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19年宗祖伝7講法話

19年7月8日(日)宗祖伝7講 岩城祥英講師法話
(編集項目:ブログ者記)
1 前言 
1) 御神池お水替え祭
2) キュウリ加持
3) 夏季清掃まこと行
4) 8月の行事
2 前講の話
1) 前言
2) お宗祖様と管長様の出合い
3 智祥様の生い立ち(1)
1) お宗祖様の管長様
2) 生家
3) 仏門の入る
4) 十輪寺の縁記




1 前言

1) 御神池お水替え祭
暑い日が続いていますが、体調をくずされないようにお願いします。先般は御神
池お水替え祭で、あいにくの天候でありましたが、全国から沢山の信者さんが来られまして、盛大にご参拝になりご本尊さま感謝されると共にご本尊さまから功徳をいただかれたのではないかと思います。御神池の水をいただかれて各方面でお陰につながって行くご利用を頂いていると思っています。ご参拝、本当にご苦労さまでした。

2) キュウリ加持
7月21日から25日までキュウリ加持が厳修されます。お宗祖様の修法でございますので、どうか大勢の方の申込をいただき、無病息災過ごさせていただかれますようによろしくお願い申し上げます。

3) 清掃まこと行
7月29日の日曜日は、如意寺と御廟の夏季清掃まこと行の日です。教区ごとにご参加頂くということで、ご案内させて頂いていますので、ご確認の上ご参加頂きましたら有り難いと思っています。暑い日でございますが、さわやかな汗を流すために1人でも多くの方が、ご参集していただき聖地をきれいにしたいと思っていますので、どうかご理解下さいますようよろしくお願いたします。
毎年同じ接待ですが、そうめんを接待します。食堂の方が新しく入れ替わり新しい方が準備しますので、皆様方にご迷惑をおかけすることがあるかも知れませんが、ご協力いただけますようよろしくお願いいたします。

4)8月の行事
8月8日の冥應寺水子供養塔での水子供養大法要、8月15日の如意寺お盆法要は、お運びの皆さん方は先祖のお塔婆供養をされている方々でしょうから、皆さん方が中心となって家族みんなで手を合わせる、ご先祖様を偲んで供養する行事にしたいと思いますので、家族皆さんに先祖を大切にすることを伝えて行く時期と捉えていただいて、日頃疎遠になっているご家族の皆さんをお連れいただいて一緒に法要に参加していただきたいと思います。

2 前講の話

1) 前言
本日は、智祥様の生い立ち(1)です。
今までは、お宗祖様が誕生されて成長され第1世管長様とご結婚されるところまでをお聞きいただきました。そのお宗祖様の話はちょっとお休みいただいて、第1世管長様がお生まれになり、お宗祖様と結婚されるまでのところを3講に渡ってお聞きいただくことになります。
お宗祖様21才、管長様30才でめでたく昭和4年(1929年)7月12日の結婚され、大師堂で生活されるようになります。

2) お宗祖様と管長様の出合い
お宗祖様は働きにでられましたが、自宅にお帰りになり、年が18才になられます。その時代では結婚適齢期でした。吉井家は長男のお兄さんが亡くなられ、次男の弟が小学生であり、お宗祖様清子様が次男が成長するまでの吉井家の跡継ぎとしてすべてを託して行くという親の考えから、ご養子さんを迎え吉井家を盛り立てようとなさいますが、お宗祖様は大学を出た方と結婚したいという願望をお持ちで、親の考えと歯車が合わないことから、問題が発生しますが、お宗祖様その問題を乗り越えつつ、自分の将来に真剣に考えなくてはならないということを痛感してくるわけでございます。
そのようなときに、和裁の習得が嫁の作法と考えられ、花嫁修業として裁縫所似通ったことが不思議な出合いにつながって行きます。通っている裁縫所で、着物を後ろ前逆に着て、「黒染めの着物の裾を縫いたくて、愛しき人の姿見たさに」という呪文を唱えると将来の伴侶となる方と夢で会えるおまじないを教えてもらいます。18才の娘さんは興味のある話ですから、皆さん教えられた通りにして寝ようといくことになり、お宗祖様も実行されましたら、お宗祖様の夢の中に智祥様が現れたそうです。お宗祖様が働きにまた行儀見習いにでられず地元で過ごされていたならこの方が、大師堂の智祥様だと分かるのですが、お宗祖様は始めてみる智祥様の顔でした。数日たったある日、飯貝から上市に通じます桜橋で、裁縫所の仲間と渡っているときに向こうから歩いてくる智祥様に合われます。清子ちゃんどうしたの、あの人は大師堂の智祥さんといい今弘法と言われているお坊さんであるとこと知ります。
お二人の知り合いである吉井ケイさんのご縁で縁談がまとまり、ご結婚にされることになります。

