カテゴリ:日々のお言葉( 44 )

平成22年2月のお言葉17「濁っている根本を清めて来なければ、自分は澄んできません」

平成22年1月15日の茨城教区便りから頂きました。
この教区の日々のお言葉は創作です。善いことが書いてありますので、毎月読んで、他の教区便りの日々のお言葉と比較しています。

アメリカの航空機でテロを未然に防ぐことが出来たというニュースがありました。
ホッとするニュースではありますが、何故こういうことが絶えることなく続くのかと思います。
実際人間の存在がこの世にあらわれて以来、争いがどこかで行われています。
報復に報復、恨みがさらに新たな恨みを重ねていて、一体元はなんだったか?分からないくらいになっています。
先日捕鯨関係の意見の相違で、日本と環境保護団体のオーストラリアの船との衝突騒ぎもあり互いに自分の主義主張をしています。
ほとんどすべての争いに見るのは、自分が悪くなくて相手が悪いからこういう事態に陥ったという主張です。
以前ガンジーの記念公園で見たものに、世界の大きな宗教のシンボルがすべて置かれて、周りに花が飾られていました。
彼は宗教や人種を超えて、世界の人々が仲良く争いをしない事をねがっていました。
すべてを受け入れて尊敬し、すべてを愛する姿勢を貫き、様々な悪の根本は自分自身の心から発している。
相手が悪いのではないという思いを持ち続けていました。
そこに今回のお言葉が示すことと重なるように感じます。

濁っている根本は自分の心では?!と。
その自分の心を先ず清めるために、善根功徳を積み、又感謝のここをを忘れることなく、神仏を祀り、世のため、人のために何か手伝いができることがあればさせていただく、目上の人や親への孝を積む等私達の心を清らかにできることを、まず自分の方から求めて探して、一歩踏み出そうと教えてくれたいます。

お言葉17 教区便りにリンクしています。
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日々のお言葉17が教区便りに載っていましたです。

日々のお言葉17 「濁っている根本を清めて来なければ、自分は澄んできません」

教区便りの説明
激動の1年が終わり、世界は対立から協調へと向かおうとしながら、新しい秩序を模索しようとしている。
そんな時代にあって、大切なことは、平和を願う人、1人1人がまず平和は心を作っておくことだ。
戦争も環境破壊も人の心で生み出されてきたものだから。
根本を清めてこない限り、澄んだものを手にすることはできない。
新しい秩序作りに最も大切なものは心であるとの認識に立ち、今年も世界平和の祈りをご本尊さまに捧げよう。

お言葉17 茨木教区便りにリンクしています。

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宗本部から1月の実践目標として示された日々のお言葉16が教区便りに載っていました。

日々のお言葉16 「感謝は形に表さねば、感謝になりません」

「宗祖五行のお諭し」に「感謝の誠を捧ぐべし」とあるように、文字通り感謝は「捧げる」ものである。
有り難いという思いが「捧げる」という形に表され、初めて感謝している事になる。
有り難く思う心が育てば育つほど、何とかしてその思いを相手に伝えようとするだろう。
形に表せないのは、その思いが本物ではないからだと言って良い。
本物の感謝とは、せずにおかれないとする自己の思いの表現で、人に言われたからするものではない。
また、したからと言って、代償を求めるものでもない。

リンク
お言葉16 教区便り
宗務総長さんの日々のお言葉16を考える

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平成22年1月のお言葉16「感謝は形に表さねば感謝になりません」

平成21年12月15日の茨城教区便りから頂きました。
この教区の日々のお言葉は創作です。
善いことが書いてありますので、毎月読んで、他の教区便りの日々のお言葉と比較しています。

学校を卒業する時に先生たちが私達に送る言葉としてくださったのは『世界中の中には、勉強したくてもできない人がいますが、あなた達は恵まれて教育を受けたのですから、何かの形でもかまいませんから社会に出てお返しができるように』でした。
その言葉を思い出すと、出来ていない!と反省です

