カテゴリ:講師の回想( 35 )

御所教会の機関紙「幸真」昭和22年12月1日号から頂きました。

お宗祖様のお話では、故梅木先生は弁天さまがお前に2人の弟子を与えてやると言われ、与えられたお弟子さんの1人です。

故梅木先生回想録100からの続きです。
回想録80に戻ります。

しかし、今回のはここの家庭訪問であり、しかも闘争というかぶとをつけていないのが、私にとって何ともいえぬ楽しさを味わうことになった。
心からの真心を、個々の人たちに会って話し合える庶民的な喜び。
これが信仰ということの幸せなのだとしみじみ思った。
利害にかかわる駆け引きもなく、ほほえましい親切を、語り合える事が出来るのだから、こんな楽しい人間関係はほかにないだろう。
これこそ、この世の極楽というべきではないか、と思った。
こうして、講支部信者の間を一巡した私は、この次は講支部の運営について、私1人の力ではどうしようもないので、手足となって仕事を分担してもらえる世話人(班長)を作ろうと思った。
そしてひとまず地域的に人選した。
地域によって熱心な人が集まっているところもあり、熱心でなくともその地域に1人しかしない場合もあった。
だから平均して世話人を設置するため、1人のところも多いところも、地域に割って1人ずつ世話人を選んだ。
実数20軒の信者で10人の世話人を選んだ。
早速日を選んで世話人会を自宅で開いた。
弁天様から、福徳をいただけるお互いが寄り集まって講社を作り助け合いが出来る喜びを語りあった。
今後も弁天様に報恩感謝の実を挙げるとともに、利用信者ではなく、本当の信仰に進む人を皆で導いて行こうと話を決め、毎月その情報を持ち寄るために定例役員会を開くことを申し合わせた。
その親睦をはかるために、会席膳で夕食を共にした。
こうして毎月回を重ねて親睦をはかった。
そのお蔭で、世話人の導きで毎日私の家を訪ねてくる初信者がふえた。
私と妻が相談相手となって、入信させ、本部へ送り届けた。
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故梅木先生回想録100

御所教会の機関紙「幸真」昭和21年11月1日号から頂きました。

お宗祖様のお話では、故梅木先生は弁天さまがお前に2人の弟子を与えてやると言われ、与えられたお弟子さんの1人です。

故梅木先生回想録99の続きです。
回想録80に戻ります。

当時の弁天講は十輪寺弁天様の護持団体だった。
その頃はまだ弁天宗として立宗しておらず、真言宗十輪寺の本尊とともに併置して祀ってあった弁才天女尊を拝んでおられたので、この弁天様を護持する団体として弁天講が組織された。
各地の信者が地区ごとの集まって、講支部を造っていた。
この講支部が出来ると、講本部は尊女さまのお許しを得て、特別参拝券を交付した。
30軒に対して1枚の特別参拝券だった。
だから講支部員は月に1回この特別参拝券を持って、十輪寺にお参りして尊女のご神示を受けることができた。
これを受けないものは一般日にお詣りして、多数の中で抽選をして当たったものがご神示を受けることになっていた。
この特別参拝券は、講支部に与えられた特典だった。
しかし、南葛郡内は尊女ご母堂の生地だったので親戚も多く、そのつてを求めて一般日に詣る人が多く、講の必要性を感じないので入講しなかった。
私は、これではいけないと思った。
弁天さまや、尊女さまに報恩感謝の心を養う講の組織を広めねばならない。
組織を拡大するには導きをしなければならない。
尊女のお言葉の如く、導き育てることが功徳を積み、因縁を解いていただく道である。
どうすれば多くの導きをすることができるかと考えた。
導きは自分1人の力でできるものではない。
支部の信者の協力を得てこそできるのだ。
そのため支部の講員と親しくならなければならない。
私は早速講員の家を回ることにした。
講の掛け金や講の親睦の目的を説明することを口実に、1軒1軒回った。
自転車に乗って戸別訪問した。
大衆運動のリーダーとして、世間を駆け巡ってきた経験はあるが、その相手は諸官公庁だった。
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ご宗祖さまの物語(6)

