何のために信仰しているの その2

何のために信仰しているの その1の続きです。

年1回基準の教区感謝祭を3回も開くのですから、熱心な教区です。
平成21年9月15日号の南河内教区便りにM教区長の講話が載っていましたので転記しました。
お話が長いので2分しました。

(てにをはを私なりに修正してあります)
(項目は教区便りについていましたが一部変更しました。)
その1(前回分です)
1 悩み苦しみの解決が信仰の原点です(教区便り=何のために信仰している)
2 腰痛に効く畳作りの黄色い紐のお蔭(教区便り:宗祖さまの腰の紐)
3 お蔭を忘れずに何時までも報恩感謝の信心をする(教区便り:おかげを感謝し信仰を更に)
その2(本回分)
4 「私おらんかったやろ」の声が胸の中で響いた
5 本宗の弁天様は
6 実家は因縁の深い家
7 来し方を省みて
8 私の信仰のあり方(教区便り:弁天宗信者としての活動)

4 「私おらんかったやろ」の声が胸の中で響いた

4年ほど前の秋、竹生島に行ってきました。
偶然重なって琵琶湖の北の方にあるマキノプリンスホテルの割引券があったので行きました。
ところがマキノにつくと雨になりまして、初日は比叡山に行って、翌日は静ケ岳の方に行こうと思っていたのですが、一寸行きにくいと思っていたら、ホテルの前に桟橋があって、あれはなにと聞きますと竹生島に船が出ますが予約制で普通はないが、たまたま明日はマキノ町の行事で「歩けの会」があって迎えの船が来ていますと、それに乗りたいと切符を買いました。
翌日は小雨でしたが3大弁才天と言われている竹生島へ1度行ってみたいと思っていたので、念願かなって言ってきました。
素晴らしいところで心が洗われる思いがしました。
良かったなと思って帰ったのですがとはいいつつ、大和本部(現在の奈良県五条市如意寺のこと)とか冥応寺の本殿(如意寺は本堂といいます)に座ってお祈りをして心がスーッと落ち着くような気分、弁天様の膝元にいて安心というのは感じなかったのです。
結局のところ、観光地なんかなあというような思いをもって帰ってきました。
そんなときに言葉が胸にポンと響いてきたのです。
『わたしおらんかったやろ』とびっくりしました。
それを聞かせるためにわざわざホテルの割引券を与えて雨を降らせてマキノ町の「歩けの会」の船を用意して「行っておいで」と行って来たのです。
それで何を悟ったかというと「竹生島には、私はおらんかったやろ」と(ご宗祖様の声を)聞きました。
本当に涙が出るほどびっくりしました。

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何のために信仰しているの その1

年1回基準の教区感謝祭を3回も開くのですから、熱心な教区です。
平成21年9月15日号の南河内教区便りにM教区長の講話が載っていましたので転記しました。
お話が長いので2分しました。

(てにをはを私なりに修正してあります)
(項目は教区便りについていましたが一部変更しました。)
その1(本回分) 
1 悩み苦しみの解決が信仰の原点です(教区便り=何のために信仰している)
2 腰痛に効く畳作りの黄色い紐のお蔭(教区便り:宗祖さまの腰の紐)
3 お蔭を忘れずに何時までも報恩感謝の信心をする(教区便り:おかげを感謝し信仰を更に)

その2(次回分)
4 「私おらんかったやろ」の声が胸の中で響いた
5 本宗の弁天様は
6 実家は因縁の深い家
7 来し方を省みて
8 私の信仰のあり方(教区便り:弁天宗信者としての活動)

1 悩み苦しみの解決が信仰の原点です(教区便り=何のために信仰している)

