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ご宗祖さまの物語(6)

都島教区便り平成22年1月号に「ご宗祖さまの物語(6)」と題して教区長優谷壽男さんの記事がありました。参考になりますので転記させてもらいました。
ご宗祖さまの物語(5)の続きです。 
ご宗祖さまの物語(1)の戻ります。

カテゴリーは「講師の回想」に入れます。
優谷教区長はお運び研席の教使でした。
ご宗祖さま物語は、宗祖伝の原稿からのお話ではないかと思い、従って教区便りの記事を転記することにしました。

がっこたてて

清子には忘れられない友人がいた。
その子は脱臼したため足が不自由になっていたので、ことあるごとに同級生にいじめられた。
しかし、何を言われても黙った笑っているようなおとなしい子だった。
その子にとって清子だけが仲の良い友達だった。
そのうち意地悪がエスカレートしていった。
ある日、何人かの同級生が校庭の隅でおしっこをして、その上にいらないものを捨て、さらに新聞で覆い、その子に「ちょっとこれを丸めて捨てて来てよ」と言いつけた。
言われたその子は「ええよ」と言って、新聞に包まれた汚れたものを持って、足を引きずりながらゴミ箱へ捨てに行った。
清子は何故止められなかったのかと悔み、忘れられない出来事となった。
その後、6年生になった歳に突然姿を見なくなった。
吉井家の持ち山であるマツタケ山のすぐ横に住んでいたので、マツタケ山に出かけるたびに思い出すのだった。
時は流れて昭和39年、1世管長と一緒に大川橋を渡っている時、偶然にも再会したのだった。
その友人は宗祖になった清子の噂を聞いて訪問する所だった。
早速庫裡に伴って行き、思い出話に花を咲かせた。
5年生を終えて退学した後、ある酒屋さんに奉公に行った。
2人の子の子守をする仕事だった。
何年かしてそこの奥さんが3人目を出産したが、産後の肥立ちが悪くて亡くなってしまった。
若旦那は「これからどうしたらいいのだろう」と途方に暮れてしまった。
その日も一生懸命赤ちゃんをあやし、おむつを替え、世話をしてくれているその子の姿を見て、他人には任せられないと思った。
上の2人の子も安心してなついている。
この子こそ再婚するにふさわしい人だと考え、若旦那はうちあけた。
このようにして後妻に迎えられたのである。
不自由だった足も、ご主人の勧めで手術を受け完治し、今では健康な人と同じように歩けるようになった。
あの穏やかな人を許す心、どんな人にも尽くす心があればこそ、この幸せを手に入れることができたのだ。
建設中の智辯学園へも多額の寄付をしてくださった。
吉井家ではカイコを飼っており、その世話はすべて母すえが受け持っていた。
これが大変な作業なのだ。1日6回食べる。
それも規則正しく与えないと死んでしまう。
小さい時は桑の葉を細かく爪切りのようなもので刻んでやらないと食べられない。
春から秋にかけて飼うのだが、室温を26度くらいに保たないといけないし、濡れた葉を食べたカイコは病気になってしまい、油断すると伝染して行くのだ。
吉井家の桑畑は、屋敷のすぐ裏の山の斜面にあった。
その季節になると、桑摘みに出る母が心配で授業に身が入らない。
ポツリポツリと雨が降ってこようものなら「先生、雨で母が困っていますから行かせてください」と言って、母のもとに駆け付けるのだった。
母を助けるために、時々学校を休んで桑摘みの手伝いにでることもあった。
時には風の向きによって、学校の方から音楽の授業で歌っている同級生の歌声が聞こえてくることもあった。
すぐ目の下に吉井家の屋敷があり、少し目を左に転ずると手の届きそうな所に学校がある。
そこから聞こえてくる唱歌は、季節がら「茶摘歌」が多かった。
「夏も近づく88夜……」友達と一緒に授業で歌いたいのに歌えない。
清子にとって悲しい思い出の歌になった。
祖母たつが病気になって3か月ほど床についたことがあった。
スエは毎日忙しく仕事に追われているので、たつの看病は清子が一手に引き受けた。
夜中に起きて下の世話をしたり、薬を煎じたり、食事を作ったり、衣類の洗濯をしながら学校に通った。
時には遅刻したり、早退することもあった。
手が空くとマッチの軸で(原文マッチ箱と軸で)人形を作り、何人かの生徒に見立てて並べ、清子が先生になって、人形に喋らせて学校ごっこをしていた。
勉強したいという気持ちを慰めていたのだろう。
その頃、家の大黒柱に
あさおきて、きものきて
おくすりとって、がっこたてて
と落書きをしたのを母すえに見つけられて大変叱られたのだった。
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ご宗祖さまの物語(5)

