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教使の法話 感謝の心NO4

南河内教区便り平成21年1月号に、平成20年最後の教区感謝祭で、如意寺のお坊さん岩城祥英さんの法話が掲載されていましたので転記しました。

感謝の心NO3の続きです。4話で終わりです。

親を大切に

宗祖様はもう一つ、家の繁栄、繁盛を願うのであれば、この条件を満たさなければ、かなって行きませんよという1つが親を大切にしなさい。
親を粗末にする家で繁盛している事は先ずない。
宗祖様のお言葉によく出てくるのが、ご神示を頂きに来たご婦人が商売が急に上手くゆかなくなってこられたのです。
宗祖様は「あなたは、外で見ているあなたは、それは信仰の厚いよくできた奥様に映るしょうが、家にあってのあなたの姿は全然ダメです。そのあなたの心を直しなさい」とのお言葉に、ハッと気づくものがある訳です。
お婆ちゃんがもう少しお茶漬けを食べたいからよそって欲しいというと、まだ食べているのかと(碗を)奪うようにして、(椀に)よそうことがあったそうです。
一事が万事であります。そのあなたの心がいけないと宗祖様は仰ったのです。
それで一生懸命尽くして行きますと商売の方もよくなったというお話であります。
昔神奈川先生という方がおられまして、昭和20年代に信者さんに連れられて十輪寺に来られました。
ある日突然腕が動かなくなって、その方は家具職人ですので困って当時弁天講の信者さんに連れられて、当時の神代様(当時の呼び名でその後宗祖様)にお出会いしますと、
「あなたはお父さんを恨んでいますね」
(そんな事はないかもしれませんが、お母さんばかりに押しつけて、自分は好き勝手にしていたお父さんを子供心に恨んでいたのでしょう。
その心が怨念となっていたのでしょう)
「そのお父さんに心から懺悔できた時にあなたの腕は動きます」とお宗祖様にいわれるのです。
そして100日間の足運びを命ぜられ、直してもらいたい一心で足運びをしました。
明日で100日となるその前の晩に、段々腕の動く兆しが有ればよいのですが、以降に変わらない腕に「こんなもん。明日になってもなおらへんわ」と吐き捨てるように言葉が出ていまいます。
それを聞いた奥さんが明日になっても動かないかもしれないが、宗祖様が100日といわれたのやから明日過ぎてそのままやったらそういったらよいけれど、少し早いのと違うかとたしなめると。
その時何か大きなもので頭を殴られた様な気がしてはっと我に気づくと翌日、始発で十輪寺に来まして宗祖様に会いたいとか、ご神示を受けたいとかいう事でなく、済まなかった申し訳なかった。
自分は100日といわれた日にちを数えて足を運んでいた。
宗祖様のいわれたのは「お父さんに懺悔できた時に腕が治る」といわれた。
気持ちは持っていたけれど、心からの懺悔ができていなかった事に気づき泣きながらお百度を踏むのです。
その時吹いてきた風にあおられて新聞紙が1枚足にまつわりつくのです。
取り除こうとしても取れない。次の瞬間自分の姿を見て愕然とするのです。
腕が動いている事に気づいて、それこそ十輪寺の本堂の階段に身体を預けて、「動いた。動いた」と叫んでいると宗祖様が出てこられて「よかったですね」といってその方を諭されます。
世界広し、日本広しといえどもあなたの親と言えるのは、たった1人なんですよ。
子供はどんな事があっても、憎くて育てている親は何処にありますか。
子供はどんな事であれ、親に感謝すれこそ、不平を言ってはいけません。
親を大切にする家が、繁栄して行くのですよ。
そのことを忘れてはなりません。
そして、その方は後の僧侶になって、その体験を持って全国を歩きます。
また大勢の方がその話を聞いて救われていく様になっていくわけです。
親を大事にして子々孫々、目に見えないご先祖様に手を合わせて行く事ができたら、そこにはかけがえのない家宝となって、大きな発展となっていく事を示してくださる教えでしょう。
どうか心にとめて頂いて、しっかりその背中を子や孫に示していける様な日々で有って頂けたら有り難いと思います。
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回向・塔婆供養の中のウラボンエ(盂蘭盆会)経のお話について

