19年宗祖伝3講法話

19年5月6日(日)宗祖伝3講 娘時代(1) 岩城祥英講師の法話
(編集項目:ブログ者記)
1 前言
2 連絡
⑴ 4月の行事(少年隊大会)
⑵ 今後の行事
2 2講 御生誕
⑴  出生時の出来事
⑵  スエ様の家出
⑶ 楢井の毘沙門様のお告げ
⑷ 毘沙門様を背負って、死んだつもりで善根を積む
⑸ 吉野神宮の参拝
⑹ 50銭銀貨を地中から掘り出す
3 親の手助け
4 四日市の工場へ
⑴ 父の事業の失敗
⑵ 小学校卒業前の少女の年季奉公
⑶ 初めての正月休みで触れた人の優しさ
⑷ 管長様の触れた人の優しさ
⑸ 第1世管長様のご恩返し
⑹ お宗祖様、第1世管長様のものごとの解決方法
⑺ 宗祖伝で学ぶべきもの




1 前言

目に青葉、山ホトトギスといわれる季節になりました。いい季節でありますので感謝して毎日を過ごしたいといと思います。今日は雨でありますが、感謝する気持ちで今日一日過ごさせていただけばといいなぁと思います。本日もよろしくお願いします。

2 連絡

4月の行事(少年隊大会)
先月は少年隊会が大阪茨木市冥應寺で行われました。少年信者が1500名、でお世話されます付き添いの信者さんなどが1600名強参加いただき、3200名の方が参加していただきました。体験談もありました。大会は終わりましたが、ご家庭で大会参加して、ご宗祖さまのみ教えに、ご先祖様への感謝のお気持ちをお持ちいただきますように思います。祈りを世界に届けようというテーマで行われました。全国から折り鶴が109,900届けられ、ご本尊さまに奉納されました。

⑵ 今後の行事
今月は、宗として大きな行事はありません。よく申しますようにこんな時にこそ、足もとを見直してみて、しっかりとした信仰を一歩一歩踏み出して行く。そんな月にしていただければ、有り難いなと思います。
6月の3日は御廟の清掃まこと行があります。お宗祖様のお家のお掃除ということでございました。紀和地区の教区並びに単立支部が担当になっていますので、どうか大勢の方にお越し頂ければと思っています。0830に御廟前上段にご集合いただいて、異性に始めることになっていますのでどうかよろしくお願いします。あのお掃除でございますので手袋とか帽子、ちょっとした道具をお持ちいただいたなら、用具の片づけ洗濯も量が減りますので有り難いのでございます。どうかよろしくお願いいたします。
7月は御神池お水替え祭、キュウリ加持が行われます。
春季大祭の護摩祈願札は、明日7日から皆様に配布するようになっています。

2 御生誕

⑴ 出生時の出来事
お宗祖さま吉野郡吉野町飯貝というところでお生まれになりました。その御生誕をお祝いしてということで毎年4月1日はご宗祖さま生誕祭が行われています。この明治42年4月1日の様子をもしますと、吉井家の桜の木が毎年10日頃にならないと花を咲かないそうですが、明治42年はお宗祖様の生誕を待っていたかのように、満開になっり、その桜の木だけでなく、庭の草の花も咲き、虫達が沢山出てきたという不思議な出来事があったと産後布団の上からふと庭を覗いたときのご母堂スエ様の話として伝えられています。
夫であります重吉さんにあんた見てみい、あのかどの桜やけど、あれ毎年10日頃にならんと花をつけへんのに、今年なによあれ、この子の誕生を見守るように満開になって咲いてくれたよ。あんた。見てみというのですが、重吉さんは、そんなに重く考えることができず、どんな年でもあるわいな。たまたま陽気のせいでやろということあったようです。スエ様には違うという出来事がありました。
といいますのも、長男さんを出産いたしましてから、産後の肥立ちが悪かったのか体調をくずされて、信貴山の毘沙門様に帰依し、100日間にさんを続けて、健康な身体を取り戻させていただいたスエ様でございます。信仰心が厚いので、不思議な現象を見過ごすことができなかったのでしょう。その後お宗祖様に関する不思議なことが重なりスエ様には確信になって行きます。

