カテゴリ:講師の回想( 35 )

故梅木先生回想録95b

御所教会の機関紙「幸真」昭和21年6月1日号から頂きました。
(実は収録教区便りの回想録番号がダブっていますので修正していましたが、私が混乱しました。
私も枝番号を付けてダブらせることにしました。回想録番号を95aと95bにして投稿します。)

お宗祖様のお話では、故梅木先生は弁天さまがお前に2人の弟子を与えてやると言われ、与えられたお弟子さんの1人です。

故梅木先生回想録95aからの続きです。
回想録80に戻ります。

弁天さまからいただく薬の仕事ともなくなってきた。
店舗だけで暮らすには少し先が暗い気もする。
それでご神示を受けた。
「新しいことをやらない方がよい。それよりもあなたは因縁が深いから、少しでもこの霊地へ足運びをしなさい。そして因縁のとれるのを待ちましょう」
新しいことに手をつけるなとお告げを受けた。
このままじっとしていられないので、お伺いしたが新規の計画をするなということだ。
「そうだ私は知恵を出してはいけないのだ。それを忘れていた」
それから暇さえあればお詣りして、霊地の土を踏んだ。
一家の幸せがいつまでも続いて欲しい、そんな願いでお詣りをした。
その後も、尊女から弁天講支部作りのお話があった。
「人の世話をするのはいやだ」骨身に沁みてそう思った。
一家の経済を守ろう。それが一番幸せなのだ。
尊女は何故支部造りをおすすめになるのだろうと思った。
「支部を造り、信者の世話をするのは、因縁解きの徳を積むのです。
先生は徳を積まねば、因縁は切れません。
今までの先生は、自分が偉いから、人のため社会のために尽くすのだと思っていたでしょう。
これがそもそも間違いだったのです。
今度は自分が偉いから人の世話をするのじゃありません。
因縁が深いから、因縁解きのために支部を作るのです」
ある日、尊女はこのようにお諭しされた。
自分が偉いから人の世話をするのじゃない。徳がないから徳を積むのだと。
全くそうかもしれない。
恥ずかしい話だが、私は私の偉さを自負してきた。
このうぬぼれが人のために働いたのだ。
これが因縁の報いの、ただ働きをしたに過ぎなかったのだ。
だから惨めな結果になったのだ。
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故梅木先生回想録95a

御所教会の機関紙「幸真」昭和21年5月1日号から頂きました。
(実は、収録教区便りの回想録番号がダブっていますので修正していましたが、私が混乱しました。
私も枝番号を付けてダブらせることにしました。回想録番号を95aと95bにして投稿します。)

お宗祖様のお話では、故梅木先生は弁天さまがお前に2人の弟子を与えてやると言われ、与えられたお弟子さんの1人です。

故梅木先生回想録94からの続きです。
回想録80に戻ります。

辯天さまにこんなに思って頂くなんて本当に果報者だと思った。
信者一番の特を受ける?
本当にそうなるのだろうか、いや、それは分からない。
尊女は私を勇気づけ、元気つけてくださったのだ。
でも辯天さまが嘘や、お追しょうをおっしゃることはない。
本当にそうなるのかもしれない。
でもこれから、それだけの徳を積んでの上のことだ。
徳もないのに、そのお言葉だけを鵜呑みにし、あてにしてはならないのだ。
お言葉だけでも有り難いことだ。
その時、井戸水の中の蛇のお話を申し上げてお尋ねした。
「これは宇賀神将さんです。宇賀神将さんは辯天さまと一体の方です。
だから、辯天さまが宇賀神将のお姿になって『助けてやるぞ』とお知らせになったのです。
あなたの一筋に縋る心が不憫で、お知らせになったのです」
1人の角帽をきた小太りの大学生が玄関で靴を履いていた。この大学生に駆け寄った婦人は一生懸命訴えていた。
やがて大学生は靴を脱いで再び玄関の奥へ入った。
まもなく出てきた大学生はご神示を受ける番号札を1枚持っていた。
例の婦人に渡すと軽く会釈をして表門の方へ出ていった。
先ほどまで泣き顔になって訴えていたご婦人は、ケロリとしてみんなの顔を見て笑っていた。
「私の子供と、ここのボンとは友達だからいつでも札は貰える」と付近の人々に聞こえよがしに話をしていた。
「うむ、うまくやったな」
羨ましそうに言っている人もあった。
これはみんなの気持ちだろう。
「あれが辯天さまのボンだったのね。お母さまに似てふくよかに肥っていられますね」
妻も頼もしそうに、この福相の辯天さまの坊を、見送っていた。
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故梅木先生の回想録94