ただ友人たちのその後を思うと有形無形に頑張っていて、私も自分ができる事で何かという気持ちが湧きます。
このお言葉16にも同じ心が含まれていると思います。
ご近所お付き合いを初め色んなお付き合い、自分たちが生かしていただいているすべてに関して見るに、自分一人では生きて行けないということを実感します。
ほんのちょっとしたことでもどれだけの力や恵みがこもっているかと、考えれば考えるほど感じる事が絶えません。
よく私は、家族や自分自身が災難に出合って助けていただくと人間の寿命は本来はここまで、しかし助かったのはまだやらなくてはならない事がるというお知らせか、まだ修行が足りないということだなと思います。
有り難いと思ったら自然に心と言葉と行動が一致します。
例えばお経を上げるということは敬虔な祈りをささげようという意に出発し、お経を唱える口の行の実行、手を合わせる身行の実行で、感謝の誠をささげる時のお経は身口意の一致で実を結ぶといわれています。
信者としては、感謝箱、ご奉仕等がありますが、感謝は普通の生活でも形に表す事が出来ます。
ご近所ご一緒の町内会の清掃等、自分たちでできることで感謝の心を形に表わしていけます。
1番大事なことはどんな時でも感謝する心を忘れない事だと思います。
自分の今ある事に、人からの気持ちに対しても素直に感謝できるという感性があるかということです。
善く大事な人をなくしたり、ドン底に落ちた時に感謝できるか!という人もいるかもしれません。
私はそんな時でもぐらつかない信仰を持ち続けて苦しさを乗り越えて更に信仰生活を深めている方を目にすると、感謝とは信仰とはこういうことなのだなと教えられます。
とにかく人は身勝手な自分の視野で物事を判断しますが、どんな時でもまず感謝の気持ちを忘れずに、どれだけ自分は生きているかということを胸に手を置いて考えると、自然に答えが得られる事と思います。
以前にこのおことばの時と思いますが、感謝のノートについて書いた事があります。
お運びで先生がその日起きた感謝する事を書いてみましょうと教えてくださった。
ノートに書きとめて見ると毎日たくさん感謝する事に出合っていると知らされました。
書きとめていないと平気で忘れたりしている事が多いのですが、それよりも当り前のこととして記憶にとどめないで、いることの多さに気付きました。
人と人を繋ぐのは何気ないことの積み重ねですが、同じ事に接しても、何でも人の欠点を探して恨み、悪くいう人がいますが、人をよく思い、出会いに感謝できたら幸せに感じるのではないでしょうか。
感謝できる気持や心を失うことなく、素直になることが大切だと思います。

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お言葉16 教区便り
宗務総長さんのお言葉16を考える 
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日々のお言葉14 茨木教区だより

平成21年11月のお言葉14「実行しなさい。考えているだけではだめです」

平成21年10月15日の茨城教区便りから頂きました。
この教区の日々のお言葉は創作です。
善いことが書いてありますので、毎月読んで、他の教区便りの日々のお言葉と比較しています。

