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18年宗祖伝11講法話

18年9月2日(土)宗祖伝11講 岩城講師法話
(編集項目:ブログ者記)
1 前回の話略
2 大辯才天女尊像の発見
2) 妙見さんのお告げ(テキスト)
3) 辯才天像2体を発見(生命の泉水澄明の巻116Pから)
4) お宗祖様は辯天さまのお体と一体
5) 天啓前の白髪白髭の老人の夢
6) お風呂屋さんの道筋の夫婦岩(無量の日々117p)
2 天啓(生命の泉水澄明の巻123p)
1) 天啓を受ける
2) 紙と筆(生命の泉125p)




2 大辯才天女尊像の発見(テキスト転記、大森智祥(第1世管長)著「無量の日々より」)
1) 谷村イソさんの薦めで妙見さんで拝んでもらう。
(※私は前回ご母堂スエ様の毘沙門さまの話が出てきましたので、スエ様が妙見さんに行かれたのかと勘違いをしました。また体が悪い体調が崩れるといっても具体的でないので、そのようなことがないよう出所から転記し一部を補足します:)
次男祥二が生まれ2年ほど経ったあたりからお宗祖の体調が少しずつおかしくなってきました。腕や足が痛んだり、肩の凝りを覚えたり、腕の付け根が痛み身体も非常にやせてきて、さすが気丈夫なお宗祖も辛抱できなくなったのか、寝込む日が続くようになりました。さっそくお医者さんい診てもらいましたが、なにが原因なのかはっきりしません。どうしたものかと困っていたところ、お宗祖の伯母にあたる谷村イソさんという人が、心配して見舞いに来てくれました。
「お医者さんでもわからん病気やったら、生駒の妙見さんに拝んでもらったらどうでしゃろ。あたるそうやさかい、いっぺん行ってみなはらへんか」とすすめてくれました。
その妙見さんとは生駒山のあたりに住んでいる老婆で、妙見菩薩を拝んでいる人で、いろいろと人の悩みを聞いては、妙見菩薩にお伺いをたてて答えてくれる、俗に言う拝屋さんという方でした。
私は真言宗の僧侶として、仏教の正統原理に基づく宗教でしたので、俗信的な拝屋さんにとよることを嫌う立場を取っておりました。

2) 妙見さんのお告げ(テキスト)
お宗祖が毎日苦しんでいる姿を見るに付け、意地を張っていってはという気持ちになってきまして、お宗祖の身体を治すためなら何でもしてみようと思い出したのです。妙見さんへお伺いしてみますと、常識では考えられないようなことを言われました。
お宗祖に向かって、「あんたの寺には、古い辯天さまがお祀りしてあるはずです。あなたはその辯天さまのお体と一体となって生まれついていらっしゃいます。だから、その辯天さまをお祭りして、一生懸命信仰すれば、あなたの病気は必ず治ります」私も正直なところ、「ほんまかいな」という気持ちを持ちました。といいますのも、小僧のころから十輪寺にいた私でさえ、一度も辯天さまのご尊像等見たことがなかったからです。
「不思議なことを言いはるな」そう思いながらも、言われたとおり、十輪寺の境内にあって何百年もの間、締め切ったままになっていた古いお堂の扉を開けてみました。すると、何とももったいないことか、埃まみれで腕の取れてしまった辯才天女尊像が安置されてるではありませんか。
さっそく、そのお堂を清め、ご尊像に腕をおつけしました。そして毎朝ご真言を唱えてお祀りするようになりました。不思議にもお宗祖の腕の痛みが治ったことについては、お宗祖が在世中、お話ししていたとおりです。
お宗祖はこれをきっかけにして、その後まもなく辯才天の天啓を受けられ、人智でははかり知れない数々の霊能をあらわされるようになって行くわけです。

