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19年水の章8講法話NO1

19年7月22日(日)水の章第8講NO1 小竹祥善教使
(編集項目:ブログ者記)
NO1
1 前言
⑴キュウリ加持
⑵仏様の供養
2 因縁とは、水のまことの切れたるにより生ずるものなり。(13) 
⑴ 因縁という言葉について
⑵ここでのお宗祖様の因縁
⑶ある信者さんのご先祖様の生き方
⑷因縁のまとめ
NO2(次回分)
3 因縁ありても憂うべからず。水のまことにてみおやは救い給うなり。(14) 
⑴ ご本尊さまに救われる条件
⑵ 一休禅師の遺言
⑶ 心の中にスキを作らない。
⑷ 人の善意に関する天声人語の話
⑸ソワカの法則という本
4 いずれも、これ水の心。みおやの心忘るべからず(15)
⑴ みおやの心
⑵ お宗祖様の心の向き
⑶ 相手のために損をしなさい(損をして他人に尽くす)
⑷ 何時もお宗祖様は反省される
⑸ みおやの心知る方法は
⑹ 弁天宗の信仰




1 前言

⑴ キュウリ加持
如意寺では、昨日からキュウリ加持が始まりました。この行事はお坊さんだけがやっているというような行事なのですね。午後1時から始まりまして2時30分頃までかかります。お加持をする前にお勤めのお祈りをするのですが、その後はお坊さんが黙々と小刀を持ってキュウリを切りおまもりを埋め込んでいるのです。それですから皆様方は、その作業をごらんになる機会がないと思います。お運び終了後時間があるようでしたら、お勤めにご参加して、作業をご覧下さい。
弁天宗には、キュウリ加持を初めといたしまして、護摩の灰、御神池のお水、当たり矢など色々な人間の頭では理解できない神様のお働きを味わうというか体験するというか行事が沢山ありますので、それらを通して私達は、自分達の生き方の智慧を見直してみる必要があろうかと思うのです。ですから、1回キュウリ加持をごらんいただきたいのです。
あの行事は、キュウリを人間の身体に見たてます。その方の名前や年齢を念じながら、キュウリに小刀でちょっと傷を付けまして、どうぞ無病息災でありますようにと願いながら、その中にお守りを入れるのです。
それを家の持って帰ってもらいましって、そして足で踏まない土の中に埋めてもらって、埋めた翌日の朝から1週間、毎朝、ご真言を唱えながら水をキュウリを埋めた土の上にかけます。これが夏の病封じとして昔からやられているのです。
ですから、加持の方法は見た通りですが、それが続いていると言うところに大きな力があるのではないかと思います。
自分達の知恵で考えますとこんな事で病気が封じられるのかと思いますが、信仰や宗教の世界では、目に見えない世界のものに対する信頼というのでしょうか。
そういうときにご先祖様を例に出しますが、そのような見えない世界を心の中に描いておかないとついつい見えている世界でものをすべて判断・処置してしますのではないかと思います。この知恵で考えてああだこうだと判断します。だから
遠方の方は致し方ありませんが、キュウリなどでも持ち帰りがすくない。全部預けておく、やっぱりご自分お家の持って帰ると言うことが私は、基本だろうなと思うのです。色んなご都合があるのか分かりませんが、ご先祖供養のお塔婆でも全部如意寺に預けておくなどは、自分の都合が優先です。そういう中では、私達の心は磨かれて行かないのではないかなと心配するのです。
だから、キュウリ加持を見て頂きたいな、ご参加頂きたいなと思っているのです。