信仰の原点について考えたいと思って、「救い」ってどんなんか、何のために信仰しているのということをお話します。
先ず、『弁天さんはすごいな』というところから再認識したいと思います。
この前の記念感謝祭の時に、テープを聞かせていただいて、その時判りづらいところがありましたので、ちょっと紹介します。
石原新太郎さんの話がありまして、昭和30年代後半、40年に入ったころに『巷の神々』という本を出されるのに、大阪本部(現在本部制はなく大阪茨木市にある冥応寺)に来られて、取材されたときの実話です。
ご宗祖様から聞いて、その救われた人の家族も側に居られたということでした。
東京駅の八重洲口。
新幹線から在来線の方に登るところに改札がありまして、そこは凄く混んでおって、小さな子とお母さん2人が手を離していしまって、お母さんは改札の中に入ってしまったけれど、子どもさんは入れなかったということです。
それを見兼ねて、ご宗祖様が「お嬢ちゃん私と一緒に行こうね」と手を繋いで中に入られ、さらに荷物を持っていたので「このままホームまで行こうね」といって階段を上がって行かれ「はい、どうぞ」とお母さんに子供を渡された。
子供は小走りにお母さんのところに行って「あきこ、あのおばあちゃんに手を繋いでもらった」と言ったのです。
お母さんはびっくり仰天しました。
6歳になるその子供は、生まれてから一度も言葉を喋ってことがない。
初めて言葉を喋ったそれだったのです。
大阪天王寺区にある下駄屋の母と子の話です。
その方が感謝祭の席にお見えになっておりまして、石原慎太郎さんはびっくりして生き神様はいてはるんやというて驚かれました。
本当に不思議な力をお示しになる。
その事を本に書いておられます。
本当にすごい神さまだなとお思います。
こう言う話は実に当たり前で、弁天宗の中では、今こういう話をお聞きになってね、結構やなあ、ありがたいなと皆それぞれすごい体験をなさって、苦しいことが楽になった。
病気が治った。
傷みが解消した。
争いが解決した。
悩んで悩んできた事がお祈りすると、何か希望が見えてきたという不思議なことが普通に行われているということを改めて確認したいと思います。

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宗本部から1月の実践目標として示された日々のお言葉16が教区便りに載っていました。

日々のお言葉16 「感謝は形に表さねば、感謝になりません」

「宗祖五行のお諭し」に「感謝の誠を捧ぐべし」とあるように、文字通り感謝は「捧げる」ものである。
有り難いという思いが「捧げる」という形に表され、初めて感謝している事になる。
有り難く思う心が育てば育つほど、何とかしてその思いを相手に伝えようとするだろう。
形に表せないのは、その思いが本物ではないからだと言って良い。
本物の感謝とは、せずにおかれないとする自己の思いの表現で、人に言われたからするものではない。
また、したからと言って、代償を求めるものでもない。

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お言葉16 教区便り
宗務総長さんの日々のお言葉16を考える

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平成22年1月のお言葉16「感謝は形に表さねば感謝になりません」

平成21年12月15日の茨城教区便りから頂きました。
この教区の日々のお言葉は創作です。
善いことが書いてありますので、毎月読んで、他の教区便りの日々のお言葉と比較しています。

学校を卒業する時に先生たちが私達に送る言葉としてくださったのは『世界中の中には、勉強したくてもできない人がいますが、あなた達は恵まれて教育を受けたのですから、何かの形でもかまいませんから社会に出てお返しができるように』でした。
その言葉を思い出すと、出来ていない!と反省です

