道険しかりし(私の歩いたみち)6

道険しかりし(私の歩いたみち)6

道険しかりし(私の歩いたみち)5の続きです。

(編集項目:ブログ者)
35 想い出は宗祖さま作詞「夜もすがら」の作曲
35 研修科の想い出、目の見えない方
36 研修科の想い出、宗祖さまの真心とお慈悲
37 研修科の想い出、神経を患っている方
38 神経を患っている方の因縁解き
39 研修生いろいろ
40 ご母堂さんと研修生
41 ご母堂さまと私
42 研修生のお世話をする自分を振り返って

道険しかりし(私の歩いたみち)1にリンクしています。




35 想い出は宗祖さま作詞「夜もすがら」の作曲

研修生の世話をしつつ、一方では幾多の歌を作り上げましたが、これは私が詩情豊かだったからでも、歌を詠む暇があったからでも何でもありません。
どうしょうもない魂の捌け口を歌詠みにぶっつけていたに過ぎません。
呻吟の中の雄叫びだったのでしょう。
でも呻吟があったから歌詠みができ、心の発散ができたのですから、苦しみ又良からずということでしょうか。
歌詠みで想い出深かったのは、何といっても「夜もすがら」の作曲でした。
梅木先生が作詞され、三島秀記先生(都南教区大森支部長)が作曲され、日高から歌手を志し上京しておられた日高孝之(こうじ)さんが歌われた尊女慕情が大変好評でした。
やがて振り付けもできました。
私は割りに乗りやすいところがあり、この尊女慕情の歌に刺激され、宗祖さまの「夜もすがら」の歌に何とかして曲をつけたいという衝動に駆られました。
作曲の心得なんか少しもないのに、おこがましくも学校時代に少しピアノをいじったことがあったものですからおうたを口ずさみつつ五線譜に印していきました。
この曲を宗祖さまがとても気に入ってくださり、尊女慕情のレコード化と相俟って「夜もすがら」もということになりました。
でも「夜もすがら」の1番だけではレコードにできません。
2番3番の歌詞が必要になり、宗祖さまのその由を申し上げました。2番は「幾年を座り続けて明け暮れど、信者思えば苦しくもなし」ですが、宗祖さまは何度も何度も「いくとせ」を口ずさまれ、この2番の歌ができたのです。
3番の「集い来し吾子(あこ)の苦しみ身に受けど信者思えば苦しくもなし」の冒頭の「集い来し」を何度も口ずさまれてできたお歌です。
尊女慕情の歌手は日高孝之さんですが、夜もすがらの歌手は、当時29期生の女子の中から7人を選び、毎日毎日皆で「どうぞ宗祖さまのみ心を歌に表現することができますように」とお百度を踏み続け、練習を重ねました。
昭和39年大阪本部の落慶祭典があった年の夏でした。
吹き込みはビクターでした。
王子駅(奈良県)から夜行の大和号に乗ったのは良かったのですが、座席が無く通路に新聞紙を敷いて座り込み、まんじりともせず明け方漸く東京駅に着きました。
その昔宗祖さまが王子駅から大和行の夜行で東京へ良くご巡錫遊ばされましたが、この様な状態の中でのご親教だったのではとしばし宗祖さまのご苦労を偲んだことでした。
ビクターのマイクはその頃アイドル歌手として人気絶頂の橋幸夫さん専属のものと聞かされ、嬉しいやらビビルやらで、それでいて結構自分達が恰も歌手になったような気持ちになり、確か2回NGを出し、3回目でOKがでたと思います。
レコードには弁天宗女子コーラス部と記してくださっているのも面映ゆい気持ちです。
宗祖さまはレコードができると、またまたお喜び下さり、盛んにこの歌を歌わせて頂きました。
そのうちに宗祖さまは「もうあの歌は歌わんといて、聞くと辛くなるから」と仰り、一時中止になったことがあります。
今心静かに歩んだみちを振り返る時、この時のことも想い出深く蘇ってまいります。
素人の身でおこがましことでしたが曲をつけさせていただいてよかったとつくづく思います。
宗祖さまご遷神の午後2時47分にこの曲が両本部で毎日流れますが、このチャイムが鳴り響く限りは、宗祖さまとともに私のこともチョッピリ思い出してくだされば最高です。
この曲ができてから、私はまるで憑きものにでも憑かれたように、宗本部ではこうした歌も必要ではないか。
まあ子供お運びが始まると、躾け、教育のためにこの歌あの歌を作らせていただけばよいのではと無我夢中で没頭いたしました。
手がけ始めますと夜の夜中でも起きだし、あそこの歌詞はこのようにすればよいのではと訂正し、又乗車中でも歌詞がヒョコッと浮かび、行き詰まっていたところがスーッと前に進んでいきました。
ご本尊さまは音楽の神様ですから、いろんな歌が必要だったと思います。
私という至らぬ者を通して、次から次へと作らさせて下さったのでしょう。
本当に有り難い日々でした。

