄弟もお前そんなに来なくてもいいよと言ってくれるのだそうですが自分はそうせずにはおれないのだそうです。本当にそういう気持ちが大事なのだとおもいました。向こうに行ってもご病気ですから役員さんの顔を忘れて得るかも知れません。お前誰と言われてもその役員さんは親元に行くそうです。行って親が喜んでくれるかくらないかは別問題なのですね。行くことが大事ですね。私ももっと親の顔を見に行くことにします。87才になる父が帰るたびに申しますのは、これで長男と会うのは最期かなです。87才になって気持ちが弱くなっているのでしょうね。そういうことを考えるのが親かなと思いました。
しかし親の顔を見に行き辯天様のお陰をいただきました。ある日家内と親の顔を見に行きました。その日の夕方帰る予定でしたが、親の面倒をみてくれる3男夫婦が居ませんでした。午後2時過ぎに帰ろうと思たのですが、もうちょっともうちょっとで1時間、1時間と送れましたが、母親が、身体の調子が悪く貧血気味だから、お正月前に病院に連れて行って欲しいと言いますので、病院に行きましたら、即入院でした。大腸から出血していました。ポリープが沢山できているということでした。行ったとき年末の所為かもしれませんが、必要なできる検査を全部してくれました。それはいつもお世話に、よく母を知っている先生が居られすべてを指示していただきました。母親も辯天さまのお陰と喜んでいました。めったに帰ってこない長男が居たのでよかったと母親が言っていた。これからも何度でも帰りなさいと教区の役員の方が私に話してくれました。
私たちは上であるまず親、そして先祖のことを考える反省を、年の暮れから正月にかけて思わしていただいた出来事がありました。

5 懺悔なきところに感謝なく、上に捧ぐる石はあらじ(54)

⑶3つのない

懺悔がない。感謝がない、捧げる石がないとなっていますが、逆ではあればいいのですよね。この3つは、連動しているのですね。教えでは全部否定しています。

⑵ 懺悔、謙虚

心が謙虚に、心を低くするところに感謝が起きてくる懺悔をすると少しでも人のために役に立とう、何かさせて貰おうという気持ちが起きてくるよ。教えは「○○がなき、ない、あらじ」となっていますが、これは逆にいますと、懺悔をすると感謝につながり、感謝をすると善根につながると言っているのです。ここをもうすこし詳しくお話ししますと、懺悔をすると言うことは心を低くすることです。謙虚になることです。まず謙虚になって人のせいにしないで、自分のことを振り返ってみますとどういう自分かと言うことがよく分かります。例えば、ある時一生懸命やろうと思っても間違いを起こす。自分は不完全だ。欠点も多い。何時の沢山の人に迷惑をかけてしまっている。そうしないでおこうと思っているが、私は迷惑をかけています。こういう風な存在なのだ。これが本当の自分お姿であるということが分かってまいります。心を謙虚にしますと、自分はよく人に迷惑をかけているな。間違いもよくする。気をつけているつもりだけれど、ついつい相手に言い過ぎてしまう。相手が言おうとしているの、つい私はこう思うのだと言ってしまう。他人を先にと教えて貰っていながら、自分を先にしてします。そういう欠点の多い、迷惑をかけるのが自分である。

⑸感謝

そのような自分でも皆様はゆるして仲間にしてくださっている。有り難いことだなと感謝が出てきます。自分の姿がよく分かりますと、よけいに、欠点の多い自分をみんなは責めないで、ゆるしてくださり、支えてくださっている。どんどん有り難いことだなと感謝がわき上がるのです。有り難いことだなと分かりますと、私に何かさせて欲しい、何かせずにはおれないというという気持ちまで感謝がふくらんできます。

⑹代償を求めないお手伝い、お役に立ちたい

丁度、器に水を一杯入れますと水が器から溢れるように、感謝が一杯になりますと本当に有り難い、皆さんに、家族に、友人にこんなにお世話になっている。私にできることがあればさせて欲しいなという気持ちになるのが人間の心であると思います。こういう風な、自分からさせてくださいと言ってやった行いには、代償などは起こりません。見返りも起こりません。させて貰うだけで、有り難いからです。代償が欲しいと言うことは、スタートラインが「感謝」から始まってないのですね。感謝から始まってないから、こうしておいたら後できっと何かいいことがあるというのは、という代償を求める心が出たくるのでしょうね。
皆さん何かなさるときに、自分が何かし、何か代償を求めるか、求めないかは、感謝から始まったのか否かが分かるのです。私のようなものでも支部に入れて貰っている。何か支部に私にできることがあればやらして貰いたいということであれば代償は起きないでしょう。起こるということが感謝からです。自分の損得から出ているのでしょうね。
懺悔と感謝とお役に立つ何かをすることの3つの関係を、ここでもう一度、勉強しなければならないと思います。
このことを、別の面から見た場合を次の言葉が教えているのです。

