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妙音新聞37号 第1 まごころを常に忘れるべからずNO3

昭和31年10月17日発刊妙音新聞37号 水のお諭し(5)
(編集項目:ブログ者記)

第1 まごころを常に忘れるべからずNO3

1) 自分を省みず人にまごころは注ぎ続ける心
2) 弁天様の水の流れの神理
3) 1秒でもまごころを忘れない
4) 救われるための第1歩は『まことの心を常に忘るべからず』(1)




※ 弁天宗の教理「五行のお諭し」に関するお宗祖様の初めてのお話しです。
この水のお諭しは更に充実し水の章となります。


1) 自分を省みず人にまごころは注ぎ続ける心

まごころとは、何時何処でも尽きることなくそそぎ続けて行く心であります。
いま忙しいので、まごころどころではない。腹の虫の居所が悪ければ腹が立つ、これではまことある人とは言えません。
自分のことを先にして、その残りを他人に捧げる?これもまことのある人とは言えません。
本当のまこととは、何時でも自分を省みず、人にまごころを注ぎ続けて行くことでございます。
水の流れは切れることなく、注ぎ続けていることによって水の生命があるように、私ども人間にも、他人にまごころを間断なく注ぎ続けることによって、生命の価値があると思うのでございます。
ここで私は生命の価値と申しましたが、“生命の価値とは生きている価値!”“生きている価値とは、生きている喜び!”“生きている喜びとは、病むことなく、災いすることなく。
平和で幸せな生涯への永劫変わりない生命の安定!”これであります。最初に申しましたように、弁天様の世界に住み、その表徴である水の恵みをうけて森羅万象ことごとくが、その摂理に生かされているのでございます。
故に私達人間は、水の心即ち神の理に背いて、言いかえますなら神の法則に反して生活していて、家内安全息災延命を祈願してみても誰がこれを叶え、又保証してくださるでしょう。

2) 弁天様の水の流れの神理

この世界の全てのもの、鉱物でも、植物でも、動物でも、人間でも、はたまた風でも、雨でも、およそこの宇宙のすべてのものはこの水の神理によって動かされているのが本当なのです。
宇宙自然の法則なのですね。ですからこの法則に合わないものは、生きているのに不調和となってくるのです。
少々自分の気に入らないことでも行わねばならないと思います。
生きて行きますのに、自分の都合主義によってどうしていてもよいのであったらなら、この世はどうなるでしょう。
この弁天様の神理(水の流れの理)によって成り立っている世の中です。
この神理に順応して生きて行くことが弁天様の御心と一体となることであり、各々幸せな生活となって来るのは当たり前だと思います。
この世の中が水の生命と共に(弁才天と共に)生きていることを知ったなら、弁天様の御心であるまことを行わずにはいられないでしょう。
行わざるは、自らがこの調和の世界から遠ざかり、運命を傷つけ、そこなって行く事なのでございます。

3) 1秒でもまごころを忘れない

私達は1日1秒の間も、まごころを忘れて、不用意に暮らしていることはできません。
それは自分自ら墓穴を掘っていると同じ事であるからです。
こうして自分の心の目を開いて参りますと、日々のその瞬間が大切であり、驚きの瞬間でございます。
よくなるのも悪くなるのも、おかげを頂くも頂けないのもこの日々の瞬間なのでございますから、うっかりと過ごしてはいけません。
救われるためには、自分を捨てねばなりません。
捨てたその自分を弁天様は救ってくださるのです。
ですから、捨てるのは犠牲となることではありません。
犠牲になるとよく言われます、私はこの世に犠牲などないと思っています。
自分を捨ててはいるけれど、本当に捨てるのではなく後で、その人は大きな本当の救いを頂く事になるのですから、犠牲になるのではないと思います。

4) 救われるための第1歩は『まことの心を常に忘るべからず』(1)

救われるために、弁天様の御心に、水の心になりきることです。これが救われて参ります上での第1歩です。これなくして他に何を行っても何にもなりません。
言わば救われて行くためにする行の心の基台であります。
心の用意です。故に、私はまず第1に『まことの心を常に忘るべからず』と申しまして「心と行い」の基本にしていただきたいと念じているのでございます。
去る8月21日のまこと会でお話申しましたことですが、茨木でのある信者さんの事について少し申しましょう。
この方は今失業していられまして、そのことでご神示を受けにこられたのでしたが、私は初対面のこの方が何故か心にかかり、その方が玄関を出られてから、お付きの者に『管長さんにお願いして、今の方にお金をあげてくださるように』と申し、『尚毎月おいで下さい。私の志をあげさして頂きますから』と申しました。
お付きの人々は「困っている信者さんはたくさんあるのに、ご宗祖さまが一々にお金をあげておられたら際限がありません」と申していられました。
それもその通りですが、この方に対しては、私の気持ちとして毎月援助してあげなければならない気持ちになったのです。
少しの金額でありましたが、その方は大変喜んでくださいました。
その後2、3度その方がお詣りになる内に、私が何故にその方が心にかかりお金を援助しようという気になったかがわかって参りました。
丁度今から8年前(昭和23年)のことです。
十輪寺の方でご神示をしておりました頃、日々に参詣人が多くなって参りまして、十輪寺の本堂も狭くなってきましたので、その頃から熱心にお参りしておられた現弁天講理事長林房太郎さんを始め副理事長の北野重一さん等の方々のお進めにより、十輪寺本堂を改修拡張することとなったのです。
その頃は信者さんの数も少なく予算もありませんでしたが、熱心な信者さん数人が世話人になって下され。私のメモを頼りにご利益を頂かれた方のお家を回って下さったのです。
しかし、人というものは身勝手なものでして、助けてくれと言ってきなさって、そして救われれば知らぬ顔の半兵衛で、ご協力下さらぬ方々がたくさんありました。
そんなわけですから、丁度その頃の事に10数万円のお金が容易に集まらず、世話人さん方もずいぶん苦労をして下さいました。(次号へつづく)

by nohara4241 | 2008-01-13 12:22 | 水のお諭