3) 辯才天像2体を発見(生命の泉水澄明の巻116Pから)
近所の古老がある時の話のついでに言い出した。
「あんたところには辯天はんが1体、いやはるはずや、その辯天はんは、手も足も取れ放題でほったらかしてある。それがあかのやないか。いっぺん調べてみたら」そんな話は聞いたこともなかった。清子は帰宅するとすぐ夫にたずねた。「そんなことは聞いたことがるかな」子供のころから鷲林寺に住めなれた智祥も首をひねった。「とにかくこの寺はもと奈良時代に、西大寺の霊場やったと聞いとるし、西大寺というのが辯才天をまつった開かれた寺やしの。そうそう亡くなった純祥和尚からもこんな話を聞いたわ。以前弘法大師の作った辯才天像があって、江戸時代にはそれをまつっていたこともあったそうや。ワシはもちろん純祥和尚も見たことがないというとった。
しかし、念のためや、物置の隅なり、あらためて見よか」順々に中の品物を検め手から智祥は境内にある一つの祠に向かった。むかしは何かの祠に使用したらしいが、今は格子戸の桟も崩れ、智祥の子供の時からすでに物置の代用として使用していた。
この祠を開け、中の品物をかき分けた時、清子と智祥は顔を見合わせた。埃にまみれ、うす黒く汚れ、両手は肩のあたりからもげ落ちていたが、紛れもない辯才天の木像が片すみにころがっていた。
更に、本堂に床下からからも、護摩の灰で作った8寸ほどの辯才天像があらわれた。この像は弘法大師の作であり、木像は行基菩薩の作であった。
直ちに祠の清掃が行われ、辯才天の像は修理に出され、掃き清められた祠の中には新しい祭壇が設けられ、智祥はうやうやしく般若心経を読経した。

4) お宗祖様は辯天さまのお体と一体
事故はもう一つあった。修理された辯才天像を祀った翌朝、清子は、両肩のあたりに熱鉄をもみこまれるような激痛を覚えた。「あんた、辯天はんを調べてみて」清子は夢中で、夫に訴えた。
像を調べてみるともげ落ちた像の手の修理に職人が手を抜いてさび釘を打ち付けてあるのを発見した。今度はにかわで貼り合わせる再修理が行われた。驚いたことに清子の肩の痛みがピッタリ治った。
後年、妙に両肩が左の方にひねれるように引きつってきた。医者が診断しても原因不明のままで、念のため辯才天像を調べてみることにした。新しく作られた祭壇の戸を、智祥がシキミの葉を口にくわえてあけてみると、どういうはずみか辯才天像が左の方に45度ほど回転していた。もとのように修正すると清子の肩のねじれはたちまち治った。

5) 天啓前の白髪白髭の老人の夢
(生命の泉、水澄明の巻120p、天啓前の昭和9年のある夜、白髪白髭の老人の夢を見る)
清子はこの老人が宇賀神将であったと主張するが、その老人が、おごそかに指示した。「お前の寺の西の崖の石垣に使っている石の中に無縁仏の墓が多く混じっている。これを掘り起こし供養しなければ、家族の病苦の災難は、防ぎきれないであろう」清子はこれを夫に話した。智祥は、石垣の石は数が多いので、かたっぱしから鍬で掘り起こすわけに行かず思案していると、清子がいきなり「その石の1つ1つ、鍬でたたいてみて」と言った。智祥が言われるとおりした。清子が「それや」と叫んだ。掘り起こしてみると墓石らしい日付がかすかに読めた。「どうして判ったんや」と智祥は目をみはった。「その石をたたいたときに、頭にピーンと痛みが走りましてん」何もいわずに智祥は大きくうなずき、石をたたいた。みるみるうちにいくつかの無縁仏の墓石が掘り起こされた。

6) お風呂屋さんの道筋の夫婦岩(無量の日々117p)
十輪寺の近くに野原でたった1軒のお風呂屋さんがあり、その道筋には古い溝が掘ってあり大きな石が置いてあった。お宗祖さまはその石を「夫婦の石塔や」「あの石をあのままにしておいたらこの村は発展せえへん」といわれ、人夫を雇って大勢で掘り起こしてみましたらお宗祖さまの言われるとおり夫婦の石塔でした。十輪寺の墓地に移し供養しています。