⑵ 仏様の供養
今日1回のロビーのところに、各教区の教区便りが置いてあるのをご存じですか。
あれは自由配布ですから、是非皆さんご覧になってお持ち帰り頂きたいと思います。私は何時も新しい便りが置かれますと、頂いて事務所で読みます。しかし、読んだら返すことにしています。
ああこんな事があったのだな。こんな体験談もあるのかと感心していますので、是非お持ち帰りになって、皆様方のご参考にして頂きたいのです。
大阪の教区便りですが、そんな目に見えないものに対する記事が載っていましたので紹介します。
ある信者Aさんが、戦争にいって帰って参ります。昭和50年代になってニューギニアへ遺骨の収集に行ったことがあるそうです。その時その方はお坊さんになっていましたので、先代の管長さんから「Aさんあなたはお坊さんになったのだから、あちらに行ったらせいぜいご供養してください。これを持っていって下さい」と言われてお塔婆を預かります。大きなお塔婆で「それを持って行きあちらに置いて供養しなさいよ」といわれるのです。もう一つ言われたことは、「どんなことがあっても向こうのものを持って帰ってはいけませんよ。一切持って帰ってくるな」といわれました。
そういわれて言ったのですが、ニューギニアの戦地を回っていますと、あそこでは誰が亡くなった。こちらではこんな事があった。戦地の思い出が頭に浮かんできて、特に親友が亡くなった場所にゆきますと、戦友がここで亡くなっているが、戦友の魂だけでも日本に連れて帰って上げたいと思って、いても立ってもおられない気持ちになり、せめてこれだけでも日本に持って帰って上げたいと思って石ころ1つを拾って持って帰ります。
日本に帰るとAさんは熱が出るのだそうです。おかしいなと思って考えてみると先代の管長さんが何も持って帰るなといったのに石を1つ持って帰った。これの所為だなと思って如意寺に持ってきて敷地内に置くと熱が出なくなったそうです。
ところが、如意寺では毎日1回ご先祖のご供養をしています。(お塔婆の開眼供養と管長様は19年3月の彼岸会で言われています)如意寺では先祖供養する担当の坊さんが具合が悪くなり、気分が悪いので早退したいと申し出て帰る事が続きましたので、今は亡き武田先生が当時事務長されており、おかしいと言うことになり、調べましたら、Aさんが如意寺に石を持ってきたということが分かりどうもその日からおかしいことが始まったようですから、Aさんに確認するとニューギニアから石を持って帰ったが熱が出るので、如意寺に持ってきて預けたということが分かり、武田先生が先代の管長さんに報告すると、管長さんの指示で宗務員みんなでお経をあげましたら、熱が出るのがピタッととまりました。
ですから、供養されていない霊は、どういう思いを持っているのか私達には分かりません。今、弁天宗でご先祖様のお塔婆を申し込み、持って帰って供養するということは大事なことなのです。供養いなければならない仏様はしっかり供養しなければならない。供養されてない仏様は石にでも付いてくるということなのでしょうか。

私達が供養しなければならない、直系の仏様をしっかり供養して下さい。そうすることによって、ご先祖様も喜ばれるし、私達の生活が、安定します。大事なことだと思いますので、目に見えないものに対する心配りを持つことが大切だと思います。宗団にはお宗祖様がそのことをお考えになって、キュウリ加持、護摩の灰、御神池の水を私達にお与えになったのではないかなと思うのです。25日までキュウリ加持はやっていますので、どうかお勤めにご参加して下さい。そして自分でいただいて土に埋めご真言を唱える事もやっていただきたいと思います。

2 因縁とは、水のまことの切れたるにより生ずるものなり。(13) 

⑴ 因縁という言葉について
今日は第8講です。4講から8講まで「まごころを常に忘るべからず」についてのお話を聞いて頂いています。「まごころ」の最後の講です。まごころのまとめの講です。
因縁という言葉の総称とここでお宗祖さまが使われた因縁という言葉についてです。総論と各論の違いがあると思います。まず、総論としては、因縁とは弁天宗独特の言葉ではなくて、仏教用語であります。私達の日常生活でも使用します。因縁がでたとか悪い状態のことで使用されています。因縁という言葉で理解頂きたいことは、因縁とは条件、きっかけということです。ただ、宗祖さまは因縁の因は、直接のきっかけ、縁は間接のきっかけと教えられています。両方ともきっかけや条件という意味がありますが、原因でもよいのです。直接の原因、間接の原因でも構いません。
ここに朝顔の種があります。これが、最初の因、原因です。ところが手の上に置いただけでは朝顔の種は芽を出し花を咲かせません。これを土の中にまきますと芽が出て花が咲きます。この様に土の中にまくということが、必要ですが、このような原因によって何かが起こってくるのです。この起こってきた事は1つの結果です。世の中で起こってきた結果というものは、みんなそれぞれ原因があるということがこの因縁という言葉の基本的な意味です。だから因縁とは何かといいますと1つの法則なのです。因縁の法則、因縁の働きといいます。世の中にはこういった法則や働きがあるということです。
それを難しい言葉では、因果律といいます。別な言葉では、人間の行った行為はちゃんとした報いがある。因果応報といいます。親の因果が子に移るといった悪い因縁の言葉のイメージで使いますが、善いことをすれば善い報いがあるのです。
自業自得も同じですね。
その法則の基本は、善い行いをすると善い原因を作ると善い楽しい幸せな結果が生まれてくるのです。善因楽果。悪い原因を作ったら悪い苦しむような結果ができてきます。悪因苦果です。
行い次第で結果が出てきますよというのが因縁です。因縁と聞いて悪いイメージを持たないようにして欲しいのです。因縁というのは法則であるとご理解頂きたいと思います。以上が因縁の総論です。
本では因は原因で縁は条件と表現しているのもあります。これは同じです。弁天宗でもこの考え方で因縁を説明しているところが沢山あります。これらのことを前提として因縁を法則と理解して下さい。