都島教区便り平成21年11月号に「ご宗祖さまの物語(5)(お大師様の像)」と題して教区長優谷壽男さんの記事がありました。
ご宗祖さまの物語(4)の続きです。 
ご宗祖さまの物語(1)に戻ります。

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優谷教区長はお運び研席の教使でした。
ご宗祖さま物語は、宗祖伝の原稿からのお話ではないかと思い、従って教区便りの記事を転記することにしました。

大正4年(1915)4月、7歳になった清子は村立水分小学校に入学した。
ふくふくとした丸顔で誰からも可愛がられたし、勉強も良くできた。
また妙に友達がまわりに集まるという不思議な魅力を持った子だった。
1人の同級生の髪を梳いていると「私も梳いて」「私も梳いて」とたちまち清子のまわりに人が集まってくるのだった。
当時「吸い玉」という民間療法があった。
拳大の鐘状のガラス容器にマッチを擦って入れ、針で突いた肌の密着させる。
マッチが燃え尽きるとと共にガラス器具の中の気圧が下がって悪い血を吸いだして筋肉の凝りを解消してくれるというものであった。
清子は祖母から学んだ吸い玉を近所の人にしてあげた。
すると「清ちゃんの吸い玉はよく効く」と評判になってしまった。
学校から帰ってくる清子を待って家の前に行列ができた日もあった。
さすがに重吉も困って、清子にやめるように説得した。
また檀那寺本善寺に毎週日曜日に開かれる子供を対象にした日曜学校にも積極的に出席した。
何時も一番前で熱心に法話を聞いている姿にお寺の住職も感心し、年に1度門徒衆のほとんどが参詣する報恩講では御文章の箱を捧げ奉る役を毎年清子に割り当てた。
父重吉と大の仲良しで、以後の好敵手であった吉川というお医者さんがいた。
この方は奥さんに死に別れ、子供もいない天涯孤独の身だった。
それで常々「私が死んだら財産をすべて引き取ってほしい」と重吉に頼んでいた。
しかし、他界された時、重吉は1人で処分するのに気が引けて檀家宗に相談した。
その結果「吉川さんの供養のためにもみんなで分けて活用させていただきましょう」ということになった。
吉川家の道具を本善寺に運び、集まった村人たちに好きなものを引き取ってもらうことにした。
あれやこれやとにぎやかに品選びをし、希望の品を持ちかえった後に、少々大きな桐の箱が残った。
ままごと遊びに丁度いい大きさなので、清子は初めから欲しいと思っていた。
「私これ欲しいな」と父に言った。
中に何がはっているのか開けることになった。
しかし、金具が錆ていて簡単に開かなかった。
やっと鉄の棒でこじ開けて見ると、中には緋衣を召したお大師さんが座っておられた。
重吉は難色を示した。
吉井家は先祖代々「南無阿弥陀仏」だけを唱えてきた熱心な浄土真宗門徒である。
真言宗の開祖である弘法大師の像を家の中に祀ることはできないと思ったのだろう。
しかし、清子はなぜかこの大師像が欲しくて欲しくてしかたがなかった。
一生懸命父親にお願いしたので、ついに「粗末にならないように毎朝お給仕して拝む」ということを条件に許してもらった。
何年か経て、清子が結婚した後、吉井家に不幸が続いたので、祈祷師に拝んでもらった。
するとこの大師像が現れ「娘さんと縁の深いお大師さんだから、いつまでも吉井家で祀っていてはらいけない。すぐ娘さんの許に返しなさい」というお告げだった。
母スエ(原文=すえ)は、早速お大師さんを背負って清子の新居である上市大師堂に運んだ。
その後、この大師像は清子とともにあって、現在は如意寺の本堂右側にお祀りされている。
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