ただ友人たちのその後を思うと有形無形に頑張っていて、私も自分ができる事で何かという気持ちが湧きます。
このお言葉16にも同じ心が含まれていると思います。
ご近所お付き合いを初め色んなお付き合い、自分たちが生かしていただいているすべてに関して見るに、自分一人では生きて行けないということを実感します。
ほんのちょっとしたことでもどれだけの力や恵みがこもっているかと、考えれば考えるほど感じる事が絶えません。
よく私は、家族や自分自身が災難に出合って助けていただくと人間の寿命は本来はここまで、しかし助かったのはまだやらなくてはならない事がるというお知らせか、まだ修行が足りないということだなと思います。
有り難いと思ったら自然に心と言葉と行動が一致します。
例えばお経を上げるということは敬虔な祈りをささげようという意に出発し、お経を唱える口の行の実行、手を合わせる身行の実行で、感謝の誠をささげる時のお経は身口意の一致で実を結ぶといわれています。
信者としては、感謝箱、ご奉仕等がありますが、感謝は普通の生活でも形に表す事が出来ます。
ご近所ご一緒の町内会の清掃等、自分たちでできることで感謝の心を形に表わしていけます。
1番大事なことはどんな時でも感謝する心を忘れない事だと思います。
自分の今ある事に、人からの気持ちに対しても素直に感謝できるという感性があるかということです。
善く大事な人をなくしたり、ドン底に落ちた時に感謝できるか!という人もいるかもしれません。
私はそんな時でもぐらつかない信仰を持ち続けて苦しさを乗り越えて更に信仰生活を深めている方を目にすると、感謝とは信仰とはこういうことなのだなと教えられます。
とにかく人は身勝手な自分の視野で物事を判断しますが、どんな時でもまず感謝の気持ちを忘れずに、どれだけ自分は生きているかということを胸に手を置いて考えると、自然に答えが得られる事と思います。
以前にこのおことばの時と思いますが、感謝のノートについて書いた事があります。
お運びで先生がその日起きた感謝する事を書いてみましょうと教えてくださった。
ノートに書きとめて見ると毎日たくさん感謝する事に出合っていると知らされました。
書きとめていないと平気で忘れたりしている事が多いのですが、それよりも当り前のこととして記憶にとどめないで、いることの多さに気付きました。
人と人を繋ぐのは何気ないことの積み重ねですが、同じ事に接しても、何でも人の欠点を探して恨み、悪くいう人がいますが、人をよく思い、出会いに感謝できたら幸せに感じるのではないでしょうか。
感謝できる気持や心を失うことなく、素直になることが大切だと思います。

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お言葉16 教区便り
宗務総長さんのお言葉16を考える 
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お運び水の章の法話から抜粋しました。

五行のお諭しの中でのもっと大事なお諭しは不平不満を思わずと言うことであるというお話しでした。

先祖の閼伽又は閼伽水(あかみず){(梵)arghaの音写。価値の意。功徳水(くどくすい)と訳す}を頂いて現在の自分があると言われています。(そうだそうです。)

お宗祖様は、人間は(悪)因縁があるからこの世に産まれてきた。
そして悪因縁をほどくために産まれてきたのです。
悪因縁を一生かけて消すのです。

弁天宗の信仰は、命の源に帰って悪因縁を消すのです。
自分の身の回りに起きてくる嫌なこと苦しいこと嫌いなことは悪因縁により生じてきた出来事です。
それを信仰の試練、行として受けとめて文句を言わず我慢することが悪因縁を消すことになるのですと仰いました。
悪因縁を受け入れず遮断することは悪因縁を含む上からの大きな命の流れを否定することです。
自分の心に不平不満を持って祈り・縋ることは、弁天様には通じません。
従って不平不満を心の隅に持っていては弁天宗の信仰ではないのです。
懺悔→感謝→忍耐=受容が(不平不満の解消=)喜び(幸せ)への道筋です。

お宗祖様は、
人間は因縁の化石。
神を信じてお運びを受けて頂く。
お運びは神様から頂く言葉のムチです。
(お運びでの話は)お返しします。そんなこと言われても出来ませんではだめです。
(お運びでのお話しに対して)そうでございました。私の考えは間違っていました。
お話しの通りさせて頂きますでなければいけない。
お運びでの言葉のムチに反論・反対せずに全部受け入れないさい
と仰った。