盂蘭盆会経は偽経であると私は思っています。

(項目:ブログ者)
1 I教使の盂蘭盆会のお話
2 私見
⑴ 木蓮尊者等お釈迦様のお弟子さんは大乗仏教の菩薩になってないのが不思議。
⑵ お釈迦様の時代は小乗仏教の時代で文字がなく、死者供養の経本はない。
⑶ 無いお経でどうして供養ができるのか。どうして天上界に昇れるのか。
⑷ 先祖に関する宗祖智辯尊女様のお諭し

(追伸)
なお盂蘭盆会経をネットで検索すると「このブログ」もありますが、冠婚葬祭ネット にインドにはお盆の行事はなく、盂蘭盆会経の源典もインドにはないそうです。
どうも6世紀に中国で作られたらしいと言う説が記載されています。
史実を正確に捉えた記載で、お盆について学べると思います。


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教使の法話 感謝の心NO3

南河内教区便り平成21年1月号に、平成20年最後の教区感謝祭で、如意寺のお坊さん岩城祥英さんの法話が掲載されていましたので転記しました。

感謝の心NO2の続きです。

回向・塔婆供養

宗祖様のご神示には、ご先祖様の供養が足りなくて、そのことを指摘される事が多かったというお話があります。
先祖供養してどうして子宝に恵まれるのか。病気が治るのか。良縁に恵まれるのか。病気が治るのか。人智ではかれる事ではございませんが、必ずそこにあるという事は事実なのです。
人生の流れが、淀んできたない、行き詰まってきたという時には、それは色々な原因があるかもしれないけれど、その原因お一つに、ご先祖様の供養がちゃんとできているかどうか。
毎月供養しているけれど宗祖様のいわれた基本的正しい供養が家庭で、皆で手を合わせる供養ができているかという事を確認してみるという事が大事なんではないでしょうか。
宗祖様のお言葉集成7集に出てくるお話ですが、ある日突然肩の骨が変形するという病気になってしましました。
そして、激痛にみまわれて宗祖様のもとを訪れたのです。
宗祖様のご神示はのお言葉は、先祖供養だったのです。
あなたの家に年忌を忘れられたお方がおられるよと、年忌を忘れているなんてと思いますが、宗祖様が仰るのですから疑う余地はありません。
お寺さんに行って調べてみると1体その方が出てきたそうです。
実は、肩の骨が変形することでお医者さんにかかっていたのですが、お医者さんとしては変形した骨を切開して変形して所を取り除いて行かなければ痛みは治らないという事で、手術の日を宣告されていました。
その後に、宗祖様のご神示を受けられたのです。
忘れられていた霊の過去帳を宗祖様に見せますと、この方に間違いないいわれた方は不思議にも、丁度その時、37回忌に当たっていたのです。
すぐさま、特別大回向を行って頂いて、お塔婆を持ち帰って懺悔の供養の祈りを重ねていきますうちに、手術の日がやってきました。
本当だったらその方は暫く待ってくださいと、日延べを自らいわなければならないのですが、どうもいう事ができなくて手術の日を迎えました。
所が先生が午前中に1人の手術をして午後からその方の手術という事で、いざ先生が執刀となった時に、不思議にも全然関係のないその先生の耳元でどこからともなく「手術をしてはならん。腕を切ってはならん」2度3度と手術しようとしたその時に聞こえてくる。
先生も気味が悪くなって「本来なら手術させて頂く予定なのですが、どうも手術する気になれない。私の勝手で悪いのですが日延べしてもらえませんか」と先生の方からいわれて、手術は日延べとなりました。
その日延べという事が大きなご利益となって行くのです。
その後もお塔婆に懺悔の祈りを捧げていきますと、痛みがない事に気づくのです。
痛みもなく、動くし、病院に行ってみると先生も不思議がるくらい精密検査をしても、あの変形していた骨が何もなかったように元に戻っているという不思議な、大きなご利益を頂いて宗祖様の元を訪れた。
宗祖様は「先祖を大事にするという事、これを忘れてはいけませんよ」という事をその方に諭して、信仰厚いお方になって行くというというお話が載せられているのですが、やっぱり不思議ですよね。
そういう接点が何処にあるかといわれても理論的に説明できません。
でも必ずある事です。やはり日々の生活の中で、ご先祖様を忘れない、私達が生かされた方を心掛け(思い)生活して行く、そのことをしっかり子々孫々に伝えて行く事が大事なのではないでしょうか。
盂蘭盆会の始まりとなって行く、お釈迦様の10大弟子の1人、目蓮さんもそうですね。
神通力1番といわれた方ですが、何年か前に亡くなられたお母さんがどんなに幸せに暮らしているかと天上界を覗いてみますと何処にもお母さんの姿を見る事ができません。
まさかと思い、地獄界を探し回り、六道地獄の中の餓鬼地獄を見た時に、本当のお母さんかと思えるほどやせ細って逆さに吊されて苦しむお母さんお姿を見て愕然とするのです。
お腹が空いたというお母さんに山盛りのご飯をよそってお仏壇に供えますが、お母さんはそれを手にとった途端に灰になってきえてゆくのです。
喉が渇いた、喉が焼けそうだというからお茶や水を供えると、飲もうとした瞬間にそれは火になって飲むことができないのです。
その苦しみを、どうしてら救えるか、お釈迦様に相談したところ、お坊さんにお経を手向けてもらいなさいという事になって、ご供養する事によって、骨と皮だけだったお母さんが天女の姿にかわって天上界に昇って行く姿を通してみんなが喜んで踊ったのが盆踊りの始まりなのです。
やはり供養の大切さを教えているお話の1つです。
そういった事を心に留めて頂いて、目に見えないが故にいつか疎かになってしまっているのです。
そこに大事なものがある。樹木が栄えていくのも目に見えない根っこがあるから栄えていくのと同じように、目に見える私達栄える。
幸せになって行く喜び多い人生を子々孫々に伝えて行こうとするならば、しっかり根っこを養って行かなければならない。
根っこの肥やしが回向なのです。
いつも自分を見つけてくれるね。その先祖様に心を向ける。
形に現すのが塔婆供養回向だと捉えて頂いて、感謝の心を現す事を忘れない私達でいる事を心にとめたいなあと思います。

