弁才天に関するお経の資料 その1

弁才天 (参考資料 天部の仏像事典 錦織亮介)その1
宝塚市にあります真言三宝宗清荒神清澄寺の参道にある経本販売店でかった金光明最勝王経 大辯才天経の末尾に記載されていた、筆者の資料です。
私はよく分析されている資料だと思います。
弁天様を信仰するものは本資料を一読する価値があると思いましす。
鎌倉時代以降、日本で弁才天の偽経が作成されています。
これには驚かされました。

1  成立
2  形像
3  偽経の弁(辯)才天五経の形像等





1 成立
(本資料でサラスバティーとサラスヴァティーの2つの名称を使ってますが、ブログ者がサラスバティーに統一しました)

薩羅娑縛底(サラスバティー)と音写し、妙音天、大弁才天、大弁功徳天(だいべんくどくてん)、大弁才天女などと漢訳されています。
略して弁天と称し、俗に弁財天と書くこともあります。
弁才天は、インド神話の3大女神の1つで、梵天の妃と言われています。
原名サラスバティーは、水多き地の意味で、初期アーリア人の故郷、プラフマーヴァルタ地域を流れる河の名称をさし、この聖河が流域の人々に富と食と勇気と子孫を与えるところから、神格化され天女の名前となったと考えられています。

しかし、サラスバティーの名には、弁才という意味はありませんから、この河が神格化されてから、これと同一視された弁舌の神ヴァーチが弁才天の原形といえます。

女神ヴァーチも早くから神話の中で説かれ、言語・談話・弁舌・音楽などの神として崇拝されています。
土地豊穣の農業神的性格を持っていた河神サラスバティーは、このヴァーチと結合することによって、まったく弁舌・学問・知識・歌頌・音楽の女神となり、諸ヴェーダの母と呼ばれ、梵語・梵字の創製者と称され、諸神中でも最も優れた梵天の妃とされるに至りました。

仏教にとりいれられてからの弁才天も、神話時代の功徳をそのまま伝え、弁舌・学問・音楽・除災増福・戦闘などの功徳が『金光明最勝王経』等に説かれています。

2 形像

弁才天には8臂像と2臂像とがあります。
8臂像は、『金光明最勝王経』に説くところで、「身色端厳にして皆見んことを楽(ねが)い、衆相稀有にして不思議なり。(中略)常に八臂を持って自ら荘厳し、各弓・箭・刀・矛(ほこ)・斧・長杵・鉄輪并に羂索(けんさく)を持し、端正にして見んと楽うこと満月の如し」と記し、美人でありながら武器の数々を執るところは戦神を示しています。
同経には、「勇猛にして常に大精進を行い、軍陣の処において戦い常に勝つ」「眼目能く見るものを恐れしむ」「天と戦うとき常に勝ちを得る」など戦神の性格について述べており、これは弁才天が阿修羅を滅ぼしたというインド神話を引くものでしょう。

『最勝王経』に説く弁才天は、戦神としてよりも弁才知恵の神として説かれいるにも関わらず、その図像は戦闘神として8臂像を説くのみです。
密教における弁才天の像容にも戦闘神的特色を強く残しているのは、『最勝王経』が密教より先に請来され、奈良時代から購読されていたので、密教も儀軌(規則・法則)としたからでしょう。

8臂像には座像と立像との差はありますが、持ち物はほぼ『最勝王経』に従って作られたものが多く、平安末の『十巻抄』には、左第1手に弓、次手に刀、次手に斧、次手に索を執り、右第1手に箭、次手に三叉戟、次手に独鈷杵、次手に輪宝を持つ図を載せています。
作品によっては持ち物の種類に多少の相違があり、あるいは右手と左手の間で持ち物が入れ替わっているものなどがありますが、いずれも『最勝王経』に説く形像の枠内に含められるといえます。