都島教区便り平成22年1月号に「ご宗祖さまの物語(6)」と題して教区長優谷壽男さんの記事がありました。参考になりますので転記させてもらいました。
ご宗祖さまの物語(5)の続きです。 
ご宗祖さまの物語(1)の戻ります。

カテゴリーは「講師の回想」に入れます。
優谷教区長はお運び研席の教使でした。
ご宗祖さま物語は、宗祖伝の原稿からのお話ではないかと思い、従って教区便りの記事を転記することにしました。

がっこたてて

清子には忘れられない友人がいた。
その子は脱臼したため足が不自由になっていたので、ことあるごとに同級生にいじめられた。
しかし、何を言われても黙った笑っているようなおとなしい子だった。
その子にとって清子だけが仲の良い友達だった。
そのうち意地悪がエスカレートしていった。
ある日、何人かの同級生が校庭の隅でおしっこをして、その上にいらないものを捨て、さらに新聞で覆い、その子に「ちょっとこれを丸めて捨てて来てよ」と言いつけた。
言われたその子は「ええよ」と言って、新聞に包まれた汚れたものを持って、足を引きずりながらゴミ箱へ捨てに行った。
清子は何故止められなかったのかと悔み、忘れられない出来事となった。
その後、6年生になった歳に突然姿を見なくなった。
吉井家の持ち山であるマツタケ山のすぐ横に住んでいたので、マツタケ山に出かけるたびに思い出すのだった。
時は流れて昭和39年、1世管長と一緒に大川橋を渡っている時、偶然にも再会したのだった。
その友人は宗祖になった清子の噂を聞いて訪問する所だった。
早速庫裡に伴って行き、思い出話に花を咲かせた。
5年生を終えて退学した後、ある酒屋さんに奉公に行った。
2人の子の子守をする仕事だった。
何年かしてそこの奥さんが3人目を出産したが、産後の肥立ちが悪くて亡くなってしまった。
若旦那は「これからどうしたらいいのだろう」と途方に暮れてしまった。
その日も一生懸命赤ちゃんをあやし、おむつを替え、世話をしてくれているその子の姿を見て、他人には任せられないと思った。
上の2人の子も安心してなついている。
この子こそ再婚するにふさわしい人だと考え、若旦那はうちあけた。
このようにして後妻に迎えられたのである。
不自由だった足も、ご主人の勧めで手術を受け完治し、今では健康な人と同じように歩けるようになった。
あの穏やかな人を許す心、どんな人にも尽くす心があればこそ、この幸せを手に入れることができたのだ。
建設中の智辯学園へも多額の寄付をしてくださった。
吉井家ではカイコを飼っており、その世話はすべて母すえが受け持っていた。
これが大変な作業なのだ。1日6回食べる。
それも規則正しく与えないと死んでしまう。
小さい時は桑の葉を細かく爪切りのようなもので刻んでやらないと食べられない。
春から秋にかけて飼うのだが、室温を26度くらいに保たないといけないし、濡れた葉を食べたカイコは病気になってしまい、油断すると伝染して行くのだ。
吉井家の桑畑は、屋敷のすぐ裏の山の斜面にあった。
その季節になると、桑摘みに出る母が心配で授業に身が入らない。
ポツリポツリと雨が降ってこようものなら「先生、雨で母が困っていますから行かせてください」と言って、母のもとに駆け付けるのだった。
母を助けるために、時々学校を休んで桑摘みの手伝いにでることもあった。
時には風の向きによって、学校の方から音楽の授業で歌っている同級生の歌声が聞こえてくることもあった。
すぐ目の下に吉井家の屋敷があり、少し目を左に転ずると手の届きそうな所に学校がある。
そこから聞こえてくる唱歌は、季節がら「茶摘歌」が多かった。
「夏も近づく88夜……」友達と一緒に授業で歌いたいのに歌えない。
清子にとって悲しい思い出の歌になった。
祖母たつが病気になって3か月ほど床についたことがあった。
スエは毎日忙しく仕事に追われているので、たつの看病は清子が一手に引き受けた。
夜中に起きて下の世話をしたり、薬を煎じたり、食事を作ったり、衣類の洗濯をしながら学校に通った。
時には遅刻したり、早退することもあった。
手が空くとマッチの軸で(原文マッチ箱と軸で)人形を作り、何人かの生徒に見立てて並べ、清子が先生になって、人形に喋らせて学校ごっこをしていた。
勉強したいという気持ちを慰めていたのだろう。
その頃、家の大黒柱に
あさおきて、きものきて
おくすりとって、がっこたてて
と落書きをしたのを母すえに見つけられて大変叱られたのだった。
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故梅木先生回想録99