御所教会の機関紙「幸真」昭和21年4月1日号故梅木弁雄様回想録から頂きました。

お宗祖様のお話では、故梅木先生は弁天さまがお前に2人の弟子を与えてやると言われ、与えられたお弟子さんの1人です。
故梅木先生回想録  93からの続きです。
回想録80に戻ります。

「ああ、弁天さま、尊女さまは私を助けてくださったのだ。
満願までお詣りできなかったが、やはりお助けくださったのだ。
ありがたい。この上のない有り難い神様、弁天様」
目の前に事務官や理事長のおることを忘れて、しばし無言の感動にひたった。
必ず再起してくれるように、と言って事務官等は帰って行った。
偉大な弁天さまの大慈悲は、人をしてこのように暖かい処置をとらしてくださった。
責める立場の人たちが、かえって私の徳を讃え、再び社会の指導者となることを期待してくれた。
私は刑法上の罪人にならず、再び人生の再スタートの道を与えられた。
翌朝早々、五條へお詣りして尊女にお目にかかった。
「弁天さま、有り難うございました。
特別のお情けをしただいて私に責任がないことになりました。
しかも暖かい言葉の贈り物さえくれました。
有り難うございました」
「よかったですね。
私はこうなるように一生懸命祈っていました。
他の方なら私はここまでお祈りはしません。
先生は正しく正しく世の中にために尽くしてきたのですが、因縁のため、それがみんな悪い災いになって返っていたのです。
それが気の毒でならないのです。
局長さんの心も同じだったと思います。
あなたは何時でもよいことを考えていますけれど、因縁がそれを邪魔するのです。
それは先生に信仰がなかったからです。
これからは一生信仰を話さないでください。
先生の知恵を信仰に生かしてください。
きっと弁天さまは素晴らしい徳を与えてくださいます。
信者一番の徳を与えて頂けます」
尊女は、我がことのように、お喜びになり、未来への道を、諄々とお諭しくださった。
有り難いことだ。
私は本当に果報者だ。
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ご宗祖さまの物語(1)

都島教区便り平成21年3月号に「ご宗祖さまの物語」と題して教区長優谷壽男さんの記事がありました。
お運びで受講した内容より詳しいところがあり、参考になりますので転記させてもらいました。

霊顕75年祭に関してのお話でしょう。
カテゴリーは「講師の回想」に入れます。
優谷教区長はお運び研席の教使でした。
ご宗祖さま物語は、宗祖伝の原稿からのお話ではないかと思い、従って教区便りの記事を転記することにしました。

ご宗祖さまの物語(1)

