ご宗祖さまの物語(5)

都島教区便り平成21年11月号に「ご宗祖さまの物語(5)(お大師様の像)」と題して教区長優谷壽男さんの記事がありました。
ご宗祖さまの物語(4)の続きです。 
ご宗祖さまの物語(1)に戻ります。

カテゴリーは「講師の回想」に入れます。
優谷教区長はお運び研席の教使でした。
ご宗祖さま物語は、宗祖伝の原稿からのお話ではないかと思い、従って教区便りの記事を転記することにしました。

大正4年(1915)4月、7歳になった清子は村立水分小学校に入学した。
ふくふくとした丸顔で誰からも可愛がられたし、勉強も良くできた。
また妙に友達がまわりに集まるという不思議な魅力を持った子だった。
1人の同級生の髪を梳いていると「私も梳いて」「私も梳いて」とたちまち清子のまわりに人が集まってくるのだった。
当時「吸い玉」という民間療法があった。
拳大の鐘状のガラス容器にマッチを擦って入れ、針で突いた肌の密着させる。
マッチが燃え尽きるとと共にガラス器具の中の気圧が下がって悪い血を吸いだして筋肉の凝りを解消してくれるというものであった。
清子は祖母から学んだ吸い玉を近所の人にしてあげた。
すると「清ちゃんの吸い玉はよく効く」と評判になってしまった。
学校から帰ってくる清子を待って家の前に行列ができた日もあった。
さすがに重吉も困って、清子にやめるように説得した。
また檀那寺本善寺に毎週日曜日に開かれる子供を対象にした日曜学校にも積極的に出席した。
何時も一番前で熱心に法話を聞いている姿にお寺の住職も感心し、年に1度門徒衆のほとんどが参詣する報恩講では御文章の箱を捧げ奉る役を毎年清子に割り当てた。
父重吉と大の仲良しで、以後の好敵手であった吉川というお医者さんがいた。
この方は奥さんに死に別れ、子供もいない天涯孤独の身だった。
それで常々「私が死んだら財産をすべて引き取ってほしい」と重吉に頼んでいた。
しかし、他界された時、重吉は1人で処分するのに気が引けて檀家宗に相談した。
その結果「吉川さんの供養のためにもみんなで分けて活用させていただきましょう」ということになった。
吉川家の道具を本善寺に運び、集まった村人たちに好きなものを引き取ってもらうことにした。
あれやこれやとにぎやかに品選びをし、希望の品を持ちかえった後に、少々大きな桐の箱が残った。
ままごと遊びに丁度いい大きさなので、清子は初めから欲しいと思っていた。
「私これ欲しいな」と父に言った。
中に何がはっているのか開けることになった。
しかし、金具が錆ていて簡単に開かなかった。
やっと鉄の棒でこじ開けて見ると、中には緋衣を召したお大師さんが座っておられた。
重吉は難色を示した。
吉井家は先祖代々「南無阿弥陀仏」だけを唱えてきた熱心な浄土真宗門徒である。
真言宗の開祖である弘法大師の像を家の中に祀ることはできないと思ったのだろう。
しかし、清子はなぜかこの大師像が欲しくて欲しくてしかたがなかった。
一生懸命父親にお願いしたので、ついに「粗末にならないように毎朝お給仕して拝む」ということを条件に許してもらった。
何年か経て、清子が結婚した後、吉井家に不幸が続いたので、祈祷師に拝んでもらった。
するとこの大師像が現れ「娘さんと縁の深いお大師さんだから、いつまでも吉井家で祀っていてはらいけない。すぐ娘さんの許に返しなさい」というお告げだった。
母スエ(原文=すえ)は、早速お大師さんを背負って清子の新居である上市大師堂に運んだ。
その後、この大師像は清子とともにあって、現在は如意寺の本堂右側にお祀りされている。
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ご宗祖さまの物語(4)

都島教区便り平成21年9月号に「ご宗祖さまの物語(4)(二重橋は誰でも渡れるようになる)」と題して教区長優谷壽男さんの記事がありました。
ご宗祖さまの物語(3)の続きです。 
ご宗祖さまの物語(1)に戻ります。

カテゴリーは「講師の回想」に入れます。
優谷教区長はお運び研席の教使でした。
ご宗祖さま物語は、宗祖伝の原稿からのお話ではないかと思い、従って教区便りの記事を転記することにしました。

大正3年(1914)6月28日、バルカン半島のサラエボで白昼セルビア人青年によって発射された銃弾はオーストリア皇太子フランツ・フェルディナンド夫婦の命を奪った。
この事件が文字通り引き金となって7月28日オーストリアはセルビアに宣戦を布告した。
やがてドイツ・イタリア・トルコがオーストリアに味方して参戦し、イギリス・フランス・ロシアがセルビアに味方して参戦した。
第1次世界大戦の勃発である。
日本は日英同盟に基づいてドイツに対して宣戦布告した。
中国山東半島におけるドイツ租借地青島を攻撃し、11月7日占領した。
日本全土は戦勝気分に沸き返り各地で提灯行列が挙行された。
吉井重吉は、日露戦争の時出征し、旅順の203高地で武勲を立てた忠君愛国の士であった。
座敷の欄間には明治天皇皇后両陛下、大正天皇皇后両陛下のお写真が飾られ、皇居の象徴である二重橋の写真も掲げられてあった。
青島陥落の時も在郷軍人会の幹部として戦勝祝賀行事を指揮していた。
行事終了後主だった人たちと共に氏神様に参拝し、そのまま自宅に招いて祝宴となった。
3人の子供たちも下の席でご相伴にあずかっていた。
お酒が進み日露戦争における武勇伝も語り終えたころあいに、重吉はこんなことを言った。
「一生に一度でいいから二重橋を渡って天子様を拝みたいと思いますねん」
「それは大層な望みやおへんか。めったに人の渡れる橋やないもんな」
と一同ため息をついた時、下座にいた6歳の清子が
「そやけどそのうち誰でも渡れるようになる」
と言った。一座の驚いた眼は清子に集中した。
「清子ちゃん今何て言うたの」
客の1人が尋ねた。
「うん、二重橋はそのうち誰でも渡れるようになる」
重吉は厳しい目つきで
「清子」
と怒鳴りつけた。
「だってそうなるもん」
当時高位高官の政治家か軍人が宮内省の許可を得て、指定された時刻にしか二重橋を渡れなかったのに、天皇の尊厳を傷つける発言に一同は一瞬言葉を失った。しばらくして
「まだ小学校にも上がらん子の言うたことや、何も分からんと言うとるのでっしゃろ」
と執り成してくれる人があって、祝宴は滞りなくお開きとなった。
しかし、重吉は心配だった。
「吉井家の家の中では大変な話をしているらしい」
等と村で噂になったらまずい。
警察の取り調べ等と不名誉なことにでもなったら、今まで築いてきた栄誉も地位も崩れてしまう。
重吉は人に勧められて清子を上市の金光教の教会へ連れて行き、悪霊払いの祈祷を頼んだ。
1週間毎日通い満願となった。
心配していた村の噂も表面には出ず、月日が過ぎていった。
後年、清子はこうはなしている。
「言うたら父が困るのが分かってましてん。言うたらあかんことやと、いいきかせても、あの二重橋の写真を見ると勝手に口から出てしまうのです。自分でも何やらわからんうちに」
その後30数年を経て、民主日本に生まれ変わってからは1月2日と天皇誕生日には誰でも二重橋を渡って天皇陛下を拝賀できるようになった。
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