ご宗祖さまの物語(1)

ご宗祖さまの物語(1)

都島教区便り平成21年3月号に「ご宗祖さまの物語」と題して教区長優谷壽男さんの記事がありました。
お運びで受講した内容より詳しいところがあり、参考になりますので転記させてもらいました。

霊顕75年祭に関してのお話でしょう。
カテゴリーは「講師の回想」に入れます。
優谷教区長はお運び研席の教使でした。
ご宗祖さま物語は、宗祖伝の原稿からのお話ではないかと思い、従って教区便りの記事を転記することにしました。

ご宗祖さまの物語(1)

夜半から降り始めた雨は未明日に近付くに従って、次第に烈しさを増し、瓦屋根に降りそそぐ音には雹か霰が混じるようになった。
その上、遠くあるいは近く、雷の響きが聞こえてきた。
この荒天のもと、元気な女の子が産声を上げた。
やがて夜が明けると共に、雨は弱くなり、昼前には日が照る好天に変わった。
青空の中、天では小鳥が鳴き、庭では花が一斉に咲き、まるで天地が喜びを表現しているような昼下がりになった。
明治42年4月1日吉野郡飯貝の里の事である。
母親であるすえには鮮明な記憶として刻み込まれていた。
お言葉集成第2集、第6集に後年語った言葉としてこのように記されている。
「雨が降り雹まで降った悪天候だった」と。
丁度33才の大厄の歳だったすえは、親を困らせる子だと思った。
一方お言葉集成第5集には「家の庭の草花が一斉に開いた不思議な日だった」とも思い出話として語られている。
一見矛盾するような思い出話だが、この季節にはよくある春の嵐と呼ばれる現象で、多分寒冷前線が通過したのであろう。
吉野川の清流のほとりで生まれたこの女の子に、両親は願いをもめて「清子」と名付けた。
飯貝の吉井家長女清子の父は吉井重吉、母はすえであった。
この夫婦には明治40年に長男勳が授かっていた。
しかし産後の肥立ちが悪く、すえは、信貴山の毘沙門天にお籠もりをした事があった。
帰宅してから清子が宿ったのであった。
それ故に、「毘沙門の申し子」と周りから言われていたし、すえも信じていた。
飯貝の里は吉野山の麓にあり、伊勢東海方面から吉野金峰山寺、そして大峰山に昇る修験者の街道筋であった。
吉井家は代々「うをや重兵衛」を名乗り、筆・墨・紙を扱う商家であり、吉野大峰山参詣者のお土産物も扱っていた。
この飯貝には室町時代末期(1470年頃)に訪れた蓮如上人によって創建された御坊本善寺があり、吉井家は代々檀家総代を勤めてきた熱心な一向宗門徒(浄土真宗)である。
すえの生家は、御所市戸毛の井戸川家、農家ではあるが格式が高く、武家と縁組みをした事もあった。
宗旨は浄土宗である。奈良時代中期(750年頃)苦衆救済のために諸国を巡っていた行基菩薩によって掘られた井戸を守る家として代々勤めていた。
すえの母きくの生家は天川村の堀口家で、清子の又従兄弟にあたる堀口芳男が後の頼もしい片腕となるのである。
吉野川の清流、1200年もの間、農民を養ってきた井戸の水、弁才天の聖地天川村、これらと不思議な縁でつながった清子であった。(終わり)
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by nohara4241 | 2009-03-23 05:11 | 講師の回想