御所教会の機関紙「幸真」昭和21年10月1日号から頂きました。

お宗祖様のお話では、故梅木先生は弁天さまがお前に2人の弟子を与えてやると言われ、与えられたお弟子さんの1人です。

故梅木先生回想録98からの続きです。
回想録80に戻ります。

高田講に入っていたと言われて私は驚いた。
私は高田講の講員ではない。
高田講が設立されたときに尊女から出席して見ませんかとお誘いを受けて出席しただけで、そこの講員になると言ったわけではなかった。
だからその後、高田講とは何の連絡もなかったし、参拝に利用する特別参拝券を使用したこともなかった。
それを高田講の講員だとは心外だと思った。
でも先方では、発会式に参加したので、入講したのだと思っているのだろう。
こちらは全くオブザーバーの立場で出席したのだが。
「とにかく1度高田講の講元にあって了解してもらいなさい」
ご院主さんの忠告で面会することにした。
会ってみると講元は大変良い方で「私はどうも思っていない。支部ができることは弁天さんにとって大変喜ばしい事です。
私は大賛成ですから大いに頑張ってください」
講元の真心溢れる激励の言葉に私はうれしかった。
講元はあんなよい人なのに、どうして承認中止の横槍が入ったのだろう。
ご院主さんの仰っていた某老女のしっとから、こんな工作をしたのではなかろうか。
その後まもなく、弁天講南葛支部が承認された。
昭和25年5月、弁天講理事会に出席するよう連絡を受けた。
支部長は全員、弁天講本部理事に就任することになっていた。
23番目の講元(支部長)だった。
場所は十輪寺庫裡の8畳の座敷、2間を開放して会場にあてられた。
正面床を背にしてご神代(尊女)ご院主、岸場、林、北野正副理事長以下、全理事(各支部長)出席して開催された。
この時新しく紹介された新理事は私と高野口支部長の松尾氏とであった。
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ご宗祖さまの物語(5)

都島教区便り平成21年11月号に「ご宗祖さまの物語(5)(お大師様の像)」と題して教区長優谷壽男さんの記事がありました。
ご宗祖さまの物語(4)の続きです。 
ご宗祖さまの物語(1)に戻ります。

カテゴリーは「講師の回想」に入れます。
優谷教区長はお運び研席の教使でした。
ご宗祖さま物語は、宗祖伝の原稿からのお話ではないかと思い、従って教区便りの記事を転記することにしました。

