人気ブログランキング | 話題のタグを見る

18年水の章4講法話

18年5月7日(日)水の章4講第1章(1) 小竹祥善講師法話
(項目:ブログ者記)
1 水の章についての概要の確認
2 水は上から下に流れるものにして下から上へは流れざるものなり。(1)
⑴ 水は上から下にながれ、下から上へは流れない。
3 流れる水の姿は常に素直なり。(2)
⑴ 水の姿は素直
⑵ 幸せになるポイント
⑶ 素直な心とは
⑷ 素直を判断する方法
⑸ 三重県志摩市の信者さんの話
4 流れは続けり、切れれば流れと言わざるなり。(3)
5 本日の真心の3つのパターン




1 水の章についての概要の確認

水の章の目標は、ご本尊様の水の心を学ぶということです。
昭和9年の天啓の際に、辯天様は、宗祖様に「低きに流れ、低きにしみとおるのが水じゃ。水の心を心とせよ。水の心あるところ、辯才天は、常にそなたとともにあって、現世苦行を滅するであろう。」とおっしゃられました。水の心を学ぶとは、私達は日々色んな出会いをします。その出会いに対して受け止め方が大きくは2つあります。
1つは、出会いに対して自己中心になって受け止めて行く、好き嫌いをいう感情が中心となって受け止めて行きます。又自分の損得、自分の利害、自分の都合といった自分中心の受け止め方です。2つは、これではなく、起こってきたこと・出会いは、どんなことであっても、ご本尊様のお計らいであると学ぶこと・悟ることが水の章の勉強であり、理解です。表面上の出来事の中には、好き嫌い・損得・利害そして都合といったものが渦巻いていますから一見したらそう見えるのですが、よーく見ますとその中にご本尊様のお計らいがあるのです。このご本尊様のお計らいを見つけることができる心を育てる。心の修行することを学ぶのです。この点をよく理解して下さい。この計らいを見つけることができる心を育てると「自分本来の姿が分かる。」と思います。出会いの中に入っている出会いの本当の意味が分かります。起こって来た出会いより大事なことがあるからです。私達のその出会いをもたらした方がいらっしゃるのです。Aという出会いがありました時に、Aを与えた方がおられます。深い意味があって私達にAを出会わせて下さったのです。私達は出会いましたAである病気などをこれはいやなどと申しますがAである病気を通してでも助けようとするご本尊様がいらっしゃるのです。起こってきた表面上の病気だけを診ていては駄目です。病気をもたらされたお方の深い意味を私達は理解しないとならないのです。出会いより、その方の御心を学ぶ、理解する、知ることが大事です。水の章を学ぶことによりこれを理解できるようになります。
もう1つのことは、そうゆうふうにして心を磨いて行きますと、例えば病気をつまらないものだ、困ったと好き嫌い・損得・利害そして都合といったもので判断してきましたがよくよく考えて見ますと自分の周囲にはつまらないものではなく、病気がすばらしいご本尊様からの慈悲であると分かった。病気でさえも価値があると分かった。怪我がすばらしいことだと分かった。何でこんないやなやつと出会わなくてはならないのかと思っていたら、そいつが自分に大事なことを教えてくれたというふうに、価値のあるのものに取り囲まれている。又は価値のあるものに囲まれている自分であることが分かって参ります。これは、私達の心が育ってきたからです。これによりご本尊様が私達のために色んなことを配在されておられる御心が分かってきますと生きていることそのままが救われているのだなと実感できます。あれが欲しいこれが足らない、少ないといった世界はありません。水の心を学ぶことにより自分を産んでもらって、今ここにいることだけで感謝により胸が詰まってくるそんな世界に誘って頂けます。他の言葉で言いますと、ご本尊様のお働きにより何時でも守られているということです。そのことが味わいながら本当に実感できましたら、信者訓戒の「22 ご本尊様は何時でも何処でもあなたの背中についておられます。」を体験できたらすばらしい信仰生活が送れると私は思います。三重県の志摩市の信者さんで毎日お勤めをする時に「ご本尊様お宗祖様何時も側にいて下さってありがとうございますと3回唱えると言っておられました。自分お祈りの言葉を持っておられました。その方は何時も守られていることを実感できる世界におられるのです。そういう世界に導いていただけるのが水のようを学ぶ目標です。起こってきたことが都合が悪かろうが、雨が降っていようが、これで良いという世界に私達の心1つで生きることができるのです。自分の本当の姿であるご本尊様に守られている姿を体験できる私達に導いて貰えるのが水の章です。このようなことを目標に水の章を学んで行きたいなと思っています。

2 水は上から下に流れるものにして下から上へは流れざるものなり。(1)