夜半から降り始めた雨は未明日に近付くに従って、次第に烈しさを増し、瓦屋根に降りそそぐ音には雹か霰が混じるようになった。
その上、遠くあるいは近く、雷の響きが聞こえてきた。
この荒天のもと、元気な女の子が産声を上げた。
やがて夜が明けると共に、雨は弱くなり、昼前には日が照る好天に変わった。
青空の中、天では小鳥が鳴き、庭では花が一斉に咲き、まるで天地が喜びを表現しているような昼下がりになった。
明治42年4月1日吉野郡飯貝の里の事である。
母親であるすえには鮮明な記憶として刻み込まれていた。
お言葉集成第2集、第6集に後年語った言葉としてこのように記されている。
「雨が降り雹まで降った悪天候だった」と。
丁度33才の大厄の歳だったすえは、親を困らせる子だと思った。
一方お言葉集成第5集には「家の庭の草花が一斉に開いた不思議な日だった」とも思い出話として語られている。
一見矛盾するような思い出話だが、この季節にはよくある春の嵐と呼ばれる現象で、多分寒冷前線が通過したのであろう。
吉野川の清流のほとりで生まれたこの女の子に、両親は願いをもめて「清子」と名付けた。
飯貝の吉井家長女清子の父は吉井重吉、母はすえであった。
この夫婦には明治40年に長男勳が授かっていた。
しかし産後の肥立ちが悪く、すえは、信貴山の毘沙門天にお籠もりをした事があった。
帰宅してから清子が宿ったのであった。
それ故に、「毘沙門の申し子」と周りから言われていたし、すえも信じていた。
飯貝の里は吉野山の麓にあり、伊勢東海方面から吉野金峰山寺、そして大峰山に昇る修験者の街道筋であった。
吉井家は代々「うをや重兵衛」を名乗り、筆・墨・紙を扱う商家であり、吉野大峰山参詣者のお土産物も扱っていた。
この飯貝には室町時代末期(1470年頃)に訪れた蓮如上人によって創建された御坊本善寺があり、吉井家は代々檀家総代を勤めてきた熱心な一向宗門徒(浄土真宗)である。
すえの生家は、御所市戸毛の井戸川家、農家ではあるが格式が高く、武家と縁組みをした事もあった。
宗旨は浄土宗である。奈良時代中期(750年頃)苦衆救済のために諸国を巡っていた行基菩薩によって掘られた井戸を守る家として代々勤めていた。
すえの母きくの生家は天川村の堀口家で、清子の又従兄弟にあたる堀口芳男が後の頼もしい片腕となるのである。
吉野川の清流、1200年もの間、農民を養ってきた井戸の水、弁才天の聖地天川村、これらと不思議な縁でつながった清子であった。(終わり)
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故梅木先生回想録93

御所教会の機関紙「幸真」昭和21年3月1日号から頂きました。
故梅木弁雄様回想録
お宗祖様のお話では、故梅木先生は弁天さまがお前に2人の弟子を与えてやると言われ、与えられたお弟子さんの1人です。
故梅木先生回想録92からの続きです。
回想録80に戻ります。

若い頃から青雲の志を立て、変転きわまりない道を歩んできた。
最初は身を立てる志で出発したが社会科学を学ぶに及び、個人の幸福は個人お集まりである社会全体の幸福達成がなければならないと考え、人間と社会を愛し続けて色々な仕事を手がけてきた。
だが、いずれもその目的を達する事ができず、しかも今、思いもよらぬ罪を犯し、その裁きを受ける身となり果てたのだ。
これが人を愛し、社会を愛し続けてきた私の身の果てなのか。
寂寥の思いが私を襲った。
こんな数日を送ったある日、組合の理事長と物価庁の事務官が訪れた。
「いよいよ告訴の宣言がきたか」
来るべきものがきたと観念した。座を改めて対面した。
「実は局長と相談した結果、これはあなたの責任ではないという事になりました。
あなたはいろいろな困難な徴収について、業者のとりまとめに奔走していただき徴収もスムーズに進んでいたのです。
ただ不心得な一部の業者が納付を怠ったため、あなたが組合の経費を流用されたので、責任は滞納者にあるのです。
今後は理事長を打ち合わせて、残額を徴収して組合を整備してもらう事になりましたので、あなたに何も責任のない事をお知らせにまいりました。
なお、局長からの伝言ですが、1日も早く健康を回復して、再び国家社会のため、新しい時代の指導者として活躍してくださる事をお待ちしていますという事です」
と付け加えた。
事務官の話をジッと聞いていた私は、胸の中に熱いものがこみ上げてきた。
「ありがとう」
あとは、感激にふるえて言葉が出なかった。
「ありがとうございます」
思わず口の中で唱えた。
それは目の前の事務官や理事長へではない。
熱いまぶたの中に浮かんできた弁天さま、尊女のお顔に対してだった。
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故梅木先生回想録92

