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20年水の章6講法話

20年6月22日(日) 水の章6講第1章⑶ 森本祥友教使

(編集項目:ブログ者)
1 水の章第6講第1章(3)テキスト朗読
2 溜まりたる水は腐り水、昨日の水は、今日の水に非ず。水は新しきが命なり。(7)
⑴ 溜まりたる水
⑵ 上から下にはなれない溜まり水は腐り水です。
⑶ 昨日の水は、今日の水に非ず。水は新しきが命なり。
⑷ 船に積んでいる水は溜まり水ではないのか
⑸ 御神池お水替え祭のお池の水
3 まごころとは一度(ひとたび)のことに非ず。幾度となく続けるものなり。(8)
⑴ 何度も何度もさせて頂く
⑵ 続けさせていただいていることが有り難い
4 切れぬから流れと言うなり、まことは切れるものに非ず。切れれば福徳切れるなり。(9)
⑴ 自分以外は上
⑵ キセキ(喜積)
※ 法話の最後で、マイクが故障に肉声になりましたので、完全ではありません。




1 水の章第6講第1章(3)テキスト朗読
○ 溜まりたる水は腐り水、昨日の水は、今日の水に非ず。水は新しきが命なり。(7)
○ まごころとは一度(ひとたび)のことに非ず。幾度となく続けるものなり。(8)
○ 切れぬから流れと言うなり、まことは切れるものに非ず。切れれば福徳切れるなり。(9)
水の章をズーッと学んで頂いて、この講も真心がすべてであります。「真心を常に忘るべからず」はこの第1章テーマです。
真心が無くしてこれから後に続く、五行のお諭しが理解できません。大事な部分なのです。第1章の(1)から学んで頂いております通り、真心とはどんな事よといいますと、水の流れを使って教えて頂いておりますとおり、水は、上から下へ流れています。
これは昔も今も変わらないのであります。低い位置へと流れて行くのが水であります。この水の心うぃかにして自分の心にするかということです。その部分を学んで頂いております。
何故そういうことかといいますと、水は、方向性を持っています。一方の方向にしか流れないということです。それを上から下へ流れるという方向です。下から上へ流れるということはないのです。低い位置にということです。それを学んで頂いて今日の6講に来たのです。

2 溜まりたる水は腐り水、昨日の水は、今日の水に非ず。水は新しきが命なり。(7)

⑴ 溜まりたる水
溜まりたる水とはどんなものでしょう。上から下へということですから、上は祖神(みおや以下同じ)の位置です。下は私たちです。上は「無限の上」です。だから、下も「無限の下」です。そして祖神からは「慈愛」が下に流れています。既に学んで頂いておりますからお分かりだと思いますが、今一度この事を復習に意味からもお話しします。起源なき起源とは時空を超えたお話ですね。時空とは時の空と書くのです。現在は3次元だといわれています。その次元を超えて行くのです。超えるための方法はただ1つです。私たちは何時も低い心でコツコツとひたすらに努め、素直さ一筋に生きるということです。それよりほかに道はないということをお示し頂いております。
このご本尊さまから我々にいつも流れてくる「慈愛」を、我々は有り難いという感謝で受けとめられるかということです。感謝がなかったら、願うだけですね。
朝起きて今日が始まったと捉えている人。健康で今日を迎えることが出来た有り難いなと捉える人。生かして頂いている。生命をいただいている。有り難いという心が大事ですね。有り難いということは感謝です。祖神から流れてくる慈愛と有り難いと感謝で受けとめると祖神と私たちの間に絆が生まれるのです。絆とは糸偏に半と書きます。
ご本尊さまから流れてくる慈愛を有り難いという気持ちを持ってさせて頂くから、絆が生まれるのです。最初は細い細い糸のような絆です。それをしっかり信仰を深めることによって、いつも守って頂く、お陰を頂く、因縁を解いて頂くためには絆を太くしなければなりません。真心を持って、いつも素直な気持ちで、生活させて頂くのです。毎日が真心の行です。だからどんなことを頂いてもすべて受け入れられるかという行です。真心を常に忘れたらいかんということですね。真心を持っているということはすべて受け入れて行くということです。