仲間や友達が困っているから、何か出来る事で助けようとする子供。
我が子が病気で苦しんでいるから必死で医者のところに連れて行き、どうにか治りますようにと祈る親の姿。
自分たちの周りで様々な出来事が起きてきます。
頭ではこうしたらいいのではないか。
いやそんな事をしたらどう思われるだろううとか。
考えをめぐらして手も足も出ない人が多いでしょう。
黙って知らん顔をしていれば物事は行過ぎるというという考えを持っている人もいるかもしれません。
しかし、理屈や理論ではなく、自然に心が反応をして身体が動いてしまう。
言葉が出てします。
その前向きな実行が実行が大事なのだと思われます。
信仰の事をいろいろ学ぶことは、本当に大事なことです。
しかしそれを知ることよりも、それを考えることよりも、論ずることよりも、なお一層大事なことは、御教えを実行すること。自分のものにすること。理想に向かって全身全霊を捧げることで、迷わずためらわず、何の期待も持たず踏み出すことですと『信者訓戒理解(日々のお言葉を現管長様が45歳の宗務総長時代に信者の道しるべとして書かれたもの)』には書かれています。
9月に婦人部の研修会で勤行とお分け身(お宗祖さまの手形を複製したもの)の講習会がありました。
その時に聞かれたのは、出かけるときにお分け身を持参しているかいないかでしたが、持参している方は少なかったです。
(お分け身は最初のお運び24席を修了しますと授与されます。そしてお分け身の使い方の講習があります)
また以前の問題で毎日の朝夕の勤行(私は個人的に勤行という言葉が嫌いです。行を勤めるという意味よりご本尊さまに報恩感謝の心で礼拝する礼拝行と思っています)はどうなっているか。
お運び席にきちんと通っているか。
毎月の回向させていただいているか等
1つ1つ先ず自分たちでが基本的にできる事を実行しているだろうか等自分自身が胸に手を当てて問うて見たいと思います。
一心に祈る姿があり、心も身体も1つになって素直に教えを実行できる。
これが大切ではと教えて下さっている今月の言葉です。
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お言葉14 教区便り

宗本部から11月の実践目標として示された日々のお言葉14が教区便りに載っていました。

日々のお言葉14 「実行しなさい、考えているだけではだめです」

実行ということを考える場合、実行そのものを問題とする前に、その「方向」をしっかり見定めておくことが大切である。
これを誤ると独りよがりの行為となり、目的とするものは得られないどころか他に迷惑を及ぼす。
私たちのお手本は、宗祖様である。
他のために尽くしきってこられた宗祖様の歩みに「方向」を定めよう。
これが定まれば後は文字通り、実行あるのみである。

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お言葉22 水の章10講から

18年8月26日(土) 水の章第10講 小竹祥善講師法話から転記しました。
故マザーテレサさんの施設で働いた日本人のお話の中で

信者訓戒に「(22)ご本尊様は何時でも何処でもあなたの背中についておられます」というお宗祖様のお言葉があります。

これは私達がご本尊様と繋がっている存在であるということを教えています。
このご本尊様は目で見ることはできません。
目で見ることができないなら心で見ます。
私が支部の感謝祭に行きましたとき、支部長さんが申し訳ありません端っこで祭壇が見えませんといわれましたが、目を閉じたらご本尊様は目の前におられるのです。
私達の目は視野があり見える範囲が限られています。
しかし目をつぶると視野に関係なく想像で見ることができます。
背中にいらっしゃるご本尊様は心の目でしか見えません。
これは心がないと見えないということになります。
慈悲も私達の心を育てないと慈悲も大きく成長しません。
相手を大事に大事に思う気持ちが、つまらない相手だと思っていたのにすばらしい方であるということが見えてきます。
人でなくてもつまらないものと思っていたものがすばらしい価値があることを発見することがあります。
相手を大事にし、優しくする心を磨きますと、相手の言葉遣い、顔の表情、態度動作の違いが見えてくるのです。
それは相手のことを思うという心が見せてくれるのです。
皆様方が掃除をされるとき、きれいにしようという心が有るからゴミが見えるのです。
きれいにしようという心がなければゴミがあっても見えません。
これと同じように私達は慈悲の心を育てますと、更に優しくしなくてはならない、大事にしなくてはならないところが見えてきて、優しくすることにより更に慈悲は大きく育つのです。
私達が学ぶこの優しさの原点は大慈大悲のご本尊様です。
目の前にいる方がイエスさまですといわれても私達はなかなかはいそうですといえないところがあります。
しかしその方の中にご本尊様だいらっしゃる。お宗祖様がいらっしゃる。
ご本尊様がお宗祖様が私のためになさったのだとすべてにご本尊様、お宗祖様を結びつけて考えることができると相手をもっともっと大事に優しくできるだろうなと思います。
そうして私達は慈悲の心を育てましょう。
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日々のお言葉13 「苦しみのない行はありません」