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教使の法話 感謝の心NO2

南河内教区便り平成21年1月号に、平成20年最後の教区感謝祭で、如意寺のお坊さん岩城祥英さんの法話が掲載されていましたので転記しました。
感謝の心NO1の続きです。

真心の先祖供養

今月の感謝祭にお宗祖様から頂いていますお言葉は、「先祖を粗末にしてはなりません」です。
だしもご先祖さんのない人はおりません。
親があり先祖があって自分があるわけでございます。
その命の流れに対して感謝をしっかり向けて行くという事は、人間にとって大切な心のあり方です。
お宗祖様は粗末にしてはなりません。
大切にしなさいと仰っているのです。
二宮金次郞の言葉の中に「父母もまたその父母も我が身なり、我を愛せよ。我を敬せよ」というのがあります。
子供が可愛くない親はいない訳でして、自分は命をなげうっても子供のために心を砕くのが親の姿でございます。
いつになっても親というものは、有り難いもので無償の慈悲の心を子供に向けてくださる存在でございます。
その愛情、真心を一杯頂いて成長してくる私達でございます。
そして、いつしか親になって頂いた心をまた子供につなげて行く。
その親もまたその親の愛情を頂いて今日の私達が生活させて頂いているわけです。
「父母もまた父母も我が身なり」
自分に一杯そんな心がこめられて今の自分がここにあるという事をしっかりと心の留めて。
「我を愛せよ。我を敬せよ」
自分という者はそんなに尊いものなのだろうかと。
そして自分をそのように育ててくれたと同じようにあなたも同じように育てられた人達なんだ。
だから、お互い尊敬の念を持って接しさせて頂こうという心で生活させていただこうと思う事が、私達にとって一番大事な事ですよという事を教えている言葉の1つです。
最近は子供が親に手をかけたり、親が子供に手をかけたりということをよく耳に知る事がありますけれど、やっぱり、いっぱい、いっぱいの愛情を注いで育てていくという事が一般的な親の姿であります。
そんな親の思いに対して感謝させて頂くという事は当たり前の姿です。
そんな親の姿を思い浮かべて、1度、亡き人への供養というのはどうなんだろうと考えた時に。
辛いね、面白くないな、嫌やな、かなわん死んでしましたいとそんな事を心に思いながら、幾ら親の供養や回向をして頂いても、亡き親の心が安まることがないのではないでしょうか。
有り難い。幸せだ。心配せんといて元気にしているよというそんな心で亡き親が供養されたらどうでしょうか。
亡き親の心も安まるのではないでしょうか。
古い歌ですがサダマサシさんの歌で「案山子」という歌があります。
遠くにいる子供のことをいっているのでしょうか。
元気でいるか。寂しくないか。お金はあるか。友達はできたか。手紙が無理ならお前の帰りを待ちわびているお袋に元気だよと言ってやってくれというような詩の内容です。
何処にいても、こんな事を頭に思い、心の思ってくれている親であるはずです。
私事ですが、ウチの息子、長男は京都にいまして、次男は東北にいるのです。
京都にはすぐ行けますが、東北となりますと休みを貰ってという訳にいかず。
ついつい気になってきます。
お婆ちゃんも今度なにか送る時に声をかけてよということで、どさっと荷物を持ってきて、2個口、3個口になります。
親心というもいのはそんなものじゃないかと思うような事でございます。
姿の見えないご先祖あんいなりますと声や姿を見せていただくことはありませんが、やはり同じ気持ちで、心でいてくれているはずでございます。
そんな親に一番感謝を現して行く私達の行為が回向、塔婆供養でございます。