5 懺悔あるところに上の恩を知り、上に感謝を捧ぐるにより、罪業は消滅して、その身ますます清浄とならん。(55)

⑴ 懺悔あるところに上の恩を知り

その身が清浄になるスタートラインは、前項と同じ「懺悔」です。私たちは懺悔といいますと何か反省することですが。この懺悔によって、私たちはより本物を見いだして行けるのです。懺悔することで自分の姿をしっかり見つめるのですから、ああ私は気が付かなかったけれど、こういうことをする人間なのだな。私はついつい、他人より自分のことを先にしているのだな。自分が言葉をきれいに使っているつもりだけれど。

⑵ 反省する出来事

私は日頃使わないのですが、心が荒れていたのでしょう。「晩飯」といいました。「晩飯」などといったことはなく何時も「晩ご飯」といっていました。こんことを言うのだなといった自分にびっくりしました。きっと心を荒立てることが何かあったのでしょうね。ですから反省したのですが。もっていないと思っていた心をもっていたことに気づいたのです。そのことで自分の一面を知り、今まで以上にもっといいことをしなければ、気をつけなければという気持ちがより強くなったのです。喜びが広がりました。それからは、何かに対して前向きになりますし、何かをする場合より活発になります。この様に懺悔は私たちをもっともっと大きくします。
別な面から懺悔のない人はちっちゃい人間です。自分足らない点、心を見つけて行くのですから、どんどん大きくなりますね。失敗した、間違った一瞬ではああ自分はダメだなと思うでしょう。そのことにより自分のダメなところが分かったことが有り難いのです。懺悔というものはこういう方向に向かって行くものです。もし懺悔・反省して自分が小さくなったり、消極的になったりしたら、それは懺悔が間違っていることになります。
お宗祖様は、「曇りガラスを手で拭けば、あなた明日が見えますか」と歌にありますが、手で拭かなくては見えないのです。わからないのです。曇りガラスを拭くのが懺悔です。懺悔するとクリアに見えてくるのです。拭くという作業が心を低くする。謙虚にするということでより自分が分かり、よりいい方向に向いてくるのです。ですから私は、懺悔は、自分を最大に生かし、そして自分に起こってきた事柄を踏まえて、自分の因縁を生かして行く道であると思っています。
自分を最大に生かす道なのです。因縁はじぶんの徳分に非常に関わりを持っています。ご本尊様が私たちに大事な大事な一つの出会いをくださっているのですから、それをよいことであれば更に心を低くして有り難いと感謝して、悪いことであれば益心を低くして、出会いに感謝して生きてゆく生き方が懺悔だろうなと私は、思います。自分を生かそうと思ったら、懺悔をすることだと思ってください。

⑶上に恩を感じ、生かされている

前項で話しました懺悔をする。感謝をする。上に石を捧げるの3つをまとめますと生かされている。上の恩を感じることにより、生かされている自分を自覚する。懺悔すれば生かされているなということがよく分かります。自覚すると言うことは感謝することです。こんな自分でも生かしてくださっているなぁと感謝する。そして他の役に立つという生き方をする。この生き方をすると、罪業が消滅して、清浄となるのです。

