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弁天さまと観音さまの関係NO1

弁天さまと観音さまの関係NO1

弁天宗で信仰していて、なぜ以前大祭では観音経をあげていたのか。
大護摩祈願(壇護摩)で観音経をあげるのか。
が疑問でした。
たまたま先輩信者様から「観音経の講義を聞く心構え」なる資料を頂き、長年の胸のつかえが取れました。
記載内容について、私が、納得できないところは注意書きの「*1」とつけ、私の見解を末尾に付記しました。
この「観音経の講義を聞く心構え(未完)」なる文章に出合えたことは、観音経に関する私の考えの手助けを得て、非常によかったと思います。

しかしながら、この作者は、知識不足、調査不足のためか。
私もそうでしょうが、物知りが間違った知識に溺れて勝手なことを書いているところがなきにしもあらずと私は思います。






(頂いた資料と私が参考にした金光明経です)
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「観音経の講義を聞く 心構え」(筆者弁天宗・教務長{作成年月不詳})

弁才天とは、天地の始め陰陽の根源なり………8臂を具するは、8観音の総体なり。
左の第1宝珠の手は、如意輪観世音で、貧賤を離れて富貴の報いを成ぜしむ。
第2宝輪の手は、馬頭観世音で、横死の難を離れて丈夫の相を成ぜしむ。
第3宝弓の手は、准胝観世音で、醜陋を離れて敬愛の報いを成ぜしむ。
第4宝鉾の手は、大聖観世音で、刀杖の難を逃れて安楽の報いを成ぜしむ。
右の第1宝剣の手は、千手観世音で、愚痴の罪を離れて弁才の相を成ぜしむ。
第2宝棒の手は、11面観世音で、呪詛の難を逃れて無病の報いを成ぜしむ。
第3宝箭の手は、不空羂索観世音で、盗賊の難を離れて聖王の位を成ぜしむ。
第4宝鑰の手は、白衣観世音で、無間の業を離れて仏果の位を成ぜしむ。(*1)
(金光明経最勝王経より(*2)

以上の経に説かれたとおり、大弁才天の8臂のことごとくが観世音であり、その観世音の総体が弁才天であるから、宇宙最高の神、弁才天の大慈大悲をもって、衆生をお救いになるときのお姿、即ち慈悲の権化はすべて観世音ということになる。(*3)
従って観世音の利益を説くことは、取りも直さず弁才天女尊の利益を説くものである。
観音の利益を知れば知るほど、その根源の神としての弁天さまの有り難さを知ることになる。
故に、観音経の意義を知ることによって、より一層、弁才天女尊ひいては弁天宗(*4)の有り難さがよく分かるのである。
宗祖智辯尊女が30有余年の長きにわたり、衆生を救済してこられた無限のご利益は、観音経の中に説かれている不思議なご利益と全く一致するものである。
さらに、またご宗祖(様)のご遺告の中に
「苦しい時にも、悲しい時にも、迷った時にも私を呼んでください。きっときっとお助けさせて頂きます。お守りさせて頂きます」
とあるように、観音経の中の7難、3毒、2求願等のお救いは、全く大弁才天女即宗祖智辯尊女の慈悲の現れであって、本当に「弁才天は8観音の総体なり」との真実観を深くするもので、
言いかえれば、8観音は、あらゆる福徳兼備の弁才天の福徳の一部を分担し、弁才天の手足となってお働きになっていると言えるのである。(*5)
だから、それらの観音の働き全部を総合した本体こそ大弁才天女尊なのである。
私は観音経を読めば読むほど、その総体であられる弁才天女尊即宗祖智辯の偉大な威神力ともうしか。霊徳と申し上げるか。そのお力の偉大さに驚嘆せずにはいられない。
そして、弁天宗の信仰を一層強固ならしめ、進んで1人でも多くの隣人を導かずにはいられない。
強い感激にうたれるのである。
つまり、観音経の講話を聞くことによって、宗祖尊女のお諭しが、如何に尊いものであるか、一層身に沁みるとともに、ただ自分のみがそのみ教えによって救われることに留まらず、その教えを持って苦衆救済の心とし、世のため人のために善根功徳の行を積むことこそ、観音の道(*6)であり、ひいては大弁才天即宗祖尊女のご誓願である蓬莱世界実現への大道であることを知らねばならない。
(未完)

*1:准胝観世音、大聖観世音、千手観世音、白衣観音には「大悲」がついていましたが他にはついていません。
同じ観世音で大悲の付かない観世音さまには大悲がないのでしょうか。
そんな馬鹿なことはないので全部大悲を削除しました。
作者の誤記でしょうと思ったのですが、「根本式」という経本には、「大悲」がついていました。
つかない違いは何でしょうかね。

*2:「根本式」という経本には8観音のことが書いてあります。
では、根本式が金光明最勝王経の経文にあるのかしらべましたが、「根本式」という経文はどこにもありません。
金光明最勝王経は弁才天、吉祥天のことが書いてありますが、弁才天、吉祥天のための経本ではないのですから、弁天さまの8臂を解説する経文があること自体、間違いです。
これは、信仰する方が多い観音さまの名を借りて弁天さまの信仰を広めようとして小狡い方の偽経でしょう。
「大悲」が付く観音さまとつかない観音さまがありましたが、おかしな偽経です。

*3:8臂は8臂です。観音さまではありません。
人間は、各種悩みを救う手だて表徴を求めたがるので、人間の思いに迎合して、救いの表徴として法具を8臂の手に持たれているだけであると私は思います。
色々な観音様があるのがその証だと私は思っています。
現にお宗祖様が仰っています。天啓を受けた時の「我は弁才天なり」といわれた方は、2臂の女神のお姿でした。
8臂は弁天さまの霊徳の表徴であり、観音さまの名を借りなくても良いと思っています。

*4;観音経の意義を知ることで、弁天さま即ちお宗祖さまのお働き(苦衆済度)が観音経に書かれていることを実現されていると体験、理解することはできます。
しかしながら、なぜ「弁天宗」の有り難さがなぜ分かるのか分かりません。
飛躍しすぎています。

*5:観音様は辯才天の手足でしょうか。私は違うと思います。
神さま仏さまを手足のように使うなんて言うことを言いますと、西国33箇所観音霊場の寺社を初め、観音様をご本尊さまとする寺社の大批判を浴びるでしょう。
*2で説明したように、弁天さまの色んな救済の手だての表徴として法具を手にされているのであって、観世音即弁才天なのであると私は思っています。
観音経自体、人間が出合う12の災難を救ってくださる神仏の名前が、観音経作者には「観世音菩薩」に見えたので、「観世音菩薩」という名前を使用しただけだと思います。
観音経作者に観世音と見えた仏様は、弁才天女尊様であったかもしれないと私は思って、観音経を解釈しています。

*6:観音の道という語句には疑問を思います。
観音経にはどこにも、世のため人のために善根功徳行の実行をせよと記載しているところはありません。
一心称名、南無観世音菩薩 称後名故 即得解脱、常念恭敬 便得離欲、若有衆生 恭敬礼拝、受持観世音菩薩名号………すべて南無観世音菩薩と称名すれば助けて頂けると結んでいます。
善根功徳行即観音信仰の道ではありません。
人のため世のために尽くす道であれば菩薩道、菩薩行でしょう。