⑵ ここでのお宗祖様の因縁
法則ではなく、自分達に困難なことが起こってくる「悪因苦果」の方を取り上げています。苦しい困難なことが起こってくると場合の因縁は、水のまことのきれたるにより生ずると仰っています。
現在の苦しい、困難なこと原因は、まことのないからです。あなたに苦しいことが起こってきたということは、それはあなたの生き方の中に「水のまこと」がない。「水のまこと」がないということから起こったのである。
水のまことがないということはちょっとあらぽいでしょうが、人のためにお世話をするという生き方、人のために尽くす生き方ではなく自分のことばかり考えた生き方をすることです。これが水のまことのない生き方です。
他に尽くすことがないのです。そのために苦しいことが起こってきたのだよと仰っているのです。

⑶ ある信者さんのご先祖様の生き方
ある信者さんがお宗祖様のところやってきました。この方は目がだんだん悪くなってきた。色んな病院に行ってもいい治療法が見つからないのでご神示を受けに来られました。
お宗祖様は、あなたの家では代々精米屋さんをやっていますが、あなたの先祖の中に、精米代を頂きながら、精米をしたお客さんのお米袋を渡すときに手の平1杯分を掬って横取りしていたのです。こういう生き方をしたご先祖様がいました。
それ原因で、今あなたの目に結果として苦果となって現れたのです。そのような悪因を作ったご先祖がいました。お宗祖様は何代か前のご先祖様の行いが結果として現れることをご神示を受けに来られた方にお諭しに成られたのです。横取りされた方が分かりませんし昔のことですからどうしたらいいのでしょうかと聞かれますと、あなたが精米屋の商売をするなら、日常で、また精米するたびに懺悔の気持ちを持ちなさい。そして精米したら逆に手の平1杯分多くお客さんに渡してお返ししなさいといわれました。それを続けますと善因を作っていますので、目が見えなくなる苦果がだんだん目がよく見えるように変わってきました。
この話から、現在こうゆう結果があることに自分の生き方を反省しましょうということです。
これは自分さえよければいいという心(意)と他人のものを盗む(身)という話ですが、これから学ぶことは、苦しい方は原因を探らなくてもいいのです。まず自分の現在の身口意を反省し、他人に尽くす身口意の生き方をしなければならないのです。勿論幸せな方はもっと幸せになれるようにまた子孫が繁栄するようにどうしたら他人に尽くす身口意の生き方ができるかを考え実行に移すのです。
相手の困っている状態を見て、それは因縁やわとは絶対にいわないでください。

⑷ 因縁のまとめ
1つは 善因善果、悪因悪果という因縁の働きの中で私達は生きているということを自分でしっかり自覚してください。
何でも自分の思い通りになるのではなくて、因縁の働き、因縁の法則の中で私達は生きている。善い原因を作れば善い結果が、悪い原因を作れば悪い結果が生ずる世界に私達は生きているのです。
先ほどから何をしたかという原因行為を主に考えましたが、2つ目は心構えを考えます。いくら善根を積んでも、善いことをしても、心の中で代償を求めたり、他人を落とし込んでやろうといったよこしまな思いがあったりしますと、いくら見た目はよいことでも善果、楽果に結びつくことはありません。ですから因果律、因果応報は心構え、思いから働く法則であるということです。
by nohara4241 | 2008-07-17 08:04 | 法話水の章