利供養、敬供養、行供養について

祖先の供養について(利供養、敬供養、行供養)  大森慈祥

(昭和31年11月17日 妙音38号)

利供養、敬供養、行供養の説明のために、現管長様が宗務総長時代に書かれた記事を転記しました。
項目
1 祖先の供養は人間としての道
2 利供養
3 敬供養
4 行供養



1 祖先の供養は人間としての道

ご神示を受けられている信者さんの中で『あなたはご先祖の供養が足りませんね』とお宗祖様に言われている人がよくある。
近頃の若い人の間では祖先の供養などして何になる。それは祖先崇拝のばかげたことだという考え方が多分にある。
民法では家という観念がなくなったため家系など問題でない。
親の残した財産を子孫は当分に相続する。
権利があると主張して、親の追善供養などには勿論責任を持とうとしなし。
親の恩などは封建時代の遺物でつまらぬものだとかたづけている。
誤った自由主義。何でもかでも物に頼る物質至上主義の冷たい考え方である。
親の尊さ、先祖の尊さが分からないのです。
先祖が親があって自分達がある。
自分は祖先から親達までの尊い生命の分け身である。
祖先の生命が、親の生命が自分の中に生きていることを思うとき、その有り難さ、尊さがしみじみと味わえるのである。
人間は死んだら元に元素に還元してしまって、生命というものは無となるのだから、法事とか、葬式などつまらぬ形式であるという物質至上の人々の考え方は、死んだら本当に何もかもなくなってしまって霊など残らないというのでさる。
しかし、実際、こんな考え方で生活する事が、本当にその人に幸せであるかどうか。
それまでは宗教など無関心であり、おまけに不必要だと言っていた人が、急に愛妻を失ってから、家へ出入りの度に仏壇にお参りし、また花や線香などを持って日曜日毎にお墓へ参りするようになった。
又、普段は強情を押し通して宗教など馬鹿にしていた人が愛児を亡くしてから、真剣にお寺参りをするようになり、性格もうってかわったように温和になって例もある。
他人の死を見た時、あれは元素に還元したのだと言って冷たく平気でおられるでしょうが、実際自分の身になって愛する者に死に別れた時には、その死がいは焼いて灰になろうが、自分の心の中で生きている亡き人の霊魂をかき消すことは中々できないものである。
であるから真剣にその亡き人のために供養をしよう。
その亡き人に意思を尊重しようという心になって行くのが、本当であり、幸福のやってくる道ではないかと思うのである。

2 利供養

仏の供養には3種類ある。①供養、②供養、③行供養である。
この3つが一緒になって本当のできるのであって、この中の1つでも欠けると功徳はない。
利供養とは、香りや花や食物を仏前にお供えする供養のことである。
死んだ人に花を供えたとて、それが何になるというのは、愛する人に死別したことのないものが言える理屈である。
亡くなった父が餅が好きであったから、命日には餅を作ってお供えしよという心。
死んだ夫がタバコが好きだったからタバコに火を付けて墓前にお供えする妻の心。
それは真心である。亡くなった父が出てきて餅を食うのでもなく、夫が出てきてタバコを吸うのでもない。そんなことは百も承知で、それをしなければならないのが人情である。
その時の人の気持ちはまことに美しい者である。
その真心が通じて大きな功徳が涌いてくるものである。

3 敬供養

字の通り、神仏の徳を讃え、信心して敬うことである。
これも人として誠に美しい行いである。
あんな意味の分からない経文を読んで誰にも分からないではないというが、そうではないので、亡くなった人の命日には僧を招いて、経文を読誦して頂き、又その講義を聞きそれによって生ずる功徳を回向するのです。
多くの霊立ちとともに経文を誦ずるその真心が大きな功徳となるのです。
我々が祖先の霊と一緒になって、その徳を感謝しつつ日常の生活にいそしむ………何と美しいことではないか。

4 行供養

教えに従って世のため人のためになる善い行いをするのが行供養である。
前の2つにもまして大きな功徳となる。多くの人達は、仏の供養と言えば、前の2つ即ち供物を供えたり、経文を読む事のみ考えがちで、この行供養を忘れている場合が多い。
幾ら仏の供養だからと言って、物を盗んできて供えても供養にならないし、又幾ら僧を招いて経文を読んで頂いても、その後で人にあらざる行いをしたとすればそれはもう功徳は消え去っているのである。殺されかかている魚を川へ放してやる。
籠の鳥を野に放してやる。勿論大きな功徳になる。
その外、貧者に食物を与えたり、衣料を施したり、病人を慰問したり、社会のために金品を提供したり、又自分の信ずる教団に応分の寄進をする事もまた大きな供養となる。
仏の供養とは、世のため人のためになる事と別に考えてはならない。
世のため人のためになることが、即ち仏の供養ともなるのである。
以上3つを完全に行わなくては、仏の供養はできない。
そして、それが完全にできて始めて我々の因縁も解けてくるのであり幸せへの道が開けてくる。
その供養しようと言う美しい行いが、心が、私たちに幸せをもたらす物であると信ずる。合掌

現管長様の妙音投稿記事を転記しています。
しかし、これもお宗祖さまの言われた先祖供養そのままではなく、お坊さんの常識としての供養方法です。

[PR]