2 天啓(生命の泉水澄明の巻123p)
1) 天啓を受ける
昭和9年(1934)4月17日宗祖さま26歳。宗祖さまが庭の花壇草むしりをしておられると、一天にわかにかき曇り、むら雲が舞い
降りました。
(※一部を補足:智祥管長の記憶ですとさんさんと降りそそいでいた日光が、ふいにかわった。寺の上の空を突然雲がおおったという。同時に清子がよろめいた。「どないした。大丈夫か」「ええ、ちょっと目まいがして、日射病かしらん」と清子は智祥に暫くもたれていたが、今度は、ぐうっと、胸元に、息苦しさがこみ上げてきた。ただごとではない、早く座敷に上がって休まなければ……「胸が苦しいわ、家に入って休んでいる」清子は、よろめく足を踏みしめて歩き出した。座敷へ一歩入った瞬間だった。)
突然天井がわれるような音がとどろいた。ハッとしてふりあおごうとしたとたん、体になにかが激しく突き当たる感覚がして。清子は、そのまま、前にのめり込んだ。気が付いた時、清子は、水の中にいた。清明で澄徹(ちょうてつ)した水であった。不思議なことに、水ということは、はっきりと肌に感ぜられたにもかかわらず。呼吸は安らかであった。どこからともなく東洋的な音楽が流れてきた。
水中に白い小蛇がふいと姿を現した。清子をさそうように、泳ぎ出す。そのあとを追うと、小蛇の姿がすっと消えたかと思うと、そこに、一人の女神が現れた。画像などで見なれた姿と、細部に幾分の違いがあるように思われたが、清子にはこれが辯才天そのものであることが直感的に判った。清子はひれ伏した。いや、水中のことであるから、清子の心がひれ伏したということであろう。
水中の辯才天、それは玲瓏(れいろう)という形容詞がピッタリと当てはまる姿であった。裳裾(もすそ)がゆるやかになびいていた。水煮と経理走に、うすく、すきとおっていた。辯才天は口を開いた。「よく来たぞ。そなたの成長を待っていた」清子の頭の中に、涼風が吹き抜けて行った。「そなたは人妻となり、人の子の母となって、もはや、世の人とたちまじっての修行は終えた。これより先は、この辯才天の顕神、身代わりとなって、現世にあって、人の苦しみ、悩みを救うがよい」辯才天はさっと手をふった。透明な水が静かに流れ出した。「低きに流れ、低きにしみ通るのが水じゃ。水の心を心とせよ。辯才天は、常にそなたとあって、現世苦行を滅するであろう。いざ、両手を前に」清子はつかれたように、両手を併せて、手の平を上に向けて待った。「神の叡智をそなたに伝える。うけとれ」声と共に、辯才天の手から金色に砂がさらさらと流れ出た。金剛智をたたえた金剛砂なのだ。砂はこぼれて清子の手の上に盛り上がり、あふれこぼれて水中に散った。その上に、更に砂がこぼれ続けた。四次元の世界から無限循環するように、砂は辯才天の手からやむことなく、流れ出してくるのだ。(間違っているかも知れませんが、この時の状況はお宗祖さまは肩まで水につかり、辯才天さまは水の上に立っておられたと覚えています。更に冥應寺の中段噴水の幼女期のお宗祖さまの両手は金剛砂を受ける手であると説明されています。)

2) 紙と筆(生命の泉125p)
「清子、清子」の声に、お宗祖さまがハッと気付くと、智祥の顔、姑のケイ、母のスエ、急を聞いて駆けつけた檀家の人びとの顔に囲まれていた。ガバと身を起こすと「神と筆をもってきとくなはれ」といい、持ってきた筆で紙に清子はなかば無意識のまま、夢で聞いた辯才天さまの言葉を書き始めた。智祥は目を丸くしてその字を見ていた。その頃清子が知るはずのなかった梵字なのだ。
スエさんが後日、「いきなり起きあがったかと思ったらえらい難しい字をスラスラ書きよりましてん。あとになったら、もうかけんというとるんですよ」と回想しています。
(無量の日々119p)お宗祖は、夢の中で聞いた辯天さまのお言葉や」と言ってさらさらと梵字を書いて行くのです。その時お宗祖の回りにただよう何とも言えない霊気を感じて私は心を打たれました。その時、その梵字と一緒にお宗祖が書き上げたものこそ現在、教えの中心となっている「五行のお諭し」なのです。

by nohara4241 | 2007-09-10 16:56 | 法話宗祖伝