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教使の法話 感謝の心NO1

南河内教区便り平成21年1月号に、平成20年最後の教区感謝祭で、如意寺のお坊さん岩城祥英さんがされた法話が掲載されていましたので転記しました。
このお坊さんはお若いのですが、熱心でお話も上手で、約1時間のお運び講話では終わりまで信者の顔をみて喋り続けられるお方です。
聞いていまして、自分の話に感動されるというか、熱中されるあまり脱線するように思います。
私の尊敬するお方ですが、この話も2箇所あり私見を述べたいと思います。

高野口教区の役員され、かつお運び教使として全国を回っておられた岩城様のお運び講話を北九州門司で受講したことがあります。
演台の原稿を見ないで終始信者さんの顔を見て、講話をするという信念を持っておられる方に出合ったことをいつも思いだしながら岩城祥英教使のお運びの法話を聞いていました。
岩城教使の法話は長いのでNO1~4にわけて投稿します。


感謝の心

早いものでもう11月、今年も残すところ1ヵ月となりました。
いつも、今時に思うのですが、今年の1年は早いなあと。
早いなと思えること自体が感謝させていただかねばいけないと思うのです。
病院で天井ばかり見ていないといかんことになったら1日というのは本当に長いのではないかと思います。
1年が本当に長かったと言うことは、つまらんことでございまして。
それに引き換え早いと思えることは、元気であればこれこそで、有り難いと思うことが大事ではないでしょうか。
そう考えると感謝できることは私たちの身の回りに一杯あると言うことです。
宗祖様は、与えられて初めて感謝するのではなく、身の回りを見渡して自分の身詰め方を変えて感謝を拾い出していかなければ、本当の心の豊かな幸せを感じる事はできませんと教えられているわけです。
そのお言葉に、今一度立ち返って自分自身の周りを見渡してみると、望む事は一杯あるはずですが、満たされているありがたいと思える事も一杯あるはずです。
先日、新聞を見ておりましたら「ない」とことから「ある」ことの有り難さを知る事ができるのだと、健康を頂いている時はさほどありがたいと思わないが、1度健康が一寸でも手から離れてしましますと、健康ほど有り難いものはないと判ってくるのです。
「無い」という所から「有る」ことの有り難さを知るという事でございます。
世界にはまだまだ発展途上の国が一杯あります。
そんなところに自分の身を置いてみた時、初めて日本に住んで、今こうして生活させて頂いていることの本当の有り難さを感じずにはいられない。
朝起きて屋根の付いた家に住んでいることが有り難い。
暖かな湯気の出る(風呂に入れる)ことの有り難さ。
教育というものを最低でも「義務教育の権利」頂いている事が有り難い。
どんな事でも、一つ一つでも有り難い筈なんだという事なんです。
途上国では、ストリートチルドレンといわれる親を亡くして路上で暮らす小さな子供たちが沢山なんだそうです。
ましてその子供の願いとはというと、何はともあれ食べる事、これが最大必死の思いなんだそうです。
今日は何処で雨露を凌ごうか、何処でお腹を満たそうかという事ばかりだそうで。
そんな事を考えてみますと、私たちの生活は天国のようだという事なのです。
そんな生活を1日でも3日でも1週間でも心配しないで暮らせる事ができるなら、いつ生命預けてもよいと思えるくらい私たちの日々の何でもない一コマ一コマが命をかけてもよいという事なんです。
日本でも路上で暮らす人達はいるのですが、その人達ですら凄いという事です。
何が凄いかというと、その人達は新聞を読んでいるという事、発展途上国では教育を受けていないので文字が読めない。
そんな事を考えますと、求めれば豊になったらなっただけで、もっともっと望んでいく私達です。
まあそれも、1つの文明の発展という事では欠かす事のできない欲というものになってくるのですが、それはそれとして、置かれている立場に対して有り難いという気持ちを向けて行かなければ、その人達に対しても、冥加に勿体ないという私達の生活になっていくんではないかと思います。
誰しもが当たり前に暮らして行くことが当たり前だないくらいに有り難いと思える。
そんな自分の生活と捉えて1つ1つ見つめていくと、それこそ満たされた不幸のない生活をだれしもが送らせてもらっているのではないでしょうか。
今年1年を振り返っての感謝を心に思い浮かべ、中々感謝できないという事すら感謝という事で解決をさせて頂いて、12月は有り難いという生活を送らせて頂きながら良い年を迎えて頂きたい。
11月は心の準備の月とさせて頂きましたら、なおさら有り難いのじゃないかと思います。
どうか感謝祭は感謝の心を膨らます。感謝を拾い。感謝を集めて頂く時間でございます。
意味深い時間をゆっくりお過ごしになって温かい心でお帰り頂きたいと思います。