御所教会の機関紙「幸真」昭和21年2月1日号から頂きました。
故梅木弁雄様回想録
お宗祖様のお話では、故梅木先生は弁天さまがお前に2人の弟子を与えてやると言われ、与えられたお弟子さんの1人です。
故梅木先生回想録91からの続きです。
回想録80に戻ります。
「私の罪は許されないのだ。
許されない罪を知りながら、なおその罪を逃れようとする。
その心が許せないと弁天さまはお叱りになっているのだろう」
悲しいことだがその通りだ。
「犯した罪の報いは受けねばならない。
その償いを快く受けよう」そう思うと、弁天さまに申し訳ないお願いをしてきたと思った。
我が身勝手を深く恥じた。
動かない体を無理にうつ伏せにして十輪寺に向かって合掌した。
「弁天さま、尊女様、罪深き私をお許し下さい。
私が勝手な罪を犯しながら、その罪の報いから逃れようとする卑怯な私をお許し下さい。
人の風上に置くことのできない人非人だとお叱りになっていることでありましょう。
私の罪は、私が償います。
無理なお願いをして参りました愚かな私をお許し下さい」
床に伏せた顔から溢れ出る涙は何時までも何時までも床を濡らし続けた。
犯した罪から逃れようとした卑怯な心をお詫びした私は、もう助かろうとは思わなくなった。
身動きのできない体を床に横たえて、裁きのある日を静かに待った。
「鍛えてない体だから、お百度の日参が体にきつくこたえたのでしょう」
妻はこう言って慰めてくれた。
「そうかもしれない」
軽く答えて、私の覚悟を話さなかった。
妻に打ち明けて、ショックを与えたくなかった。
くる日もくる日も、床にある私の心は空しかった。
縋ることのできぬ心は堪らなく空しかった。
4・5日過ぎて、ようやく床の上に座るようになった。
あきらめ……それは死のように静かで寂しいものだ。
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故梅木先生回想録91

御所教会の機関紙「幸真」昭和21年1月1日号から頂きました。

お宗祖様のお話では、故梅木先生は弁天さまがお前に2人の弟子を与えてやると言われ、与えられたお弟子さんの1人です。

故梅木先生回想録90からの続きです。
回想録80に戻ります。

「あなた、あなた」の声に呼び起こされて、ようやくこの夢幻境から目覚めました。
大変なごり惜しい思いをしながら起きあがった。
「あなたどうしたんですか。ウンウンうめいて床柱にしがみついていましたので起こしました」
妻に言われて気づいたが、うつ伏せになって右手で床柱のすそを握っていた。
「身体が弱っているので、夢にうなされたのだな。でも恐ろしい夢だった」
妻に夢の詳細を話した。
「これはよい夢じゃありませんか。白蛇は弁天様の使いと聞いています。きっと弁天さまが助けてくださるお知らせです。こんなよい話は他人に話さないようにしましょうね。」
「そうだな、あんないい気持ちになったことは初めてだ。弁天様が助けてくださるお知らせなのだろうか」
そう思って希望をもった。
翌日もまた痛む足腰を杖に託して十輪寺へまいった。
ようやく寺にたどりついて、お百度を踏んだが、もう10回も踏めなかった。
とうとう19日の朝になって床の中で体が一寸も動けなくなった。
トイレに行きたいと思うが、はい出すこともできない。
昨日まで痛んでも、どうにか動くことができたから杖にすがって歩いて、十輪寺にまいることができたが、床の中さえ動くことができなくなっては、もう詣ることができない。
あと3日で満願だというのにとうとう詣れなくなってしまった。
「万事休す」
「もう弁天さまにお助け頂くことはできないのだ」
と思うと、無念の涙が溢れ出てきた。
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故梅木先生回想録90