(五行のお諭し)
1 真心を常に忘るべからず。
2 慈悲愍みの心を養うべし
3 善根功徳の行を積むべし
4 感謝のまことを捧ぐべし
5 不平不満を思うべからず

真心はあるけど不平不満もあるというその真心は実は存在しないのです。
慈悲憐れもの心を持ち人に優しく思いやりがあるがいつも不平不満を心の隅に持っているのは慈悲愍みの心を養ってもいないし、育ててもいないのです。
人のため世のために善行をしているけどあれは何もしないあいつはダメだと心の思うまた不平不満を口に出す方は善根をしていることにならない。
有り難うございますと相手に感謝の言葉を吐くが、有り難いことはない、目障りだ。
邪魔だと相手に社会に不満を持っていることは本当の感謝はではないのです。

不平不満を思わずの対策として、心の思うことも間違いであるが、心の思ったとしたら、口に出さないことです。
口出さないように真言100反唱える。
それでも不平不満が心にあれば更に100反、200反………と唱える。
ご真言は心を変える不思議な力を持っています。

困ったことがあれば又は月々ご祈願し、星祭りもする。
新年、春秋の護摩祈願にも参加し、お百度も踏む、お加持もするが1度でも不平不満を口に出すとすべてがパーになる。
弁天様に聞いて貰えない。
自分は祈願したお百度を踏んだつもりでも元の木阿弥で弁天様からお陰を助けて頂けない。
不平不満の心を持ってお陰は頂けないのです。
自分の不平不満の心を口に出したことを反省懺悔し、不平不満の心を無くして自分の足らないところを弁天様にたすけて頂くという心構えが必要です。
お宗祖様は人間は因縁という首輪をはめて、宿命という鎖に繋がれている。
そして腹の中には貪瞋癡の3つの毒虫を飼っている。
その3匹の毒虫は不平不満という排泄物を腹に貯めている。
その排泄物が3年5年と貯まってくると苦労、災難、失敗、悩みごとといった悪業に変わる。
米が熟して味噌や醤油に別なものに変わるようにことを異熟といいます。
相手に対する不平不満が溜まり貯まって、今度は自分の災難、苦労、悩みとなって現れるのです。
不平不満を想わずと言う閂を外すと信仰で築きあげた現世来世で幸せになるための功徳が全部パーになっていますのです。
身体は衰えますが心は成長し続けるのです。
心を成長させるためにはありのままをありのままの姿で受け入れるのです。
この姿勢がこの継続が、この世に想いを残さず満足してせぬ境地に導いてくれるのです。

水のお諭しそのままの存在は私達の身体です。
草木の葉が落葉しますが、葉の付け根の細胞にアポトーシスという遺伝子があり秋冬になるとその遺伝子は別命なく自分の意志で葉っぱへの栄養素の補給をストップし、葉っぱを散らすのです。
私達の五臓六腑は何ら不平不満を言うことなく日夜働き、誰から指示されることなく黙々とその使命を実行し、人間という生き物を維持し支えているのです。
自分の任務を忠実に実行していますがそれが水のお諭しの実行です。
等といった法話がありました
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講師が水の章2講での記念感謝祭参加のお話の中でされたお宗祖さまの奇跡の話

水の章では始めに各支部のお宗祖様のお形見拝戴の記念感謝祭のお話がありました。
記念感謝祭に参加してくださいと言うことで、お宗祖様のお加持とお宗祖様と一緒に御親教のお手伝いをした方の奇跡の話がありました。
(記念感謝祭は平成20年4月~平成21年3月で終了しています)

(編集項目:ブログ者)
1 娘さんの食事ができない喉を宗祖さまがお加持
2 20年地面につかなかった踵がついた
3 お宗祖さまの話された法衣の奇跡とそれが起こる信仰心

1 娘さんの食事ができない喉を宗祖さまがお加持

丸善石油社長和田かんじさんの秘書をやっておられた方の娘さんが19才の時食事ができない。なにも喉を通さない奇病になり医者も原因が分からずやせ細って死を待つばかりの時、お宗祖様が突然病室に入ってきて、可愛そうに可愛そうにと言いながら娘さんの喉を2度手の平でさすったそうです。すると食事ができるようになり、翌日医者が診察してどうしたのだと驚いたそうですが見る見る良くなって退院されました。お宗祖様が手で触っただけで病気が消えたという話です。