35 研修科の想い出、目の見えない方

研修科でもいろんな想い出があります。
既にききょうの法話で紹介いたしましたが、ご神示で広島から来た全然目の見えない女の人がとりわけ印象に強く残っています。
研修科へはいろんな人が来ますが、目の見えない人は初めてでした。
扱い方が分からず、ともかく何から何まで皆でお世話をすることになりました。
日々次々と日課を消化して行かなくてはなりませんから、自分のことだけでも精一杯なのに、朝から晩まで終始面倒を見続けるのはとても努力がいりました。
始めはこの不孝な人のお世話をさせて頂くのも、ご本尊さまの思し召しであろうと得心しつつ皆さんで面倒を見て上げてくださったのですが、当の本人は皆に世話をかけて申し訳ない、済まないなどという心は微塵もなく、当たり前のように思い、事ごとに不足小言の連発です。
急ぐ時などは引く手に力が入ります。
そうすると「私を連れて行くのが嫌だから、そんなに強く引っ張るのでしょ」と文句をいわれる。
又お風呂に行く時慌てて、その人の洗面器を忘れてこられると「知って忘れてくるのでしょ」と又小言なのです。
このように事ごとに世話をかけつつ不足小言をばかり浴びせられますと、得心しつつお世話下さっていましても、堪忍袋の緒が切れていまいとうとうお手上げになったのです。
誰からともなく「研修生だから私たちで面倒を見なくてはならない。
あの人をお籠もりにしてもらえば…。
そうすれば私たち研修生とは関係が無くなり、嫌な思いをしなくても済む」と、こんな声が上がりました。「でも宗祖さまが、ご神示で来るように仰ったのだから、勝手にお籠もりになってもらうのはどうかな。
ともかく、お伺いしてからにしましょう」と私が皆さんを代表して宗祖さまにお出会いしました。