⑴ 水は上から下にながれ、下から上へは流れない。
これは流れるがポイントです。水は流れるのですが流れる方向が上から下と決まっているのです。方向は一方通行で、高いところから低いところに流れます。流れると言うことはきれいですから清水を保つということになります。止まるとよどみ汚くなります。これが私達の幸せになる方法を当てはめ行きます。流れると言うことは動くと言うことで、低い方向に動くと言うことです。幸せになるには幸せの流れが私達の方に流れてくるようにまず私達の心を低くすることです。ここでは相手ではなく自分の心を低くすることを学びます。このように水の流れや性質と私達の幸せ作りを重ねて行くのが水の章です。流れると言うことは私達が動くということ、低い方に流れる水の流れのように、相手のこと・相手の心や起こってきた出来事のことを言わないで、ただ自分の心を低い方に動かすのですそうすると幸せに繋がりますよと教えています。ここでは、上下ができてきます。自分心を低くする。これは何時も自分の位置を下に置き、相手を上に置くこととです。これが幸せを生み出してゆく基本形です。水の章では、自分以外の方誰でも、年齢、役は関係なく、子供さんでも上です。自分が何時も下、そう思って下さい。幸せという流れが自分に流れてくるのは自分を低くする以外には方法はないと教えています。相手やものに対してそういう風な接し方が幸せを産みますよと教えているのが水の章です。心を低くするとは難しいので、私達の色んな心の状態で考えたり理解されると良いと思います。
心を低くするとは、何時も言葉の中に感謝を保つことです。お陰様でと言う言葉を使うことです。私の力でできたでは感謝が出てきません。皆さんの力でできたから感謝できます。何時も心を謙虚にすることです。何かあったら他人を責めず、自分の足らないところを反省することです。どんなところからでも学ぼうとすることです。知っている・前に聞いた話というのではなく、又聞かしてもらおう・きっと何か足らないことがあるだろうと反省する。起こってきた事柄を受け入れることができないかもしれませんが、ます受け入れる心を持つことです。
すべての命を大事にする。いましめには、自分の心を戒める戒とみんなで決めたルールである律があります。十善戒の戒とは自分の心の中で心を戒めるものです。法律では紙1枚を破っても罰せられることはありませんが、1枚の紙の命を大事にしないという戒の世界ではいけないことです。すべての生命を大切にする心は自分が皆様のおかげで生きているのだというところに通じますから低い心であると思っています。
何かする時にはさせて頂くという心があります。これは謙虚な心だと思います。以上のような心の状態に自分の心を持っていきますと間違いなく幸せになって行きます。水が流れて清水を保つように、私達の流れると言うことは心を低くすると幸せが流れてきますよというのがこの1番の言葉です。

3 流れる水の姿は常に素直なり。(2)

⑴ 水の姿は素直
流れる水の姿は素直であるということですが、表現がややこしいと思います。私は素直だから流れることができると考えます。水は液体の場合は流れますが氷になると流れません。形を持つと流れないと言うことです。
流れるためには、形を作ると流れない。こうだと決めつけると流れない。つまり心が謙虚になって行かないのです。例えばみんなで物事を実行しようと検討している時に、昔からこうなのだと決めつけると形を作るとそこからは新しいものは生まれませんし、検討も前に進みません。

⑵ 幸せになるポイント
幸せを生み出す素直な心がポイントです。形を作る。決めつける。こだわる心になりますと私達の心は謙虚になりにくいのです。このように理解して下さい。亡くなられたある男性の信者さんですが、「曲がったことが嫌いなんだと」何かあるとおっしゃっていました。余り言われるので腹が立って、曲がっているとか曲がっていないとかは何が基準ですか聞いたのです。私だと言われました。自分で決めておられるのです。これは家族にはよいでしょうが世間では通らない事でしょう。ですからこういう心が幸せを生み出せないのだと思って下さい。

⑶ 素直な心とは
①水はどんな相手が現れても相手に合わせています。代表的な言葉ですが水は方円の器に従うという言葉があります。どんな器にも水は盛ることができるし入って行くということです。相手に合わせています。これは自分が変わるということです。自分が変われば相手も変わります。相手に合わせられないのは、自分が形を作る、決めつけるからです。②すべての出会いを受け入れる。色んなことが起きてきます。出会いや出来事には表面あるものとその奥にあるものが私達には違っていることが見えます。私は出会いは因縁の働きであると思っています。
別の言葉では、ご本尊様のお計らいだろうと思います。ご本尊様は出会いを通して色んな事を教えて下さっています。辯天宗は起こってきた出会いや事実の中に何時もご本尊様が私たちにメッセージを送っていらっしゃる。それを受け止めるためには、自分の都合で、好き嫌いで受ける受けないを決めてはならないのです。すべての出会いを受け入れる心が素直な心であると私は思っています。

