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妙音新聞10号 緩みない信仰

緩みない信仰 (昭和27年2月、妙音10号から) 神代智辯尼
(編集項目:ブログ者)
1 参詣の途絶える方
2 1ヵ月に1日か半日でも参詣
3 弁天様の命日(一般的に縁日という)には参詣
4 私達の造った罪障の報いとお救い下さる弁天様
5 神様仏様の罰はない
6 自分より困っている他人を先に




1 参詣の途絶える方

毎日弁天様にお仕えしてご神示をお伝えいたしておりますが、雨の降る日も風の強い日も定められてありますので、90名か、100名の参詣者の中には、何人か、幾10人かの新しい参詣者が居られます。
ご神示のお札を得られて私の前に座られるまでには寒い朝暗い中から家を出られて、不自由な乗り物で参詣されて2度か3度は必ず抽選に漏れて漸くにして、ご神示を受けられたのです。
そして有り難いご神示によって救われ、弁天様の広大無辺の慈悲を慕って熱心な信仰に喜んでおられる方は限りない事実でございます。
私が弁天様にお仕えしてご神示をお伝えするようになった早いものです。
20年近くになります。
この長い年月信仰されて、弁天様の限りないお慈悲に歓喜感謝の生活をしておられます方も大勢見られ、私もその信者とともに感謝しています。
しかし、多数の信者の中には、何時とはなしに参詣も途絶えて音信もなくどうして居られるのかと、ときおりその人を思い出すことがあります。
そして忘れた頃に思いがけなく参詣されては家族の病気か、あるいは重大な災難で困った結果弁天様のご神示を受けに来られるのです。
皆様仏は慈悲が本能であられますから、信仰に怠けていて困ったときに縋られても決して憎しみを持ってはおられませんが、もしその人が信仰の念がゆるまなかったら今度の病気も、また大きな災難も起こっていなかったかも知れません。

2 1ヵ月に1日か半日でも参詣

家庭の都合で心ならずも、ご参詣の足が遠のきますことも致し方ありません。
ご都合の悪いのを、無理に参詣の足を運びなさいとお奨めするのではありません。
ご都合の悪いときは、皆様のお宅にてお祀りしてあるご分身に礼拝されて感謝の真を尽くされるので結構だと存じます。
しかしそれも心の持ちようでは1ヵ月の中で1日か半日の参詣の日がないということもないかのように考えられるのです。
以前病で医者に見放され泣いたとき、思いがけない災難に悩んだ節に弁天様にたすけていただいてうれし泣きに喜んだその時のことが心から消えていなかったら、忙しいからとて、1ヵ月に1日か半日の参詣が出来ないはずはないと存じます。
私が皆様にたびたび参詣の足を運ぶ事をお奨めいたしますのは、皆様の信仰の念の緩みなく信心の薄れないようにとお祈りするからであります。

3 弁天様の命日には参詣

どうか皆様弁天さまの御命日は毎月17日であります。
せめては間にお詣りのできない方は御命日(一般的に縁日といい、現行は各月感謝祭)なりとご参詣して感謝の念を新たにしていただきたいものです。
本部に参詣しないでも信仰さえして居れば弁天様に見捨てられないと申します。
それも尤もなことです。
しかし、遠ざかれば知らず知らずの中に忘れられて行くのは世の中の常であります。
例えて申しますと、熱心な映画フアンの方が毎週封切りに欠かさず見物に出かけておりましたが、病気にかかったので見物に行けなくなりました。
半年ほど映画館に行かなかったのが自然と習慣となって、映画も見たくなくなります。
映画と信仰は異なりますが、お互いの環境は自分の心つかないうちに感化されて参ります。

4 私達の造った罪障の報いとお救い下さる弁天様

自分では一心に信仰され感謝しておられるつもりでも、参詣が途絶えておりますと、知らぬ間に心に緩みが出来て、いつの間にか信心が薄れて行きます。
私たちは無始以来今の世にいたります永い永い間に種々の障りや色々の罪を造ってあるはずです。
お互いに病気で苦しむのも、災難で悩みますのも、皆今日まで造り犯した罪障の報いであります。
この罪障の償いによって、苦しむのを弁天様にお縋りして助けられたのです。
しかしその罪や障りが一時期に現れてくるのではありません。
その時その折りに現れて参ります。
弁天様に初めてお縋りして救われたその時のお慈悲の有り難さを心にしみ込んで一筋に信仰の真を捧げて、毎日感謝の生活をしておりますと、2度目に現れてきた小難は私達の心つかぬ間に弁天様は無難に助けてくだされ、その次に現れてきた大難も小難としてお救い下さるのです。
もし私たちの信仰に緩みが生じて、信仰が薄れたときに罪障の報いが現れて参りますとその罪や障りはそのままに受けて苦しまねばなりません。
そしてこの罪障は何時現れてくるのか、またどんな報いとなって、苦しまねばならないのか、神仏以外には分からない事であります。
現在自分の造った罪障の報いで苦しみながら、その事をも知らないで、自分の不幸のために世を恨み、他人を恨んで罪業を重ねている世の中に、何の果報によってか大慈の弁天様に結縁していただき、日常安穏にお守護を蒙り、もし不測の難に苦しみますときは、ご神示によってお救い下さる。
私達弁天さまの信者ほどよに幸せなものはありませんと感謝の首を垂れるばかりです。

5 神様仏様の罰はない

昔から神や仏の罰が当たったと申しますが、真の神や仏は慈愛が本能であられますから、衆生救済のご誓願から私達をお救い下さったのです。
その救っていただいた御恩を忘れたからとて神仏は決して私達の罰を科せられるものではないと信じます。もし罰が当たったと思うときは、その人が神や仏から守護されて居らなかった時だと思います。
私達が一筋に感謝の信仰をしていますと弁天様は常にお守り下されて、現れて参ります。
災難病難を除いてくださいますが、前にも申しました通り、信仰が薄れたり怠けている時に、罪や障りの報いが起きますと報いをそのまま受けることとなります。
それを罰が当たったと申すようです。
切角ご縁に催され、一度はお慈悲を受けながら信仰の念が薄れた故に思いがけない災難に遇って取り返しのつかぬ大慈になって泣いて後悔して居られる方も沢山に見受けます。

6 自分より困っている他人を先に

月日の経つに従って、参詣の方が増えて参りますが、現在の有様では、毎日のご神示もこれ以上には望めません。
籤に洩れて不本意に帰って行かれる気の毒な方を見るにつけて講社の方も一般の信者さんにも、もっと信仰に徹して頂きたいと思います。
この不自由な札を持ってご神示を受けられる中に、この札を他の困って居られる方に譲って上げたらと思う様な方が必ず何人か何10人かはあります。
信仰は自分だけの喜びであってはなりません。
困って居る人をも救ってあげる慈悲心がなくてはなりません。
自分の困る事柄と他の人の困っている事柄とを比較して自分よりももっと困って居る人に札を譲ってあがてください。
その慈悲善根は必ず神に通じます。