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故梅木先生回想録92

御所教会の機関紙「幸真」昭和21年2月1日号から頂きました。
故梅木弁雄様回想録
お宗祖様のお話では、故梅木先生は弁天さまがお前に2人の弟子を与えてやると言われ、与えられたお弟子さんの1人です。
故梅木先生回想録91からの続きです。
回想録80に戻ります。
「私の罪は許されないのだ。
許されない罪を知りながら、なおその罪を逃れようとする。
その心が許せないと弁天さまはお叱りになっているのだろう」
悲しいことだがその通りだ。
「犯した罪の報いは受けねばならない。
その償いを快く受けよう」そう思うと、弁天さまに申し訳ないお願いをしてきたと思った。
我が身勝手を深く恥じた。
動かない体を無理にうつ伏せにして十輪寺に向かって合掌した。
「弁天さま、尊女様、罪深き私をお許し下さい。
私が勝手な罪を犯しながら、その罪の報いから逃れようとする卑怯な私をお許し下さい。
人の風上に置くことのできない人非人だとお叱りになっていることでありましょう。
私の罪は、私が償います。
無理なお願いをして参りました愚かな私をお許し下さい」
床に伏せた顔から溢れ出る涙は何時までも何時までも床を濡らし続けた。
犯した罪から逃れようとした卑怯な心をお詫びした私は、もう助かろうとは思わなくなった。
身動きのできない体を床に横たえて、裁きのある日を静かに待った。
「鍛えてない体だから、お百度の日参が体にきつくこたえたのでしょう」
妻はこう言って慰めてくれた。
「そうかもしれない」
軽く答えて、私の覚悟を話さなかった。
妻に打ち明けて、ショックを与えたくなかった。
くる日もくる日も、床にある私の心は空しかった。
縋ることのできぬ心は堪らなく空しかった。
4・5日過ぎて、ようやく床の上に座るようになった。
あきらめ……それは死のように静かで寂しいものだ。
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袖振り合うも他生の縁

支部の感謝祭で講師の方から渡された資料に基づき法話の内容を綴ります。
弁天さまのお陰話を周りの方にしましょう。
弁天さまより阿弥陀様、観音様、弘法様にご縁のある方だと私は弁天さまのお陰話をしませんでしたが、それは間違いだと気づきました。
感動したことを他人に伝える感性を磨けば、更に新たな感動が私たちのやってくるのです。というお話でした。
(先生は新たな感動とはなにか言われませんでしたが、弁天さまのお陰だろうと私は思いました)

(ブログ者:編集項目)
1 未信者のお導きについて
2 縁を生かすことができる人
3 感性

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2月15日遷神祭での管長様のお話
ワープロ化できましたら差し替えます。

遷神祭での管長様のお話私は去年より多かったように思います。
私もじいさんですが杖をついたり、足もとがおぼつかない老人が沢山来ていました。
お宗祖様のご縁をいただき助けて頂いた方でしょう。
日頃の感謝祭で見ない顔ぶれの方が沢山いました。
管長様は、お宗祖様に感謝するために沢山の信者が集まったことに感激されていました。