3 智祥様の生い立ち(1)

1) お宗祖様の管長様(お言葉集成2集39「苦難の後に光明がある」)
『(管長様は)この、教育のない、何も知らない私を、ここまで育て上げ、引っ張り上げて下さり、文句のひとつもいわずに、手となり足となって下さいました。本当に夫というのももったいないくらいでございます。生きた大師様にお使えしているような気分ですごしております。まったく、私の光でなく、管長様のありがたい大きな光であるのです。皆様も、そう思っていただきたいのでございます。』
夫婦円満これが繁盛とお宗祖様も仰っていますが、このお宗祖様の管長様への思いから、感じさせていただくことができるのではないかと思います。管長様でないと、智祥様でないと、と言うところが、随所に出てくるわけでございますが、昭和14年に宗教法人法が施行され、その法律の中で、加持祈祷を行うものは資格を持たなくては行ってはならないと定められます。
従って、お宗祖様は資格と取らなくては大勢の人を救って行くということができないことになります。
受験資格も旧制中学校を卒業したものかそれと同等の資格を持った者となっています。いかにお宗祖様でも小学校を満足に卒業していないので、受験資格がないと、合格するはずがないとあきらめておられるときに、その資格を取らなくては大勢の人を救って行かないよと諭され、ワシも勉強するから一緒に勉強しようと励まされて受験勉強が始まります。第1世管長様は十輪寺住職として職務があり、お宗祖様はご神示という人助けをされていました。
普通であれば、疲れているから寝よう、明日にしようとだんだんくじけてしまうことになるのでしょうが、お2人は2人3脚の勉強の時間を過ごされて行くのでございます。そして70名の受験者の中からたった2名が合格しその中にお宗祖様が入っておられるのです。これで加持祈祷により人を救う資格を取得されますが、第1世管長様というお方がおられなければ、無理ではなかったかなと思うわけでございます。お2人の姿を見て、お互いを思いやり、お互いが共通の思いを持って進んまれることを思いますとお宗祖様の伴侶は第1世管長様で良かったなと思うのであります。
お2人のご結婚はご本尊さまのお働きであり、ご本尊さまの導きに従ってお2人が結ばれたのでしょう。

2) 生家
第1世管長様がお生まれになったのは和歌山県海草群木の本村(現、和歌山市木ノ本)で、西本市太郎、母西本こぶんさんです。誕生は明治33年(1900年)5月31日で、幼名正信です。西本家の5男として誕生されます。
長男は源市さんをいうお方で、器用な方で農家ですが今の造園業の技術をお持ちで、この技術を磨くために渡米されますが、米国で亡くなります。
西本家の跡継ぎは次男の源次郎さんになります。三男の三郎さんは和歌山の南家養子に行かれます。三郎さんは師範学校に行かれます。娘さんが大和本部と称しいていましたときに、奉仕でお運びの受付をしてくださっていました。三郎さんは教職の道を歩まれ、智弁和歌山校ができましたときに事務長さんをやっていただきました。4男の義雄さんは、かつらぎ町の嶋田家に養子に行かれます。長女は6番目の清水(きよみ)さんです。
昔は、家を継ぐ方が父から資産を譲り受け、後の方は家を出る。養子に行くことになっていたのですね。第1世管長もいずれは西本家をでなくてはならない立場にあったのです。