⑵ 上から下にはなれない溜まり水は腐り水です。
上から下にはなれない溜まり水は腐り水です。流れが出来てない。
自分で出来てるよと思っても出来てないのです。水が溜まった時は病気事情を生むといわれています。病気になったということは自分で病気を作っているのです。私も何度も大きな病気をしました。入院しましたけれど救われました。助けて頂きました。何させてもらおうと分かってねと言われたのではないかと思ったのです。平成18年4月19日、急性心筋梗塞で救急車で運ばれて、一刻を争うと言うことで手術を受けました。手術室では心臓は停止していました。私たちの身体の中に血液が流れて循環しています。その流れが止まったら、どうなるのか身を以て体験させて頂いたのです。だから自分だけで生きていたら、
同僚は森本さんは何時も、自分の身体を張って、信仰を学んでいるのやなと言われます。家内と娘は手術室の前でお父さん死んだらどうしょうかと葬式の心配をしていたようです。しかし、皆様方・同僚の有り難いお祈りによって救われました。生命をいただきました。それはみんなの祈りで頂いた生命であります。だから上から頂いた生命だなと実感させて頂いていります。
流れは止まったら腐ると書いてありますが、私の場合はその流れを自分の血液に置き換えましたら、血液の流れが止まったことは心臓が止まったことです。命ありものは終わりなのです。流れない水を溜まりたる水といいますが、私の例に当てはめて、腐り水より悪い生命が終わることを考えて頂きたいと思います。
毎日毎日上からの生かされているという慈愛を頂いているのです。私たちはそれをどのように受けとめているかが大事です。
先ほどから同じ事を繰り返していますが、有り難う、有り難いという気持ちが心の中になかったら、通じませんから上からの慈愛に結びついて行かないのです。
五行のお諭しの真心、慈悲、善根、感謝、不平不満の相関関係は、真心を中心に考えて頂きたいと思います。

⑶ 昨日の水は、今日の水に非ず。水は新しきが命なり。

宗祖さまが御親教に行かれましでね。いった先でご分身お前に座った。ここのご分身さん喉渇かしているわと仰ったそうです。これは実話です。
だから毎日毎日ご分身(お御影しかお持ちでない方はお御影です)に、その日使う1番最初の水をお供え頂きたいのです。お水を替えずに放置していますと新しい水ではありませんから腐り水ですね。ご本尊さまは頂かれません。毎日替えることでお供えの水は新鮮さを保っているのです。
水を替えることを忘れたがみんなやってるからいいじゃんかではだめですね。器に水があるからいいのではないのです。毎日お供えの器の水は取り変えてください。
それがご本尊さまに対する毎日のお給仕です。

⑷ 船に積んでいる水は溜まり水ではないのか

私はこの溜まった水ということでね。船の水のことを思います。船が海の上で航海している時は、船内の水を入れ替えることが出来ません。船にはバランスをとるために船底に水を溜めているそうです。その溜めている水を飲み水にするのだそうです。船が何日航海するか分かりませんが、私は航海している時は溜まった水の状態ではないかと思うのです。船が航海している間、波で船が揺れます。ピッチング、ローリングですね。すると溜まっている水も波立ちます。船内の水は溜まっているのですが動いているのです。だから船内の水は腐らないそうです。
私は九州からフェリーで帰ってきたことがあるのです。夜お風呂に行きました。そのお風呂も波立っていました。船の中もお風呂湯もピチャピチャいっています。お風呂のお湯で船の水が動いていることを体験しました。
でも、船が港に長い間停泊した時は、水は腐るので入れ替えるそうです。

⑸ 御神池お水替え祭のお池の水

御神池のお水を頂いて帰って、1年保管していたとします。お池の水は腐りません。不純物がありますのでそれらは沈殿していますが、水自体は腐っていません。これはね。1つ忘れないで頂きたいのです。ペットボトルに入れて、毎日振ってもいないのになんで腐らないのだろうかと思われるでしょう。御神池の水は例外です。この御神池の水はみんな様方の毎日のお祈りが詰まっているからです。
通常は溜まった水は腐り水であり、この様な状態になると病気事情が起きて来るというわけです。この古くなった水は、私たちの生命も替えてしまうということです。神様からの慈愛の流れが止まったら私のように心臓が止まるのです。しかし有り難いことにこのように生かして頂き、信仰を学ばして頂くことをこれのご本尊さまのご縁かなと思っています。

3 まごころとは一度(ひとたび)のことに非ず。幾度となく続けるものなり。(8)

⑴ 何度も何度もさせて頂く
有り難い有り難いで過ごし、お陰をいただいた。色んな行をしてお陰をいただいた。以前にこれだけしてある。以前にこれだけさせてもらった。そういうことを良く耳にします。お運びも昔していたのやけどなと聞きますが昔は昔であります。今は今です。上からの流れは休憩がありません。
だから昔しとったということは、昔のままとまっているのですね。何でそんなことせんとならんのよと不足を言ってしまう。背を向けることになるのです。これは福徳の本流から飛び出してしますと言うことです。
私たちの世界ではああしたらこうしてくれるだろうという考えがあるので、必ず見返りを求めてしまいますね。見返りを期待するからやったことの成果が気になるということになります。そうではないのですね。させて頂こうという気持ちにならなければいけないということです。
この真心を持って、何度もお世話をさせて頂く、私は最近この病気をしてから、生命をいただいたのだから、何かさせて頂こう、させて頂けることを探していましたら、乳ガンで元気のない方のお出会いさせてもらって、お世話をさせてもらいました。そしてその人が良い方向に向いて、善い結果が生まれました。
そうしたら、また次の人が難病を抱えているのです。また聞かせてもらうのです。その方も同じ悩みです。その方も信仰しているのにと思っています。その部分を私もこのようにして乗り越えましたよ。今もお祈りは一生懸命続けさせて頂いております。そういう話をさせてもらっています。どの程度分かってくらたかなと思っていましたら、その方の奥さんにその後お会いしまして、うちの主人は、恥ずかしいはないご分身に1度も手を合わせてお祈りをしたことがないのです。奥さんがしっかり祈ることを言いますと渋々奥さんお後ろに座って、早く頼むよというようなお祈りだったそうです。それが毎日お勤めをするように変わったそうです。
管長様のお受け取りを頂いて、お薬も飲んでおります。お祈りとお薬とで一生懸命になっていただくと必ず、救って頂けるのです。