36 研修科の想い出、宗祖さまの真心とお慈悲

宗祖さまは「本来ならば、私がお世話しなければならないのですが、皆さん迷惑をかけて申し訳ありません。
考えてみればあの人は気の毒な人です。
皆さんは一寸停電しただけでも、早う灯がつかないだろうかと待ち遠しく思うでしょう。
そしてその間大変不自由な思いをします。
あの人は一寸停電したときの暗黒の状態で一生を送って行かなくてはならないのです。
それはどんなにか辛く不自由なことでしょうか。
それも途中まで見えていたのに、病気のために俄に全盲になってしまったから、大変なショックでその悲しみは例えようもなく、何度となく命を絶とうとしたのですよ。
それでもまだお母さんがおられた時は、お母さんが至れり尽くせりにしてあげられたので良かったのです。
そのお母さんが亡くなるとお父さんはお母さんのように細かく気配りができない。
それを「私が邪魔なんでしょ」とすっかりひがんでしまって、手に負えなくなってしまったのです。
私が100日の行をすすめたのも、このひがんだ性根を直し素直な心で暮らして行けるようにと思って呼んだのです。
あの人が皆さんのお世話になりつつ、不足小言を言うのは悲しみのもって行場がないから、悲しみのはけ口としてあんなことをいうのです。
だから不足小言はあの人の嘆きの声、悲しみの声なんです。
腹も立つだろうけれど本人の心の中を察し、これからも悪いけれど面倒を見て上げて欲しいのです。
本来ならば私がお世話をしなければならないのに、皆さんに任せきりで申し訳ありません。
今、皆さんに愛想をつかされると、あの人は一生救われません。
この通りお願いですから、よろしくお願いいたします」と深々と頭をお下げになったのです。
その人の非を責めるどころか、どこまでもどこまでも相手の気持ちを思いやり、み手をさしのべられる宗祖さまのお慈悲に、ただただ頭が下がり、暫く頭を上げることができませんでした。
この宗祖さまのお慈悲に比べ何と私たちの心の貧しかったことか。私たちの真心や慈悲はうわべだけだったのです。
目が見えないだけに六感が働き、偽りの心を敏感に受けとめておられたのでしょう。
だから通じていく筈はなかったのです。
それからはお互いに反省し、どんなにいわれようとも宗祖さまのお言葉どおりに、只真心で対していったのです。
でも、相変わらず文句タラタラでしたが、文句が出る間はまだまだ私たちの真心が通じていないのだと反省し、そしてまた、その文句を嘆きの声、悲しみの声と受けとめていったのです。
ところがそのうちに、ボツボツ自分の身の上話をされるようになり、又、私たちの話の輪の中にも入り、冗談の一つもいうようになってこられたのです。
また「目が見えるようになれば有り難いけれど、今目が見えると、これまでやってきた按摩ができなくなり失業してしまって、却って困ってしまう。
目は開かなくていいのです。
私はこの弁天さまで、目が開かない代わりに心の目を開けて頂くことができたのです」ととても晴れやかな顔をされるようになったのです。
こうしてとうとうその方は救われたのです。真心さえ行えばご本尊さまが後押ししてくださるものなのですね。
本人は救われるし、皆の悩みの種はなくなり、心の中で万歳を叫びたいような嬉しい気持ちで一杯でした。
今もこの時のことが忘れられません。
真心とは慈悲とはを深く学ばせて頂いたのです。

37 研修科の想い出、神経を患っている方

又、こんな想い出もあります。
研修科へは毎期といっていいほど、神経の人(?神経を患った人)が来ます。
ある期の時、いくら言って聞かせてもその時は「ハイ」といいますが、その場限りでもう5分も経たぬ間に又同じ事を繰り返す人がいました。
婚期を前にした綺麗なお嬢さんで、なんとかして良くなって頂きたいと、都度相手をするのですがとうとうお守りができなくなり、宗祖さまに「皆さんと一緒に修行できない状態ですから、落ちつかれるまで病院に行ってもらいてはどうでしょうか」とお許しをいただきに行きますと、
平素お優しい宗祖さまが、途端にきびしい表情におなりになって
「することもしてあげんとって、病院へといわんといてください。するだけのことをしてあげてそれでも良くならなければ、その時に言ってきてください」
とピシャリと仰せになりました。
その後「するだけのことをして上げて………」の宗祖さまのこの時のお言葉が、どれほど重く、私の心の中にのしかかってきたことでしょう。
今は神経の病気は現代病の1つくらいになっていますが、医学の世界でも芳しくない不幸な病気です。
何とかして弁天様に助けて頂きたいと研修科を希望されますが、本人が話を聞いて悟り、因縁解きの行に専念してこそ少しでも良くなっていきますが、自分のこともできなくて、皆さんのお世話にならなければいけない状態では、因縁解きどころか因縁の上乗せをしてしましますから、いくら神様のところでも、なかなか思わしく良くならないのです。
この病気は親がまず悟り行をすることが先決問題だと思います。
けれども大抵は研修科に預ければどうにかなるだろうと肩の荷を降ろしてしまわれます。