お宗祖様はなくなったのは43年前になる。
お宗祖様が亡くなられた時にナショナルの松下幸之助様が「総長(当時の現管長様)お宗祖様が亡くなっても弁天さまがいるから大丈夫だよ」と慰めて下さりありがたかった。
もちろん離れた方もありますが、多くの役員信者に励まされて今日があると感謝されていました。
そして、感謝祭に信者が集まり、ご加護を頂いた弁天さまに感謝しお勤めをすると、ご本尊弁天さまが大喜びされる。
日頃色んなお願いをしていますが、感謝祭に参加してご本尊様にお礼を述べて下さい。
ご本尊さまは大喜びされます。
というお宗祖様のお話から、お願いをするだけではダメです。感謝祭に来てご本尊さまの感謝することが大切です。
今日は沢山の信者が遷神祭に参加して下さり、お宗祖様の遺徳を偲んで下さり、お宗祖様が大喜びしていることでしょうと話されました。
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日々のお言葉6 「低い心には徳が流れ込みます」

1 教区便りの解説

お宗祖様のお示し下さった信仰実践は、心を低くする行である。
ところが信仰していながら、高慢な人がいる。
不平ばかり言う人がいる。
理屈っぽい人もいる。
そういう人は心が高い人である。
水は常に高いところから低いところへ流れていく。
同じように、徳もまた心の低い人のところへ流れ込んでゆく。
決して高い心へはやってこない。
それどころか、高い心の人からはどんどん徳が流れ去って行くだろう。
心を低くしよう。いつも謙虚で、不平を言わず。
何事にもすなおであらねばならぬ。
そうすれば、願わなくても、その人のところには徳が流れ来るのである。

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2月17日感謝祭での管長様のお話

これも記録しましたのでワープロ化できますと入れ替えします。
お宗祖様の写真にぼた餅を信者さんがお供えててくれたので、夢の中でお宗祖様がぼた餅を食べ美味しかったと管長様(当時宗務総長以下同じ)さんに話したお話を聞きました。
私は、弁天宗は本当に素晴らしいと思います。
お経の本に書いてあるのではなくお宗祖様が体験された事実だからです。
真心で神様仏様ご先祖様にお供えすると届くと言うことを証明されているからです。

管長様は、主にお宗祖様お言葉集成4集から感謝は形に現そうというお話をされました。
そして先祖のご供養に関して、ご分身を頂けずお宗祖様のお写真を飾って毎日お給仕・お供えしてお勤めしている信者さんがいて、お宗祖様の写真に食べて下さいとぼた餅をお供えしたそうです。
するとお宗祖様が夢の中で美味しいぼた餅を頂いたと管長様に話されました。
管長様が夢で食べて美味しかったなんて分かるはずがないとお宗祖様に言ったそうです。
ところがその日に、信者さんがお供えしても美味しく食べられないでしょうからとお皿に入れてぼた餅をお宗祖様食べて下さいと持ってこられたそうです。

お供えすると不思議ですがお宗祖様にお供えが通じて、お宗祖様がお供えを食べられています。
ご先祖様にも好きなものをお供えして下さい。きっと通じ、食べてもらえますと言われました。
(私はここが弁天宗の良いところだと思っています。
お宗祖様が体験をお話になり、不思議なことが現実化されるからです。
信者はそうなのだとお宗祖様の体験を通して納得して信じることがで来るのです)

ご存じの方の供養というかお墓詣りも亡くなった方が好きなものをお供えして下さい。
話に寄りますと子孫がご先祖様にお供えすると、ご先祖様の一番偉い方がでてきて、子孫がお供えしてくれたからみんなで食べようと先祖様を集めて配分するそうですよといわれました。

またこんな話もあります。
奥さんがご先祖様のお供えするご飯を容器に山盛り盛ったそうです。
それを見た信仰心のないご主人が、ご先祖がでてきて食べることができないんだから、もったい無いから少し盛ればいいだろうと言いました。
奥さんは、沢山お供えしても食べられないなら、減らないから沢山お供えしても大丈夫でしょうといったそうです。

空気も、電気も、ガスも、そして霊も見えません。
状況により、風が吹くと空気が分かります。
電気も、電球がついたり感電するとわかり、ガスも火を付けると分かります。霊もそうですよ。
私たちに分からなくても、存在すると思ってご先祖様にはしっかり供養しましょうね。
ご先祖を敬ってお勤めをする敬供養、ご先祖にお供えをする利供養、子孫が良い行いをしてご先祖様に喜んでもらう行供養とあります。
お供えだけでなくこれらもしっかりやりましょうというお話がありました。

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