2 20年地面につかなかった踵がついた

鳴門の教会長さんをやられた方が足の怪我をして右か左の踵が地面につかない後遺症を20年患っていたがお宗祖様の鳴門教区御親教でお宗祖様について各地を回られたところ御親教が終わると今までつかなかった踵が地面につくようになったというお話もありますなどを話され、今年行われるお形見拝戴の記念感謝祭には、奇跡が起こりますから、参加してくださいと話されました。

3 お宗祖さまの話された法衣の奇跡とそれが起こる信仰心

お形見というか、お宗祖様の着物の切れ端や古い着物をお守りに頂かれる信者さんがおられたそうで、生誕祭でコンサートをした島倉千代子さんも管長様にお宗祖様のお形見を頂いていますと仰ったそうです。

お宗祖様の法衣に関するお話です。洗濯した後か前か分かりませんがお宗祖様の法衣が部屋に置かれていたので、係の方に法衣を触っていいですかと断り、扁桃腺を病む我が子に着せたところそれ以来扁桃腺を病むことが無くなったというお話をお宗祖さまがされています。この様な奇跡が何故起こるかは有り難いと信ずる心にあるようにお宗祖様は仰っています。
お形見に触らせて頂けるのはお宗祖様に直に触れて頂く、お加持をして頂く、触ることのできない神様に触れさせて頂く勿体ない。有り難いという心が無くては奇跡は起こらないと思います。
お形見を拝戴することは、20年に1度の「有り難いこと」ですが、信じる心のない方には、又子供のような純真な心のない方には奇跡は起こらないのです。単なる数珠入れでしかないと思います。
昭和35年8月17日の感謝祭でのお宗祖様のお諭しNO2の17 宗祖さまの法衣を着せて子の病気を治す(御利益をもらう心)をご覧下さい。
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何故先祖供養をするのですか質問 その2

何故先祖供養をするのですか質問 の前回投稿記事について更に考えますと先祖を供養するタイプは3つあるように思います。


講師は先祖の遊びとして鳥を殺す鉄砲うちの因果で娘が病気になったそのために先祖供養をする必要性があるという講話でした。
それについて私は先祖供養をするタイプを先祖の因果で苦しみその解決として先祖の悪業を浄化消滅するために先祖供養タイプ(タイプ名をAとします)

次に供養してほしくて現世の子孫に頼ってくるタイプ(タイプ名をBとします)。
Bタイプの先祖供養のたとえ話の1はウラボンエ経(偽経についてNO1 )の木蓮尊者の話でした。
ウラボンエ経のたとえで木蓮尊者と餓鬼道の落ちた母親とのことで書きまたがこれは木蓮尊者の方から母親の餓鬼道の姿を発見したので母親の苦しみを除くために供養するものでした。

Bタイプの先祖供養にはお宗祖さまが体験された第1世管長様の養父大森慧海さんの祟りの話があります。
第1世管長様が大森慧海さんの養子になって高野山大学で勉強中、吉野川で大森慧海さんが心臓まひでしたか水死されます。
葬儀はされたのでしょうが、第1世管長様は高野山大学に戻られ勉学中、金剛寺に泥棒が入り檀家衆から坊さん派遣を要請され、高野山(真言宗)が新しいお坊さんを指名しました。
第1世管長様、高野大学を卒業され(奈良県吉野桜の名所)吉野の大師堂にお坊さんとして赴任して僧侶をします。
その後縁あって十輪寺の住職になり、子供さんにも恵まれます。
水死した大森慧海さんの祟りでしょうか「過去帳を見て知ったのですから。そやから9月の3日が来たら、子が死ぬや、水にはまるや流されることばかりするのです。」とお宗祖さまも述べられています。
昭和36年12月21日お運び席でのお宗祖さまお諭し(仏の因縁)で大森慧海さんの霊に祟られお宗祖さまの子供さんが毎年9月3日になると水にはまる等の事故に遭遇されています。
大森慧海さんを供養するとそれが無くなっています。