大正4年(1915)4月、7歳になった清子は村立水分小学校に入学した。
ふくふくとした丸顔で誰からも可愛がられたし、勉強も良くできた。
また妙に友達がまわりに集まるという不思議な魅力を持った子だった。
1人の同級生の髪を梳いていると「私も梳いて」「私も梳いて」とたちまち清子のまわりに人が集まってくるのだった。
当時「吸い玉」という民間療法があった。
拳大の鐘状のガラス容器にマッチを擦って入れ、針で突いた肌の密着させる。
マッチが燃え尽きるとと共にガラス器具の中の気圧が下がって悪い血を吸いだして筋肉の凝りを解消してくれるというものであった。
清子は祖母から学んだ吸い玉を近所の人にしてあげた。
すると「清ちゃんの吸い玉はよく効く」と評判になってしまった。
学校から帰ってくる清子を待って家の前に行列ができた日もあった。
さすがに重吉も困って、清子にやめるように説得した。
また檀那寺本善寺に毎週日曜日に開かれる子供を対象にした日曜学校にも積極的に出席した。
何時も一番前で熱心に法話を聞いている姿にお寺の住職も感心し、年に1度門徒衆のほとんどが参詣する報恩講では御文章の箱を捧げ奉る役を毎年清子に割り当てた。
父重吉と大の仲良しで、以後の好敵手であった吉川というお医者さんがいた。
この方は奥さんに死に別れ、子供もいない天涯孤独の身だった。
それで常々「私が死んだら財産をすべて引き取ってほしい」と重吉に頼んでいた。
しかし、他界された時、重吉は1人で処分するのに気が引けて檀家宗に相談した。
その結果「吉川さんの供養のためにもみんなで分けて活用させていただきましょう」ということになった。
吉川家の道具を本善寺に運び、集まった村人たちに好きなものを引き取ってもらうことにした。
あれやこれやとにぎやかに品選びをし、希望の品を持ちかえった後に、少々大きな桐の箱が残った。
ままごと遊びに丁度いい大きさなので、清子は初めから欲しいと思っていた。
「私これ欲しいな」と父に言った。
中に何がはっているのか開けることになった。
しかし、金具が錆ていて簡単に開かなかった。
やっと鉄の棒でこじ開けて見ると、中には緋衣を召したお大師さんが座っておられた。
重吉は難色を示した。
吉井家は先祖代々「南無阿弥陀仏」だけを唱えてきた熱心な浄土真宗門徒である。
真言宗の開祖である弘法大師の像を家の中に祀ることはできないと思ったのだろう。
しかし、清子はなぜかこの大師像が欲しくて欲しくてしかたがなかった。
一生懸命父親にお願いしたので、ついに「粗末にならないように毎朝お給仕して拝む」ということを条件に許してもらった。
何年か経て、清子が結婚した後、吉井家に不幸が続いたので、祈祷師に拝んでもらった。
するとこの大師像が現れ「娘さんと縁の深いお大師さんだから、いつまでも吉井家で祀っていてはらいけない。すぐ娘さんの許に返しなさい」というお告げだった。
母スエ(原文=すえ)は、早速お大師さんを背負って清子の新居である上市大師堂に運んだ。
その後、この大師像は清子とともにあって、現在は如意寺の本堂右側にお祀りされている。
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ご宗祖さまの物語(4)

都島教区便り平成21年9月号に「ご宗祖さまの物語(4)(二重橋は誰でも渡れるようになる)」と題して教区長優谷壽男さんの記事がありました。
ご宗祖さまの物語(3)の続きです。 
ご宗祖さまの物語(1)に戻ります。

カテゴリーは「講師の回想」に入れます。
優谷教区長はお運び研席の教使でした。
ご宗祖さま物語は、宗祖伝の原稿からのお話ではないかと思い、従って教区便りの記事を転記することにしました。

