ご宗祖さまの物語(2)

ご宗祖さまの物語(2)

都島教区便り平成21年5月号に「ご宗祖さまの物語(2)」と題して教区長優谷壽男さんの記事がありました。
ご宗祖さまの物語(1) に引き続き参考になりますので転記させてもらいました。

カテゴリーは「講師の回想」に入れます。
優谷教区長はお運び研席の教使でした。
ご宗祖さま物語は、宗祖伝の原稿からのお話ではないかと思い、従って教区便りの記事を転記することにしました。
ご母堂様が子連れで家出をされた時の、川の渡し場の状況等が詳しく書かれているように思います。

ご宗祖さまの物語(2)
江戸時代から明治にかけて飯貝や上市は、人の往来がかなりあってようだ。
上市の町の中を通る旧街道は、「南伊勢街道」と呼ばれており、立野から山路に入り、竜門、三茶屋、鷲家を通り高見峠を越えて松阪に向かう。
お伊勢さん参りの人達で賑わっていたそうで、紀州の殿様が参勤交代で江戸を往復する径路でもあった。
東海方面から吉野山の花見、金峰山寺や大峰山に参詣する人達は逆に高見峠を越えて立野にでる。
ここで桜の渡しをわたり、飯貝の里を抜けて、吉野山への登り坂にさしかかるのである。
この賑わいの中で吉井家の商いも繁盛していたものと思われる。
日露戦争に勝利した明治38年以来殖産政策が強化され工業化が進み、絹織物製品の輸出が伸びた。
吉野地方でも、この波に乗って養蚕が奨励された。
父重吉は推されて養蚕組合の理事長を務めていたが、清子が4歳になった大正元年は害虫の発生で、桑の葉が不作であったため、その買いつけに理事長として日夜奔走していたのであった。
当然養蚕農家の間で桑の葉の取り合いが激化しており、売買の仲介をする仲買人も暗躍していた。
そんな仲買人の1人が重吉の留守中に吉井家を訪れ、言葉巧みにすえを騙して、重吉が苦労して結んだ桑の葉の買いつけ契約を解約させてしまったのである。
帰ってきた重吉は烈火の如く怒り「離婚だ」と叫んだ。
普段からしっくりいっていなかった姑のたつは、何の口添えもしてくれなかった。
その日の夜更け、すえは3人の子を連れて家を出た。
前の年に生まれた節子を背中に負い、6歳の勳と4歳の清子の手を引いて、とにかく飯貝から出ようと決心して、桜の渡しまできた。
夜なので船が納められた渡しの小屋は閉まっていたが、川の水が少ない時期なので、現れた中州を利用して板を2枚渡しただけの簡単な橋が架けられていた。
2人の子の手を引いてバランスをとりながら踏み外さないように、そろりそろりと進みながら、足の下の速い流れを見ているうちに、みんなが身を投じたら楽に死ねるだろうという考えが頭をよぎった。
そうだそうしようと思ったとき、仏さまの「死ぬな」という声が聞こえた。
驚いたすえは、子供たちの手をしっかりと握りなおして橋を渡りきり、上市の知人の家を頼っていった。
この頃、この辺りで吉野川を渡るには橋はなく、「三渡し」と呼ばれる3つの渡し場だけだった。
上流から桜の渡し(現在飯貝の桜橋)、柳の渡し(現在六田の美吉野橋)、椿の渡し(現在越部の椿橋)である。
桜の渡しは、飯貝の里の本善寺の前にあり、増水のとき以外は中洲が現れるので、これを利用した簡単な橋が架けられていたということである。
渡しの営業と両立するぐらいだから、しっかりした橋ではなく、電柱ほどの丸太を2つに割り並べた程度のものだったろうと想像している。
上流にダムがなかった当時、増水によって、年に1度や2度流されていたということなので手間をかけた作りではなかったはずだ。
子供や若者が荷物を待たずに渡るくらいのものだった。
大きな荷物とか、旦那衆、女性にお年寄りは渡し船を利用したのだ。
しかし夜は、船が小屋に納められている。
朝まで待てないすえは、速い流れに恐怖を抱きながら、月明かりを頼りに、ゆっくりゆっくりこの丸木橋を渡ったことであろう。
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by nohara4241 | 2009-06-24 09:54 | 講師の回想