御所教会の機関紙幸真昭和20年12月1日号から頂きました。

故梅木先生回想録89からの続きです。
回想録80に戻ります。

入口に立って「ここはどこだろう」と思いながら左手にある手洗い所(大和本部は湧水の手洗い所)の井戸に近づいた。ちょうど夏のことであったので、喉が渇いていた。
手を洗うつもりで、車井戸のツルベをガラガラとたぐって、水の入ったツルベを汲み上げ、井戸の側に置いた。
「やれやれ、美しい水がいただける」汲み上げたツルベに口を付けようとして、「あっ」
驚いて思わず後ろに飛び下がった。そのはずである。
汲み上げたツルベの中には、年老いた白蛇の太い胴体が丸くうずくまって、古びたウロコが黒ずんで見えた。
あまりの恐ろしさに2・3間飛び下がった私は、腰が抜けたのか身動きができなかった。
恐ろしさに砂の中に顔を埋めて、地面の中に隠れるようにしがみついた。
やがて井戸側の上のツルベに紫色の衣装がフワリとかかった。
「あれ」と思うとその上に首が乗った。その顔は白髪を逆立てたやせ衰えた大きな顔だった。
「あっ、恐ろしい」と思っていると、その紫の衣装を着たおきなはソロリソロリと私の方に向かって歩いてくれではないか。
どうかして逃げよう逃げようとあせるが、身体は身動きができない。
おきなは段々近づいてきた。
遂に私の頭のところまで近づいてきた。
「ああっ、もうダメだ」と思った瞬間、そのおきなはガバッと上から私を羽交い締めにした。
「あっ」その恐怖の瞬間から、私は夢心地の世界に入った。
それは今までかって経験したことのない夢幻境だった。
こんな平和な喜びに溢れた境地があるのだろうか。
何という幸福感だろう。
と幸福の境地を満喫していた。
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故梅木先生回想録89

御所教会の機関紙幸真昭和20年11月1日号から頂きました。

梅木先生の回想録88からの続きです。
回想録80に戻ります。

1人は、掖上駅から通っていた栗山和子さんで結婚して間もなかったのだろうが、若いご主人が胃病かなにかで悩んでおられたようで、その病気平癒祈願のためのお百度を踏みに詣っていたようだ。
「若い方なのに感心だな」と思っていた。
今1人は、高田の方で、瀬川さんといったが、これも若い奥さんだったが、赤ちゃんが小児麻痺の病気でお百度祈願をされていたようだ。
汽車で出合ったり、十輪寺で出合う内に、若いお2人の熱心な信仰に、心動かされて話しを交わすようになった。
2週間を過ぎた頃、私の足腰の痛みは、ますますひどくなって、五條駅から十輪寺までの道を1時間もかかるようになった。
お百度も70回になり、50回になり、30回になっていった。
お百度の行は100回回らねばと、心あせるが、足も体も痛みのためにどうしてもそれ以上動かなくなった。
「お願いのためのお百度が、何故踏めないのだろう。お百度の行が足腰の故障で踏めないのは、私の願いがいけないからだろうか」
20回踏んで、もう一歩も歩けなくなった。
私は、お百度石の後ろの釣り鐘堂の下に腰掛けて、ジッと本堂を見上げていた。
何時しか両頬に涙が落ちた。
「今度の願いはお受け取り頂けないのだろうか」そう思うとまたと涙が溢れた。
ようやく家に帰って奥の部屋で、体を横たえているといつの間にか寝ていた。
ふと気がつくと、広い広い境内の入口に立っていた。これは十輪寺の姿ではなかった。
広々とした境内。
そして一面に砂利が敷き詰められえていて、美しく掃き浄められていた。
正面の奥に大きなやしろ風の拝殿が建っていた。
(正面の大きな拝殿がありその奥にお社が建っていたの間違いではないでしょうか)
今思うと後に立った大和本部の姿だったと思い当たるが、当時は大和本部の姿は影も形もない頃のことである。
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故梅木先生回想録87(尊女様のお慈悲)

御所教会の機関紙幸真昭和20年9月1日号から頂きました。

回想録86からの続きです。
回想録80に戻ります。

尊女は、因縁について色々さとしてくださった。
全くその通りだ。
私は徳を積もうと思って他人のために働いたのではない。
封建の笞(むち)に泣いている人びとを新しい憲法が保障する人権の尊重と、人権の平等化を計るため、力なきものの主張を、大手を振って通る社会にしたいという思想から来た行動だった。
弁天さまの御心も、同じ人権の平等であっても、それを達する方法や手段が、私は間違っていたのだ。

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