3) 仏門の入る
第1世管長様は8才でお寺の養子になられます。今でしたら子供の遊び場所は沢山ございますが、当時は遊び場所は、刈り入れの終わった田圃など田畑でした。その中で、汽車が走るの見る子供たちには黒い煙を吐いて走る雄大な姿の汽車が憧れの的となります。汽車がきたといいますと田圃の道をみんなで走り追いかけました。この様なときにお寺の養子の話が出てきます。
第1世管長様の写真集には、管長様がお父様に宛てた手紙がありますが、文字も内容もしっかりした手紙です。やはり父への思いと立派なお坊さんになる決心が伺えます。
養子に行く前の晩はお母さんの心づくしの数が沢山ある夕食を作られます。みんなお食べ、向こうに行くときに汽車に乗れる。家では毎日は白米のご飯は口に入らないが3度3度のご飯は白いお米のご飯が食べられると言う話を聞かされます。また管長様は何時でも実家に帰ってこれると思っておられましたので、汽車に乗れることと白いご飯が食べられることで、頭が一杯になったようです。今では1時間ほどで和歌山から五條にはこれますが、当時は半日仕事であったようです。
管長様は汽車に乗ると座っているだけで、外の景色が流れて行きますので、心をわくわくさせながら汽車に乗っておられたようです。
お父さんはあちらに養子に行ったら、住職さんをお父さんと呼ぶのやでなどと教育されたようですが、外の景色に見とれる管長様の耳には届かなかったようです。
そうこうして、養子先の西金寺に到着しますが、養子先が十輪寺に変わったと告げられます。半日かけて出てきた先で西も東も分からないのに養子先は十輪寺だといわれますが。この時のお父さんはどうだったのでしょうかね。ハイ分かりましたといって十輪寺に向かわれたのでしょうね。
そして奈良県宇智郡野原村(現 奈良県五條市野原西)真言宗末寺・十輪寺
の住職の直木純祥師の養子として弟子入りすることになります。
そして、お父さんは後ろ髪を引かれる思いで別れたのではないかなと思います。管長様の行く末を案じてご両親は毎日を過ごされたと思います。一方管長様は、十輪寺では、今までの生活が一変します。朝早く起きだし、まこと行をし、お勤めをしてお食事をいただきます。学校に行きます。学校が終わるとお経の練習が待っています。そして夕食をいただき、早くお休みをする生活です。十輪寺の直木純祥師というお方は、実相に厳しいお方であったといわれています。お経とかお坊さんとしての所作、歩き方ひとつから指導されたと聞いています。大変厳しいお方の下で、弟子として修行されますが、1番困ったのはお経だそうです。当時お坊さんの経本には振り仮名がございません。8才の子供が振り仮名のない読めないお経本ですから結果口伝になります。般若心経、観音経、理趣経と沢山覚えて行くことになりますが、1番大変だったのは理趣経だったそうです。読み方が外の経本を違うのです。清浄をしょうじょうと読まずにせいせいと読みます。
この様な苦労の中、わしは立派な坊さんになるのやと決意し、高野山旧制中学林に進んで行きます。当時はお坊さんになるための学校でしたので、一般教養科目に加えて専門的なお経の科目がありました。直木純祥師の修行でどの経典を出されても困ることがなかったそうです。これでつらい日々の思い出も修行があればこそと感謝に変わって行くのです。修行当時は辛いことでも後で思えば肥やしとなって我が身を育て成長させていたのですね。
しかし、ここに至るまでは、また心が決まるまでは、子供心には何も分からず、汽車に乗れる。白いご飯が食べられると言うことに騙されててお寺に養子に来たと言う思いが強く、お坊さんになること自体に信念がございません。辛いこと、厳しいことがあれば、家に帰りたいと思うのもでございます。

4) 十輪寺の縁記
養子先の十輪寺は不思議にも弁天様とご縁のある寺でした。これらを考えますと第1世管長様を引き寄せ十輪寺に養子に行かせたのもご本尊さまのお計らいがあったように思うのです。
『十輪寺(杖桜山密乗院(じょうおうざんみつじょういん)十輪寺)はかって、西大寺と呼ばれていました。この西大寺は8世紀前半(奈良時代中頃)に、行基菩薩が創建したものであると寺伝にあります。
十輪寺のご本尊は、地蔵菩薩です。寺の記録によると、空海が吉野からの道中、杖として使っていた吉野山の桜の杖をこの地に挿したところから「杖桜山」の山号がついたとあります。寺の紋章も桜です。総本山如意寺西角にある地蔵菩薩は「杖桜地蔵」と言われ吉野山との関係を今に残しています。
空海はこの地で7日7夜、本尊地蔵菩薩に祈願しました。それは大和に500の井戸を掘る祈願でした。その500のうちの最初がここ十輪寺の井戸です。最後の500目が、法隆寺近くの五百井(いおい)の井戸であると言われています。十輪寺は古くから水に縁のある寺なのです。「野原十輪寺文書」によると、元禄6年(1693年)に西大寺を十輪寺と改名したとあります。
本堂奥の位牌堂には、元禄4年(1691年)銘の位牌を始め野原代官であった岡松家の位牌数基が納められています。岡松代官は、十輪寺の庫裡を建立し寄進しました。
この由緒ある十輪寺の15代住職が直木純祥師でした。』
私達のご本尊さまと縁の深い行基菩薩様と弘法大師とご縁のある十輪寺です。私達のお宗祖様と結婚される第1世管長様を十輪寺に導かれたのもご本尊さまであろうと思います。これは管長様が弁天様に守護されながら、お宗祖様と結婚させるために苦行をお与えになったのでしょうが、有り難いことであると思わせていただいています。

by nohara4241 | 2008-07-08 13:00 | 法話宗祖伝