38 神経を患っている方の因縁解き

神様の場では、丁度神様の慈悲の温もりと法の雨で、作物がどんどん芽をふくように因縁の芽が出っぱなしになり却って悪くなります。
家の因縁ではこの様になってるのだからと、両親が因縁解きの行をしなくてはならないと(悟り)、研修科の行に併せて早朝から起き出し朝勤めにもお詣りする、奉仕もさせて頂く、勿論お運びもさせて頂く…などお子さんのできぬ行を補っていただけば因縁もでっぱなしになることはないのですが。
この行が伴わなくては、却って因縁が出てしくじります。
この因縁解きの行は生涯にわたって行う気持ちを持ってもらって、どうにか解いて頂くことができるほど、因縁の根は深いのです。
研修科では宗祖さまのお慈悲でお呼びになったのだから、何とかして努めますが、ご両親の協力がなければ空回りに終わってします。
宗祖さまの在世中には、時には5人も6人も不幸な人達が来られ、本当に昼も夜も大変なことでした。

39 研修生いろいろ

研修生の中には信仰をしていた人が入ってくることもありますが、親や、支部長さまにすすめられてくる人などは、宗祖さまのことが分からず、気さくなきれいな小母さん位にしか思っていないのです。
だんだんと宗祖さまのことが分かってくるにつけ、就寝後、ご親教先や大阪本部からお帰りになると合図のクラクションが鳴ります。
すると休んでいた研修生が途端に起きだし我勝ちに走り出、片膝をたて合掌してお迎えするようになり、次第に宗祖さまを神様として崇めるようになっていきました。
時にはご神示で「あなたは何回おうどんを食べに出たでしょう」といわれ数えてみてドンピシャリに、今更のように見抜き見通しの宗祖さまのお力の偉大さに恐れおののいたり、消灯後内緒で外に食べに出て、門は閉ざしてあるし「エーイッ」と塀を乗り越え降りたのはよいが、目の前に宗祖さまが立っていらっしゃって悪いことはできぬと身に沁みて分かるなどの裏話があります。
又組に入っている人も時々来ました。そのような人との接触は職務上避けることができず、いやが応でも受け入れて行かなくなくてはなりません。
100日間のお付き合い一体これからどうなるのだろうかとビクビクものでしたが、たまに疲れが溜まり夜など早く休ませて頂くようなことになりますと、いの一番に心配して駆けつけてくれるのがむしろこの人達でした。
義理人情が厚く気がよいのです。
接してみればこの人がどうして親に背き、社会に背き人々から恐れられる組織になんか入ったのだろうかと不思議に思うほどでした。
因縁がそうさせていくのでしょうが、気が良いだけに他から誘われると断り切れず、遂引っ張られて行くのでしょう。
悪にも強いがこれからの人生を善にも強くなった欲しいと本心から願ったものでした。
その後その人達はどうしているだろうかと思い出されます。
「人皆悉く、仏性有り」ということのいみをげんじつに示してくれたのはこの人たちでした。

40 ご母堂さんと研修生

又、ご母堂さんと研修生のことも忘れられません。
良く夕勤めの時は一緒になりました。
お勤めが済んだ後、若い人たちによく「あんた達は今日の日をどんなに思っているか知らないけれど、今日という日は2度と再び戻ってこない。
たった一度っきりの日なんですよ。
だから悔いの無いように1日1日を大切に、精一杯過ごしなはれよ」と言い聞かせてくださったり、また「善根だけはしっかり積みなはれや。
私がいい例です。私は年いってるから、あんたたちの先を見ることはできないけれど、私の言うことに間違いありませんよ」と善根功徳をしっかり積むようにとすすめてくださいました。
このご母堂さんのお言葉は教理の裏付けとして、大変有り難く聞かせて頂いたものです。
ご母堂さんは言葉の功徳を良くお積みになった方で、信者さんたちの誰彼なしに腰を低くして「ようお詣り」とお迎えされました。
私などにもどの程度お役に立っているかどうかわからないのに、何時も私より先に腰を2つ折りにせんばかりにして、慇懃に頭を下げ、「ご苦労様でございます」とまず労をねぎらってくださいました。
こんな私にでも、こんなに言ってくださる。
私は他の方のように難しいことを言ったり、したりできないけれども、私のできることは精一杯させてもらわなくては申し訳ないと、心を弾ませました。
又、研修生だけでなく、不幸だと歎かれる方にも、我が子、我が孫にでも言った聞かせるように一生懸命言って聞かせておられる場面にも幾多出会いました。
又、本堂などの供物も何を持って帰って頂こうかと良く点検なさっていました。