3 偽経の弁才天五経の形像等

ところが、中世(鎌倉時代以降)以後になりますと、弁才天に関する新しい経典が著され、弁才天は財福神となり、その像容にも変化が起こります。
唐の不空訳と称される

『仏説最勝護国宇賀那頓得如意宝珠陀羅尼経』
(ぶせつさいしょうごこくうがやとんとくにょいほうじゅだらにきょう)
『仏説即身貪転福徳円満宇賀神将菩薩白蛇示現三日成就経』
(ぶせつそくしんどんてんふくとくえんまんうがしんしょうぼさつびゃくじゃじげんさんにちじょうじゅきょう)
『仏説宇賀神王福徳円満陀羅尼経』
(ぶせつうがしんのうふくとくえんまんだらにきょう)
『仏説大宇賀神功徳弁財天経』
(ぶっせつだいうがしんくどくべんざいてんきょう)
『大弁才天女秘密陀羅尼経』
(だいべんざいてんにょひみつだらにきょう)
の5経がそれですが、江戸時代の浄厳(しょうごん)和尚の秘訣中に説くように、我が国で著された偽経なのです。

これらの偽経には持ち物に変化が見られ、「宇賀那頓得如意宝珠陀羅尼経」には、8臂に鉾・輪・弓・宝珠(左手)、剣・棒・鑰(やく)(鍵)・箭(右手)を執ることを記しています。
宝珠と鍵を執るのが財福神を表すものですが、他の武器については魔を下し敵を退け貪欲神、障碍(障害)神・飢渇神を伏すためであると解釈しています。

また頭上に白蛇と華表(かひょう=鳥居)を載せることも説いています。
蛇と弁天さまの結びつきは、宇賀神信仰との関係から生じていると考えられます。
宇賀神はもともと穀物の神ですが、転じて食膳の神、衣食を給する神となり、そして平安時代以来福の神として広く信仰されるに至りました。

また宇賀神は蛇神・龍神の化身とも信じられ、『宇賀神とて頭は老人の顔にして、体は蛇体に作り、蛙をおさえたるさまして神社に安置す』(塩尻)の如き人面蛇身の像も作られています。
弁才天は本来の性質上、常に水辺に関係があるため、財宝神的性格が付加されるにつれおそらく蛇神・龍神を介して宇賀神との付会が行われたものと考えられます。

鳥居に関しては、神仏を融合した像容を作って、この神の信仰を広めようとした修験道の意図から出たものと思われます。

弁才天の財福神としての性格を示すために、後輩に宝珠を配したり、連台の基部に宝を散らした図などが弁才天祠から出た神影にはあります。

インドにおける弁才天像は、画像には多くみられますが、彫像は稀です。
若い美人で、眉は新月に書き、身は白色で白衣をつけるのが普通で、白蓮か睡蓮の上に倚生し、あるいは孔雀やハンサ(鵞鳥に似た鳥)に乗り琵琶を弾く2臂及び4臂像に描かれています。
中には梵天に抱かれたものや梵天の側に侍すものもあります。

中国における弁天像は、遺品の上では類似した吉祥天ほどに多くはなく、唐末の万仏峡兜跋毘沙門天壁画に乾闥婆とともに脇侍として配されています。
この像には弁才天と尊名が併記されてはいますが、他の作例から考えれば、吉祥天をすべきものかもしれません。
その他に敦煌出土の五代頃の千手観音、観世音陀羅尼輪曼荼羅図に弁才天が配されている程度で単独尊としての造像は不明です。

吉祥天と同様に『金光明最勝王経』に説かれている尊像ゆえ、『最勝王経』関連して造像されたことは十分に推測されます。

天平時代の東大寺三月堂の塑像弁才天像が、吉祥天とともに最勝王経悔過会(けかえ。罪や罰を悔い改める会)のために造像されたと言われますが、その先例は中国にあったものと考えられています。

また平安時代には空海や円珍が請来した諸種の胎蔵界曼荼羅や四種護摩本尊并眷属図中の琵琶を弾く2臂像は、いずれも唐代の弁才天を写したもので、『別尊雑記』中の見られる3目8臂像は、明確に「唐本(とうほん)」と中期が付せられています。

したがって唐代(始618年)から五代(終979年)にかけて各種の弁才天像が流布していたことは疑えません。
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