大正3年(1914)6月28日、バルカン半島のサラエボで白昼セルビア人青年によって発射された銃弾はオーストリア皇太子フランツ・フェルディナンド夫婦の命を奪った。
この事件が文字通り引き金となって7月28日オーストリアはセルビアに宣戦を布告した。
やがてドイツ・イタリア・トルコがオーストリアに味方して参戦し、イギリス・フランス・ロシアがセルビアに味方して参戦した。
第1次世界大戦の勃発である。
日本は日英同盟に基づいてドイツに対して宣戦布告した。
中国山東半島におけるドイツ租借地青島を攻撃し、11月7日占領した。
日本全土は戦勝気分に沸き返り各地で提灯行列が挙行された。
吉井重吉は、日露戦争の時出征し、旅順の203高地で武勲を立てた忠君愛国の士であった。
座敷の欄間には明治天皇皇后両陛下、大正天皇皇后両陛下のお写真が飾られ、皇居の象徴である二重橋の写真も掲げられてあった。
青島陥落の時も在郷軍人会の幹部として戦勝祝賀行事を指揮していた。
行事終了後主だった人たちと共に氏神様に参拝し、そのまま自宅に招いて祝宴となった。
3人の子供たちも下の席でご相伴にあずかっていた。
お酒が進み日露戦争における武勇伝も語り終えたころあいに、重吉はこんなことを言った。
「一生に一度でいいから二重橋を渡って天子様を拝みたいと思いますねん」
「それは大層な望みやおへんか。めったに人の渡れる橋やないもんな」
と一同ため息をついた時、下座にいた6歳の清子が
「そやけどそのうち誰でも渡れるようになる」
と言った。一座の驚いた眼は清子に集中した。
「清子ちゃん今何て言うたの」
客の1人が尋ねた。
「うん、二重橋はそのうち誰でも渡れるようになる」
重吉は厳しい目つきで
「清子」
と怒鳴りつけた。
「だってそうなるもん」
当時高位高官の政治家か軍人が宮内省の許可を得て、指定された時刻にしか二重橋を渡れなかったのに、天皇の尊厳を傷つける発言に一同は一瞬言葉を失った。しばらくして
「まだ小学校にも上がらん子の言うたことや、何も分からんと言うとるのでっしゃろ」
と執り成してくれる人があって、祝宴は滞りなくお開きとなった。
しかし、重吉は心配だった。
「吉井家の家の中では大変な話をしているらしい」
等と村で噂になったらまずい。
警察の取り調べ等と不名誉なことにでもなったら、今まで築いてきた栄誉も地位も崩れてしまう。
重吉は人に勧められて清子を上市の金光教の教会へ連れて行き、悪霊払いの祈祷を頼んだ。
1週間毎日通い満願となった。
心配していた村の噂も表面には出ず、月日が過ぎていった。
後年、清子はこうはなしている。
「言うたら父が困るのが分かってましてん。言うたらあかんことやと、いいきかせても、あの二重橋の写真を見ると勝手に口から出てしまうのです。自分でも何やらわからんうちに」
その後30数年を経て、民主日本に生まれ変わってからは1月2日と天皇誕生日には誰でも二重橋を渡って天皇陛下を拝賀できるようになった。
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故梅木先生回想録98

御所教会の機関紙「幸真」昭和21年9月1日号から頂きました。

お宗祖様のお話では、故梅木先生は弁天さまがお前に2人の弟子を与えてやると言われ、与えられたお弟子さんの1人です。

故梅木先生回想録97からの続きです。
最初の記事回想録80に戻ります。

信者でありながら、何故講に入らないのだろうか、私は不思議に思った。
色々原因を調べてみると、ご利益はいただきたいが、信者として拘束されたくない。
即ち、負担を免れたい……、という考えだった。
講に入らなくてもご神示は受けられるのだから、講に入って色々な義務を負わされるのを免れたい。
これが本心のだったようだ。
無理もない事で、仕方がないから自分の手で導きをしようと思った。
それから10人ほどの人を導いて22名に達したので、なお不足分は親戚の名を連ねて30名の名簿を作り、南葛支部設置の書類を十輪寺弁天講本部へ提出した。
所が半月たっても、1ヵ月経っても承認されなかった。
尊女があれほど勧めてくださったのに、何故設立が承認されないのだろう。
これなら設立に奔走するのではなかった。
イライラした気持も手伝って尊女にお目にかかった。
「講を作るのに奔走してくださったそうで、書類が出ていると聞いていますが、ちょっと横槍が入って院主(いんげ=住職智祥様)さんも困っていられます。
詳しい事は院主さんに聞いてください」
尊女のお言葉で院主さんにお目にかかった。
「実はある人から南葛支部の承認を待ってくれと言ってきた。
あんたは高田弁天講に入っていたそうですね。
その講元から無断で独立するのはけしからんと世話人をしている人から言ってきたのです。
この人は弁天様の世話人でよく世話をしてくださる人なのでこの人の言うことを聞かなければおさまりがつきません。
それで承認を止めていたのです。
本当に困ったことです」
ご院主さんは気の毒そうな顔をされた。
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ご宗祖さまの物語(3)土の中の50銭銀貨