41 ご母堂さまと私

ある時「あんたとこのお父さんお酒のまはるけ」と仰るものですから、つい、「毎晩少々晩酌を楽しんでいます」とお答えしますと、それから私の父がすっかりお酒好きと思ってくださったのでしょうか、時々出合いますと「あんたなー、本堂の東側の廊下に座布団積んでまっしゃろ。あそこにお酒埋めときまっさかいに忘れんと持って帰りなはれや。でないと怪しまれまっさかいにな」と仰る。
行ってみれば本当に座布団の中に、お酒を埋めといてくださっているのです。
この事は私とご母堂さんとの秘め事で、宗祖さまには申し訳ないことでした。
本当に私のような者にもお心をおかけ下さり、堪能させてくださり有り難い思いで一杯でした。
大事にして頂いたことは終生忘れません。
御廟にあるご母堂さんの顕彰碑の碑文の原稿をとの話がありました時には、可愛がって頂いたご母堂さんへのせめてもの恩返しにと、心をこめて作らせて頂きました。
ご母堂さまにもいろいろと学ばせて頂きました。
善根を積めばどの様な結果が得られるかの生き証人として私たちの前に立ちはだかってくださったこと。
又誰に対しても心良くお迎え下さってことがあげられます。
いろいろの悩みを持ってお詣りされる人たちに「ようお詣り」の言葉は、何よりも心を和ませる贈り物でした。
この言葉で私たち宗務員も皆さんを迎え入れなくてはと、私の1つ覚えになり、至らぬ乍らも実行させて頂いています。
自分で考えたり悟ることの苦手な私は、貧婪(どんらん、婪=むさぼる)に「我以外は皆師なり」を生活信条として、善きにつけ悪しきにつけ、生きた学びとさせて頂くよう努めさせていただいています。

42 研修生のお世話をする自分を振り返って

研修生のお世話話からご母堂さまお話に移りましたが、寝るまもなく体をすり減らしての生活に、自分の運命の自覚もないまま、正直言って私は悪いクジを引いたと思っていました。
今のように休日もなく、その他の規則も何もなく、只一条に尽くすことのみの生活でした。
安易な生活であればとても我が家にまつわる深い因縁を解いて頂くことはできなかったでしょうに。
最悪の事件の中での長期にわたる行であったればこそ、少しは因縁を解いて頂くことができたのではなかっただろうか。
これもまた、ご本尊さま宗祖さまのお慈悲だったと感謝しています。
過ぎ去れば辛く、苦しかったことも皆不思議に浄化され、只懐かしく蘇ってきます。
この原稿を書いている平成2年の時点では本部勤めは35年目になりますが、もしあなたは何の為に生まれてきたのかと問われれば、私は研修生の世話をするために生まれてこさせていただいたのでは……という思いがいたします。
それほど重みがありました。研修卒業生は650人余りですが、これらの人たちのお世話、これが私の人生でした。
只日々、前ばかりを向いているのが精一杯で、後と振り向く暇とてなく、人の道を歩むことができず、母は心を残して黄泉に旅立ち申し訳ないことしてしましました。
不器用な私は、もし結婚しておれば両立(研修生のお世話と家事)などとても覚束ないことでした。

道険しかりし(私の歩いたみち)7(終わり)に続きます。
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by nohara4241 | 2008-05-04 15:55 | 講師の回想