⑵ スエ様の家出
出産後平穏な日々が続きますが、お宗祖様4歳のある時、予期していなかった出来事で、家の中にもめ事が起こり、子供たちを連れてスエ様は吉井家をでなければならない事態が起きます。子供を連れて家を出てもスエ様には行くあてがないわけです。昔は娘が結婚して実家の敷居をまたいで出て行くと2度と帰ってこれない慣習がありました。この様なことから身を寄せる所がないので、子供を連れて辿りつくのが吉野川の畔でした。思い詰めたスエ様は子供を連れて死のうと思い川に近づくのですが、どこからともなく死んではならぬ、死んではならぬ、死んではならぬという声が聞こえてきます。声の方を見ますと、これはスエ様の独り合点かも知れませんが、夕闇迫る空に阿弥陀様のお顔が見えたそうです。死んではならぬという仏様の顔を見たスエさんは、そこに座り込み、思いを変えて知人の家を訪ね、宿泊の世話になります。

⑶ 楢井の毘沙門様のお告げ
スエ様は働き者でしたので、居候としてなにもしない生活が耐えられずにいた中、信貴山の毘沙門様にお参りしたい、しかしこんな子供を連れては遠すぎる等と口に出しますと、知人が、楢井にあるよくあたり、人気のある毘沙門さんの拝屋さんで土井たつさんという教祖様がいることを知らないの。そこに一度お参りしてみたらという話しになりました。今は無住寺になっていますが、当時は大勢の方が、お参りされ大変栄えた所でした。スエ様は、楢井に行かせてもらおうと、日参を始めて5日目のことです。大勢の方がお参りなられていて、土井タツさんが神様を拝まれた後、信者さんに向き直って、
「ここの中の、子供3人連れたおなごに告げる
スエ様は周りを見回しても1人2人連れの方はいても3人連れは自分だけであると自覚なさいます。顔を上げて教祖様の顔を見ることができず下を見て教祖様の話しを聞いて行かれます。「その3人のこの中に、1人、神の魂を抱いた子供がいるぞ。辛抱せよ。辛抱せよ。今の家に戻って死んだつもりになって善根を重ねよ。辛抱せよ。辛抱せよ」と毘沙門さんの教祖様からお告げを頂かれます。持ち前の信仰心がそのお告げをしっかり受けとめ、お告げを実践して行かれるわけです。

⑷ 毘沙門様を背負って、死んだつもりで善根を積む
お告げのために自分が変わることを決意され、お婆ちゃんにまたご主人様に、私が悪うございました。何とかもう1回この家においていただけないでしょうかと必死にお願いして、吉井家の嫁の座に戻るわけでございます。
スエ様の心構えが、気持ちが、180度違ってくるのです。今まででしたらよくいわれますように、たてつこう、逆らおう、なにいってるのと不平不満がでてくる心から、死んだ気持ちになって善根を積め、辛抱せよという言葉は毘沙門様が後ろから背中を押してくださっている。この言葉がスエ様の心の支えとなったのでしょう。逆らおう、反発しよう、不平不満に思っていた心が、何事も合わせていこう、寄り添っていこう、感謝の気持ちで受けとめて行こうという心構えに変わり、弁天様の教えにある低い心になられるのですね。