都島教区便り平成21年7月号に「ご宗祖さまの物語(3)」と題して教区長優谷壽男さんの記事がありました。
ご宗祖さまの物語(2)に引き続き参考になりますので転記させてもらいました。
ご宗祖さまの物語(1)に戻ります。

カテゴリーは「講師の回想」に入れます。
優谷教区長はお運び研席の教使でした。
ご宗祖さま物語は、宗祖伝の原稿からのお話ではないかと思い、従って教区便りの記事を転記することにしました。

優谷教区長さんは教区便りの挨拶で3回目の話についてお宗祖さまが掘りあてられて、どういう風に使って助かったとか、50銭銀貨を何に使ったのかという所がポイントであります。当時はロープウエイも電車もありませでした。また楽しみにしてください。
と述べられています。
私もお運び宗祖伝3講で何度も電車賃に使ったと聞きました。
さらに土井タツ女様の前に出て行きお告げを聞かれたことも初耳です。
お宗祖さま物語を転記してよかったと本当に思っています。

リンクしていますから、50銭銀貨の出ている宗祖伝2講、3講の法話を見てご確認ください。
宗祖伝2講19年』『宗祖伝3講19年

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故梅木先生回想録97

御所教会の機関紙「幸真」昭和21年8月1日号から頂きました。

お宗祖様のお話では、故梅木先生は弁天さまがお前に2人の弟子を与えてやると言われ、与えられたお弟子さんの1人です。

『故梅木先生回想録95b』からの続きです。
『故梅木先生回想録80』に戻ります。

人間の世話はいやだと思っていたが、
「支部造りのご返事をするまで、ご神示はお預けにします」
と仰って、何度伺ってもご神示をしてくださらなかった。
どしてもご神示を受けたいことがあったので、妻と相談して、お受けすることにした。
「支部造りは因縁除けの徳を積むためにさせていただくのです」
この言葉の通り、そうかも知れない。
本当にそうだったら、支部を作ろう。
目に見えない不幸な因縁を1日でも早く解いてもらいたい。
幸せを頂きたいのだ。
そう思うと身内が引き締まる思いがした。
「それでは講を作らせていただきます」
尊女はお喜びになった。
「同じ(奈良県で現在五条市の隣の市以下略)御所の人で、協力してくれる人を紹介しますから、その人と相談してつくってください」
その人はSさんという人だった。
早速会って話をしてみた。
その人は会社員だったが、この土地で生まれた人でなかったので、町で知人はいないということだった。
これでは支部造りの頼りにならないなと思った。
Sさんに、「土地に知り合いもなく、紹介する人もないが、お金が入用な時は出させてもらう」ということだった。
支部造りに必要な経費は、いくらかかっても私が出すつもりだった。
こんな協力なら必要ないと思った。
その後、十輪寺の施薬頒布所の前にビラを張った。
「御所で講を作るから御所在住の方は参加してください」
1ヵ月かかってようやく12・3人の申し込みがあった。
支部は最低30軒の信者名簿が必要だった。
12・3人では支部にならない。
御所町は、南葛城郡の主都のような存在で、周囲に大正、掖上、葛上、葛、秋津の5カ村からわずか12・3人の申し込みだった。
大勢の信者があると聞いていたが、参加したのはこれだけだった。
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ご宗祖さまの物語(2)

都島教区便り平成21年5月号に「ご宗祖さまの物語(2)」と題して教区長優谷壽男さんの記事がありました。
ご宗祖さまの物語(1) に引き続き参考になりますので転記させてもらいました。