私が「何故先祖供養をするのかの質問」についてこれでは先祖供養と言う考え方が足らないのではと思い先祖供養のタイプをABと設けたのですが、その後さらに試行しますとタイプCがあるように思います。

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何故先祖供養するのですかと質問

先祖供養の必要性、理由についてお運びで講師が話された内容ですが、先祖供養については私は供養するタイプ(態様)が2種類あるように思います。
お宗祖さまはこの区分をされていませんので私の私見です。
1つは、自ら・子供及び孫が奇病を患って苦しい。
色んな先生に診察精密検査をしても分からないタイプ。
先祖の悪因縁を背負って生まれてきたタイプ(タイプA)です。

お宗祖さまは、お言葉集等で見た限り、貴方は生まれ変わりですと言われた事はないようです。
しかし、私は自分の悪業を償うために、浄化するために、清算するために生まれ変わってきたご先祖の魂ではないかと思っています。

2つは自らには悪因縁はないが、供養してほしいと先祖が頼ってくるタイプ。
子孫に霊感が強く先祖に頼られやすい体質を持っているタイプ。
この方は、先祖の霊以外にも頼られやすい、憑依されやすいタイプ(タイプB)の方であると思っています。

私は最小限2つのタイプがあると思いますが、講師の方は区分していません。
お盆に聞かされるウラボンエ経(偽経ですが例題としてあげました)の木蓮尊者の母親の供養の話は私の区分では後者の方です。
先祖のためにお経と供物を供養するのは後者だろうと思うのです。これは供物をささげるお経を上げるだけでいいのです。
木蓮尊者が母親のために善根功徳行を積んだとはお話で聞いた事がありまません。
しかし、坊さんに衣食住を施すことが善根功徳行かもしれません。
坊さん以外に衣食住を施す事がないのでおかしな話だと思います。

次の講師の話ででてくるのは私の区分では前者(タイプA)の方です。
悪因縁を積んだ先祖の因果です。一概には同じ魂だとはいえませんが、私にはそう思えるのです。
あの世で悪因縁の因果に苦しみ人間としてこの世に生まれ善根功徳を積み悪因縁を浄化する使命を持って肉体を得たのだと思います。
講師の話には、弁天様を一心信心するそれが善根功徳行に通じるとは言っていませんが私には神仏に帰依する心と礼拝が弁天様(他の神仏)の御助けを受ける最大のポイントであると思っています。
その後に世のため、人のため、周りの人を喜ばす、幸せにする、信仰心を呼び起こす善根功徳行を積むかとが望まれると思います。

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ご先祖様の名前の呼び方

ご先祖様の名前を読み上げる方法について、お運びの講話で話されていないかと注意していましたら、
18年12月3日(日) 水の章17講のお話からご先祖様の名前の呼び方、鐘のならし方についてのお話がありましたので抜粋しました。
私の方法とは違いますが、投稿します。私の方法は最後に私見として付け加えました。

お話は、水の章43「上があるから流れくるなり」のところです。

1 上とは

上とは、何をもって上というのかな。
自分より年齢の高い方を上というのか。信仰の古い方を上というのか。ご先祖を上というのか。
そういう上という存在がどんな方々なのかなということをまず最初に考えることが大事です。
例えば、皆さん方もそうですが、自分という存在をどんな存在か1回見てみますと、私は、職業柄、時折質問されることに「坊さん、人が死んだらどこに行くのでしょうね。」聞いてくる方がいます。
もちろんそんなことに答えられるわけがありません。
しかし、私は自分の思いを話します。
私の見解はどこにも行かないと言うことです。
もちろん、言葉の上ではお宗祖様のお側にとかいいますが、私はどこにも行かない。
ただ、生きる場所が変わるのだと思っています。
今まで一緒にご飯を食べていたのが食べられなくなります。どこで生きて行くのか。
今度は自分お心の中で生きてゆくのだと思います。
だから心の中にいますので、無くなった方には覚えている。
忘れないと言うことが、最大の供養だと思っています。