⑵ 続けさせていただいていることが有り難い
上から流れてくるものに、有り難いなと受けとめさせて頂く、その心が出来なかったら、なかなか救って頂けないのです。だから、今日も生かして頂ける。お医者さんに行っていても、病気の気は心なのです。心というものは信仰でしか治すことが出来ないのです。
治さないといけない心は素直でない状態の心なのです。その奥さんから聞かせて頂いた通り、一緒にお勤めしようよといってもなかなかできなかったというのは素直でないからです。ご本尊さまは素直な心を待っておられるのです。真心とは素直な心なのです。その素直な心にはご本尊さまから有り難いものを流して頂けるのです。
そして私はそう良かったな。その素直な心を今後も続けてよとお願いしました。その内にね。もっとよいことを聞かせて頂けるのではないかと思うのですが。とにかくある人をお世話させて頂いたのですが、ご本尊さま・宗祖さまがこの人のお世話をしてよと私に与えてくださる行だと思っています。1つの行が終わりますと、次の行が与えられます。私も何があってもさせてもらおうと思うから与えられるのでしょうね。こんな事は止めて欲しいな。こんなんこてせにゃならんおんかいなではだめです。
だから、私が相談を受けた方には、必ずその悩みをメモして、その方に上から与えて頂けるものをお祈りさせて頂きます。
それは、朝夕の礼拝経のお勤めをさせて頂きます。夜は、他人のために祈らせて頂きましょうと悩まれている方について、般若心経3巻のお祈りを続けさせて頂いております。
平成18年に、先ほどいいましたように心筋梗塞になりまして、来年の3月の16日で1111日になります。
1日10卷で11110巻になります。この数字に合わせるつもりでやってはいません。出来なかったになどを省きますとその数字になるのです。しかし先のことですから、今のところこの数字通りになるかどうかは分かりません。この数字になるということは何かお知らせなのかなと想像しています。1が並びますから1から出直せということかも知れません。
何はともあれ、続けさせていただくということが有り難いなあと実感させて頂いているのです。

4 切れぬから流れと言うなり、まことは切れるものに非ず。切れれば福徳切れるなり。(9)

⑴ 自分以外は上

弁天宗では自分以外は上と受け取るように教えられています。他人様のお世話も有り難いなと思ってさせて頂けるのではないかなと思います。
上のまことの流れを遮って、福徳といわれるご褒美を逃がしてしまうのは自分次第ということですね。自分の心
振り返るのです。先ほどから自分を下に置くといっています。
自分を下において上からの流れを感謝で有り難いと受け取れば、ご本尊さまからこの人をお世話して上げてよというお言葉が聞こえてくると思います。不思議なことを感じて頂けると思います。
自分ではこんなことできないのになと思うのに出来ていることはありませんか。お宗祖様の言葉ですが、不思議を不思議と思わないものは、不思議は起こらないそうです。
不思議とは言葉の通り不思議なことです。
良いことがあった有り難いな。今日もお世話をさせて頂いた有り難いなと思う。毎日何かにつけ有り難いなと思わせて頂くことが不思議なことです。
朝起きで目が開いていることは1つの不思議なのです。その不思議を、不思議と思わないものには不思議は起こらないのです。

⑵ キセキ(喜積)
毎日、不思議を有り難いという気持ちを持って生活して頂くと、この有り難いということは私たちの喜びです。この喜びをしっかり積み立てて頂きたいのです。喜びを積ませていただくと、上からなお流れを切るということは決してないと思います。私たちは無限の下に位置しますので、毎日有り難いなと喜びを積み重ねて頂く。不思議を実感して頂いて積み重ねて行くのです。喜びをしっかり積み重ねて頂きましたら、何かあった時はご本尊さまが、そっくりそのまま神に捧げた真心の功徳を与えてくださるといわれています。この喜びを積むという字はキセキ(喜積=奇蹟)と読むのです。喜びを積むからキセキが頂けるのです。
その人が不思議を不思議と思って生活をして行くこととは、有り難い有り難いと思って生活して行くことです。ご分身の前で有り難いと100反唱えてください。脳があなたの心に有り難いという感謝の心を植え付けるのです。私は有り難いと何でも思う生活をさせて頂いています。
あなたがああだからこうだからという理屈ではなくてですね。有り難いと感謝する心を自分のものにして頂きたいと思うのです。
(マイクが故障し、以後、肉声になりましたのでここまでです)
by nohara4241 | 2008-07-01 16:12 | 法話水の章