⑷清浄となるとは本来の姿に立ち返ること

清浄とは、水は元もときれいです。その水が清浄となるのです。また、水は3尺ながるれば元の清水に戻る共教えられました。これから清浄となるということは、本来の姿にもどるよと言っているんですね。私たちには、生まれながらにして、心の中に辯天さまが入っておられるのです。(入っているのが嫌な方は心が辯天さまとまことの心で繋がっているのです)そのことを忘れてしまって、経験とか智慧とかで生きてきました。そのため辯天さまを忘れたために、先ほど話しました曇りガラスの状態になっているのです。ですから、それを拭きますとどこでも何時でも辯天さまが、自分に付いている。そのご本尊さまのお働きを何時でも味わう。何時でもご本尊さまが私を守ってくださっている。どんなことが起きても、ご本尊さまの私たちに対する大きなお計らいなのだと分からせて貰える世界なのです。それが清浄となるということです。水が清浄となって、きれいな水が生かされるように、私たちも何時でもどこでもご本尊さまが守っておられることを味わうのです。病気になっても、ケガをしても、困難なことが起こってきても、その奥にご本尊さまがいらっしゃる。このことを私たちが感じることのできる世界に今いるのですよ。水が本来きれいなように、これが本来の私たちの姿ですよ。その感じる姿が、清浄となった自分なのです。

⑸ 心の眼を開く

この清浄となるためには、生かされていることを自覚して、他のために役に立つ生き方をする。その生き方は別な言葉では、昭和36年だったと思うのですが、12月21日にお宗祖様は北陸の石川に御親教をされました。その時信者さんから、お宗祖様、あなたは全国各地に布教に行かれますが、何のために布教するのですかと聞かれました。お宗祖様は、私たちはその土地土地で、人々の心の眼を開く、こういう人を作るために私は布教するのですよといわれました。
心の眼を開くとは、1人で生きているのではなく、みんなに生かされているのですよ。存分に感謝をして少しでも、生きている間だ、生かされていることを自覚し、他の役に立つ生き方をしなさいということです。この状態が心の眼を開いた状態です。これができなければ、眼は開いていても、心の眼は閉じているのです。お宗祖様は私たちを他人の役に立つ生き方ができる人間にするために、各地にお出ましになられたのです。

⑸辯天宗の布教の目的そして各人の天啓

九州福岡県の門司港にメカリ神社があり、その近くにメカリ山荘という旅館がありました。お宗祖様は布教のため松山さんという信者の方とそこに泊まられました。お宗祖様が松山さん見てご覧、あの下関の夜景きれいやねといった直ぐ後、ごめんごめんあなたは目が見えなかったわね。(松山さんは戦争で眼の玉を無くし全盲なのです)私はあなたが地元の方からどの様に言われているか知っている。松山さんは九州の門司から新幹線がない当時、五條や茨木にお詣りされました。松山さん、あなたのお詣りしている神様はどんなにえらい神様か知らないが、あなたの目は開かないではないか。見えるようにならないではないかといわれていました。松山さんは何も反論をせずに、黙々とお詣りされていました。それでお宗祖様は私にはあなたから聞かなくても全部分かっているのよ。しかし、すばらしい辯天さまでもあなたの目を開けることはできない。しかしね。お詣りしなさい。心の目を開けて上げるとおっしゃった。松山さんはその言葉を信じて、亡くなるまでお詣りを続けられました。これが辯天宗の布教の目的です。こういう生き方を皆さんにして欲しい。お宗祖様は昭和9年4月17日に天啓を受けました。水の心を心としなさい。水の心あるところ辯才天はそなたと合って現世苦行を滅するとおっしゃった。「罪業は消滅し、益々清浄とする」とは天啓の言葉と一緒なのです。大事なことは、辯天さまがお宗祖様に天啓を与えたのは昭和9年ですが、この天啓の言葉はお宗祖様のみの言葉ではなく、信者全員が自分に与えられた言葉として受け取らなくてな意味がないのですよ。受け取るのが信仰ですよ。般若心経は構成上で、観自在菩薩が舎利子に心経を説いていますが、舎利子ではなく私たちであるととらえ、あの観自在菩薩が私のためにすばらしいお経を教えてくださっているととらえなければなりません。舎利子という仏弟子ではなく私のためにこの般若心経はあるのだ。辯天さまの天啓のお言葉は私のためにくださったのだ。お宗祖様ためではなく私のために天啓の言葉があるのだととらえ信仰なさることが大事だと私は思っています。お宗祖様は、あなたの心の眼が開いてないので分からないけど、今日も明日もあなたの、周りに、側に辯天さまは居られますということを伝えるために布教されたのです。
このことを私たちは今一度考え、自分自身が辯天さまとのつながりを深め、天啓を自分が受けたのだと自覚することが大事であると私は思っています。

by nohara4241 | 2008-01-16 17:53 | 法話水の章