⑷ 素直を判断する方法
自分の心が素直であるかどうか判断する一番いい方法は、理屈ということと信心という言葉です。これはどう違うかといいますと中心が違うのです。よりどころが違います。理屈は、自己が中心です。信心は、ご本尊様が中心です。ですから何を中心としているかで区別できるのです。理屈では、気に入らなければ「いいえ」といいますが、信心では気に入らなくても「ハイ」といいます。拝意はハイと読むのだそうです。智辯保育園におられた桜井先生がおっしゃいました。ご本尊様がおられると拝む心でハイというのが出会いの時にあるべき心です。皆様が日常の生活でイイエが多いか、ハイが多いかで素直さが分かります。この比率は、7:3、8:2,9:1でも駄目です。都合がよい時ではなくいかなる場合でも10:0でなければいけません。このようにして、今自分お心がどうゆう位置にあるかを知ることが大事だと思います。イイエが多いなと反省して下さい。拝意(ハイ)には条件が2つあります。1つ スピードです。何か起きた時に、頼まれた時に間髪を入れずハイというスピードです。考える時間があっては駄目です。2つは1度だけです。ハイハイでは駄目です。出来事の奥に隠れているご本尊様を見つけることのできる信仰をしなければならないと思います。神と出会える自分でなければならないと思います。

⑸ 三重県志摩市の信者さんの話
如意寺から3時間半かかります。地震祭に行きました。77歳の方ですが、月に4回、往復7時間かけて如意寺に足運びをされています。この方が「ご本尊様お宗祖様何時も側にいて下さってありがとうございます」と3回唱える方です。この方の近所の奥さんが中学1年の娘さんとが助けて頂きたいとご相談に来られました。お嬢さんが感情的になりカーとなってお母さんを殴るのだそうです。何故なのだろうかと自宅の辯天様にも如意寺来てはでもお百度を踏み、ご本尊様お宗祖様この原因を私に教えて下さい。どうしてこうなったのでしょうと祈られたそうです。ある日その奥さんが阿乗岬の灯台のところに家があるが一度も行ったことがないといわれるので、車で一緒に行ったそうです。何故か途中で車を止め歩いて家に行かれ帰る途中でその奥さんのおばあさんと会われました。そのおばあさんが何時も孫のために世話になり済みませんとお礼を言われ、お茶でもどうぞと誘われ奥さんの実家に寄らせて頂くと仏壇に水子の位牌が一杯あり、これはきっと辯天様がこれが原因だと教えて下さったと悟ったそうです。水子さんがたくさんありますね供養しないといけませんねといいますと、おばあさんがそうですねはははは~と笑い、供養というお気持ちはないように感じられたそうです。これはアカンなあと思い、奥さんに貴方の実家には沢山の水子があり十分供養ができていないようだから貴方が供養したらどうですかと助言し、そうですかと供養を始められたところ暴力がぴたりと止まったそうです。中学は1年遅れたそうですが、高校合格の最初の連絡がその信者さん方に来たそうです。この娘さんは、今2人の子供さんお母親になっています。このような体験が沢山あるそうです。だからお祈りの中に自分の祈りの言葉をお持ちになったのです。私達は毎日出会いを続けていますので、受け入れることのできる心を持つことが大事であると思います。その出会いを自分の感情、利害、損得、都合で受け入れないと本当に大事なことも受け入れることができなくなってしますかもしれません。素直な心とは私達が幸せになるために非常に大事な心であると思います。

4 流れは続けり、切れれば流れと言わざるなり。(3)

ここでは続けることがポイントです。継続は力なりという言葉があります。幾ら低い心でも1回だけでは駄目だということです。何回もできる。日常茶飯事として行えるようにならなくてはなりません。①成就です。成就には落とし穴がります。自分の思い通りになる事を言う成就といいますが、私達には思い通りにならなかったけれど、時間が経つと思い通りにならなくてよかった経験があります。これはご本尊様の思い通りになったのだと思います。ただ時間が経って良かったが分かるまで時間がるために、不平が出ます。これでは駄目です。できるだけ短い時間の中で不平を出さない良かったに繋がる悟りを持つことが大事です。例え成就しなくてもご本尊様は何時も私のために助けて下さると信じてハイと言える心がこの成就の中では大事だと思います。②続けるです。別な言い方では、続いている=時間的つながりです。私達人間は他の方と繋がった状態でここにいるです。仏教的には諸法無我といいます。私だけではない私が存在するには沢山の方々のつながり、助けの中で生きているという考え方です。お米もお百姓さん、精米屋、スーパー、スーパーの店員と多くの方々の手を経て私達は食べることができます。私達は空間的に繋がっているといえます。時間や空間で考えますとみんなが繋がっている事を理解することが大事です。何時の続いている・繋がっているという考え方で判断することが大事であると私は思います。時間は「宙」で、空間は「宇」です。宇宙ということはこれから来ています。この真理の中で私達は活かされていますので、この真理をベースとして又は真理に沿った生き方をすることが大事だと思いました。続いていることは大事ですが、もう一つ続いているということを踏まえた生き方を心がけていないと本当の幸せは来ないのではないかと思いました。

5 本日の真心の3つのパターン

1つは、心を低くするという動きをするとそれが幸せに繋がると申しました、2
つは素直ということを申しました。3つはすばらしい心も続けるということで幸
せが成就するのだと申しました。
by nohara4241 | 2008-05-10 09:34 | 法話水の章