感謝より先にこれがないと行けません。
『○○の霊』と名前を呼んでチーン(鐘を鳴らす)とします。
あなたのことを忘れていませんよ。私は元気でやっていますよ。チーン。
私は、『○○の霊』チーンとやっています。
名前を呼ぶ、名前は強い力があるのです。
その人の名を呼びますと、その人が出てくるのです。
そういう風な心をもって、『○○の霊』が私の心の中にいるのです。
自分を大事にするということは、『○○の霊』を大事にすることなのです。
『○○の霊』を大事にすることは自分を大事にすることです。
ご先祖様は自分の心にいる。
どこそこにいるのではなく自分の心の中にいるのです。
ご先祖は自分の心の中にいるのだと私は考えています。
そのご先祖が私を支えているのです。

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あけましておめでとうございます。

新聞や教区便りに載った法話を転載して記録しているブログです。
しかも、世界一のお宗祖さま智辯尊女様が創成された新興宗教でのお宗祖さまのお力を少しでも残したいブログでもあります。

教師・講師の法話・講話の内容が信仰の目的・信仰の手段方法について各人ばらばらです。
あの話がいいのかこの話がいいのか選択に困る場があります。

先生のよっては漫談家で面白おかしく話として笑いを取りますが何も残らないのではなく、
エ!それはおかしいよ。それでいいのという不信感がわいてきます。
例えばお宗祖さまは皆さんに、いつも話しかけられていのです。
お宗祖さま話の周波数に皆さんの受信機の周波数を合わせて、お宗祖さまのお声を聞いてください。
皆さまが周波数を合わせるとお宗祖さまのお声が聞けるのですと言った方に会い、
お宗祖さまのお声を聞かれますと質問しました。
聞こえないそうです。お宗祖さまの夢も見ないそうです。
口でいうことと実践の大違いに、エエ!!と驚きました。
往々にして弁がたち、漫談的お話ができる。
その命題にテーマに沿ったお話ができる。
実は話だけで、実践が伴っていない方があるのですよ。

ある先生は朴訥というか変わり映えのしない話をなさりますが、この頃は先生の人物に惚れてきだしました。
考えが素直なのです。
飾りがなく、誰でも素直に応対してします穏やかな雰囲気を持たれている方がいます。
この先生の話を聞くと、自然似顔がほころんでくるのです。
ずしんと話の内容が心に残りませんが、講話を終わって安らぎを得るというか、なんとなく心安らぐ気がします。

さらに別の先生だは、よく勉強しておられるな。有り難いな。導いてくださるのだなといった先生の人間性に引かれ、話に夢中にさせられる先生。
ああいい話を聞いた。お運びに参加してよかったなと思う先生には頭が下がります。

家族に言わせると私のつぶやきを不平不満と取るようですが、私のつぶやきは疑問点なのです。
疑問の解消をお宗祖さまなら「はい、こうです」とご回答されるでしょうが、法話講話の疑問点は、我々凡人にとっては「万機公論に決すべし」でなくては、衆人の理解は得られないと思うのです。
創価学会が末端の組織で討議・討論会というか喧々諤々の話し合いをやり、考え方の統一見解を出しているようです。
しかし、この方式は真宗の中興の祖蓮如上人がお文(信仰上の諸問題に対する上人の見解)と各市町村の末寺または組織に配って、端末は蓮如上人の文書の内容をああでもないこうでもないと話し合い信仰の思想統一をしたようです。
私はその必要性があると思います。
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