心の行をする人にとって、生活の場が即道場となる。
ここでは行のカリキュラムはない。
いつ、何をせよと言われるかわからない。
病気やけがは当たり前。
願わぬことが次々と起こってくる。
不測の事態に直面して茫然自失と言ったこともあるだろう。
しかしこれこそ道場長たるご本尊さまが、わざわざ用意して下さった問い掛けだ。
そこから何を学べというのか…………。
これが分かれば、いくらでも自分で行ができる。
逃げ回っていたのでは、看板倒れの信者にすぎない。
逃げられないから苦しいのである。

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日々のお言葉13 「苦しみのない行はありません」

平成21年9月15日号の茨木教区便りから転記しました。

弁天様にご縁をいただきて思うことは、色んな人の姿を見るということです。
初めてお運びに通うようになったら、次々と問題の多いボランティアの現場に遭遇し、一様でない人間社会と自然に接する機会を与えられました。
今でもそれは形を変えて続いています。
教区支部に入っていただくようになると、勝手信者(支部という組織に参加せず、または支部等を脱した方)であればこのような事に出合わなくて良かったのではと思うことにも出合いました。
ではどうしてそうであっても支部や教区に入るようにと勧められるのでしょうか。
各人が生活している世界というのは一生かかって旅をしたとしても、意外と小さいものです。
幾ら頑張って図書館の本を全部読もうとしても、世の中のすべての知識に精通するには無理があります
それだけ自分という存在は力も能力も足りないものなのです。
ただ普通なら気付かないで通り過ぎるであろう出来事や人間、各種の問題に、信仰を持つことで課題が与えられます。
むやみやたらに模索していたのとは違い的を得た課題です。
それと付き合う中で自分に何が欠けていて、何をすべきかを教えられます。
例えばいい例ではありませんが、ご奉仕に伺っているのに、人の悪口を聞きにきているみたいでいやだというのを聞きますが、それは同じ教えを学ぶ仲間の中でもあることで人間のいやな面を見ることでしょう。
心の行をする私達が教えを学ぶ中でその意味を知らされます。
そのために行があるのだと思います。
すべて意味がない事ではなくて、みんな意味があります。
お運び席でお話を伺う、ご奉仕をさせていただくのは霊場での行ですが、実際家庭でも一歩足を踏み出した世の中でも、その人その人に合った行を与えて下さっています。
それが自分ではどのようものか? 内容が予測できないために、逃げたい、逃げようという気持ちを持つかもしれませんが、心の眼を開けば瞬間、瞬間に、これは!と思えるご本尊さまご宗祖様の深い御心を感じることでしょう。
あたえられる行が本当に辛く、耐えられないと思うこともあるでしょうが、それでないを学びなさいと仰っているのか、しっかりと向き合っていくことが大切だと思われます。
人間はいくら修行をしている人であっても完全ではありません。
また世の中は、人が作っているものですから、常に変動もしています。
その中で信仰ということは、一体何でしょう。
本物の心の自由を得ることでもあり、本物の心理を学ぶことだと思います。

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日々のお言葉12 教区便りから

日々のお言葉12 「善根功徳行は行うだけでよい。ただそれだけでよいのです」

善い事をすると人に認めてもらいたい。
見返りを期待したくもなる。
しかし、そんな気持ちが、少しでもあれば功徳にならないというのがこのお言葉である。
目的は手段の積み重ねによってしか得られないのだからといって、手段の手間を省くことばかり考えていては足元を踏みはずすことになる。
私心を押さえ、ひたすらお言葉を指針として過程を積み重ねていけば、いつの間にか願っていたものが得られる。
私たちにはできることは何が善かを学ぶこと。
他を責めるための信仰ではない。

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