カテゴリーは「講師の回想」に入れます。
優谷教区長はお運び研席の教使でした。
ご宗祖さま物語は、宗祖伝の原稿からのお話ではないかと思い、従って教区便りの記事を転記することにしました。
ご母堂様が子連れで家出をされた時の、川の渡し場の状況等が詳しく書かれているように思います。

ご宗祖さまの物語(2)
江戸時代から明治にかけて飯貝や上市は、人の往来がかなりあってようだ。
上市の町の中を通る旧街道は、「南伊勢街道」と呼ばれており、立野から山路に入り、竜門、三茶屋、鷲家を通り高見峠を越えて松阪に向かう。
お伊勢さん参りの人達で賑わっていたそうで、紀州の殿様が参勤交代で江戸を往復する径路でもあった。
東海方面から吉野山の花見、金峰山寺や大峰山に参詣する人達は逆に高見峠を越えて立野にでる。
ここで桜の渡しをわたり、飯貝の里を抜けて、吉野山への登り坂にさしかかるのである。
この賑わいの中で吉井家の商いも繁盛していたものと思われる。
日露戦争に勝利した明治38年以来殖産政策が強化され工業化が進み、絹織物製品の輸出が伸びた。
吉野地方でも、この波に乗って養蚕が奨励された。
父重吉は推されて養蚕組合の理事長を務めていたが、清子が4歳になった大正元年は害虫の発生で、桑の葉が不作であったため、その買いつけに理事長として日夜奔走していたのであった。
当然養蚕農家の間で桑の葉の取り合いが激化しており、売買の仲介をする仲買人も暗躍していた。
そんな仲買人の1人が重吉の留守中に吉井家を訪れ、言葉巧みにすえを騙して、重吉が苦労して結んだ桑の葉の買いつけ契約を解約させてしまったのである。
帰ってきた重吉は烈火の如く怒り「離婚だ」と叫んだ。
普段からしっくりいっていなかった姑のたつは、何の口添えもしてくれなかった。
その日の夜更け、すえは3人の子を連れて家を出た。
前の年に生まれた節子を背中に負い、6歳の勳と4歳の清子の手を引いて、とにかく飯貝から出ようと決心して、桜の渡しまできた。
夜なので船が納められた渡しの小屋は閉まっていたが、川の水が少ない時期なので、現れた中州を利用して板を2枚渡しただけの簡単な橋が架けられていた。
2人の子の手を引いてバランスをとりながら踏み外さないように、そろりそろりと進みながら、足の下の速い流れを見ているうちに、みんなが身を投じたら楽に死ねるだろうという考えが頭をよぎった。
そうだそうしようと思ったとき、仏さまの「死ぬな」という声が聞こえた。
驚いたすえは、子供たちの手をしっかりと握りなおして橋を渡りきり、上市の知人の家を頼っていった。
この頃、この辺りで吉野川を渡るには橋はなく、「三渡し」と呼ばれる3つの渡し場だけだった。
上流から桜の渡し(現在飯貝の桜橋)、柳の渡し(現在六田の美吉野橋)、椿の渡し(現在越部の椿橋)である。
桜の渡しは、飯貝の里の本善寺の前にあり、増水のとき以外は中洲が現れるので、これを利用した簡単な橋が架けられていたということである。
渡しの営業と両立するぐらいだから、しっかりした橋ではなく、電柱ほどの丸太を2つに割り並べた程度のものだったろうと想像している。
上流にダムがなかった当時、増水によって、年に1度や2度流されていたということなので手間をかけた作りではなかったはずだ。
子供や若者が荷物を待たずに渡るくらいのものだった。
大きな荷物とか、旦那衆、女性にお年寄りは渡し船を利用したのだ。
しかし夜は、船が小屋に納められている。
朝まで待てないすえは、速い流れに恐怖を抱きながら、月明かりを頼りに、ゆっくりゆっくりこの丸木橋を渡ったことであろう。
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