⑸ 吉野神宮の参拝
そんな心がお婆ちゃんに通じたのでしょう。嫁姑の垣根を取り払って行くことになります。そんな中で、お婆ちゃんが、ある春のお天気のよいときに、「わし、あんたに感謝しているんや。あんたはよう頑張ってくれて、一生懸命働いてくれて、あんたに感謝してるんや。あんたに足向けて寝られない。今日は吉野神宮の春祭りの日やあんたゆっくりして、子供たち連れてお参りしてきたらどうや。家のことは私が全部しておくから。あんた今日はゆっくりしておいで。」いわれたそうです。断るのも申し訳ないし、お婆ちゃんの言葉に甘えて、「それやったら行かせてもらいます。今日はゆっくりさせてもらいます」といって、スエ様は吉野神宮を参詣されます。仕事に追われず、お参りと子供の世話だけで過ごせる1日子供たちとこうしてのんびりお参りできるのもお婆ちゃんのお陰や。日も傾きかけ、いいお婆ちゃんやなにかお土産を買って帰ろうと思い、袂に入れてあった財布を取り出そうとしますと、財布がないことに気づき、お土産代と電車賃がありませんので、愕然とされます。

⑹ 50銭銀貨を地中から掘り出す
子供たちの手を引いて落としたのか盗られたのかと探し回り、どうしよう、知り合いからお金を借りようと道行く人を見ていますと、お宗祖様は1人で地面を掘り起こしていました。ほって行くときらっと光るものを見つけお母さんに50銭銀貨を差し出します。このお金でお土産と電車賃を買うには十分であったそうです。
何でお金があるということがわかったんやとお宗祖様に尋ねると、ほりたくなってほっていたらでてきたんやといわれたそうです。

3 親の手助け

お宗祖様は7歳になり、大正4年(1915)、存立水分小学校に入学。しかし家計がよくなかったので、家業の養蚕を手伝わなければならず、学校を休まれる日が多くなりました。
お父さん重吉さんが村会議員、町会議員と重なって、大変公的な外での仕事が多くまた付き合いの範囲も広くなります。このため出費がかさみました。家業のご商売だけでは、家計が十分だはなくなり、養蚕を手がけて行くようになります。当時、養蚕は吉野から三重県にかけ盛んでした。スエ様には家業の商売と養蚕を任され、朝早くから起きて手間のかかる蚕の世話をしなければならなくなり、大変負担になって行きます。家の中が忙しくなる中、お宗祖様は小学校に入学されます。小学校では、周りに友達が集まってくる勉強のよくできる生徒であったようです。お母さんは一日中仕事の追われ忙しく働いています。お婆ちゃんは、家の手伝いをする中、薬草の知識が豊富でよく採取され、近所の病人が出ますと採った薬草で薬を作り、看病されていました。このお婆ちゃんに連れられて野山に薬草取りに行き、小学校に上がるときはゲンノショウコなどという薬草も見わけがつく知識を持たれていました。それが後に弁天宗宗祖となって、薬のお指図ができる基礎ができたのではないかなと思います。(お宗祖様のお諭しでは、弁天様から採取薬草、調合の仕方、使い方まで教えていただいていたと話されています)
お宗祖様が高学年になりますと学校を休まれることが多くなります。人を雇ってまで養蚕ができる状態ではなかったので、桑の葉を摘み取る作業を家族がやらなくてはなりませんでした。しかも蚕は濡れた桑の葉を食べると病気になりよいまゆをつくらなくなるそうです。そのためには天気の良い日につみ取って蓄えればいいのですが、それができなかったので、雨が降りそうになると桑の葉を摘み取る作業をしなければなりませんでした。家の手伝いをしなければと先生に帰宅許可を得て、よく早退するようになります。また先生の方も家庭に事情をご存じで、許されました。
次に吉井家に思いも寄らない災難が発生し、お宗祖様が四日市の工場へ女工として働きにでられる事態が発生します。

4 四日市の工場へ

⑴ 父の事業の失敗
重吉さまが製糸事業に手を出して失敗しました。家財を封印されて悲しむ両親を助けるために、宗祖さまは製紙会社の女工として働くことを決意し、家計を助けられました。
重吉様が、製糸事業に共同出資で会社を起こされます。製糸事業は浮き沈みの激しい業種であるといわれていますが、この時も、横浜での貿易がひっくり返ってしまい、事業を廃止しなければならない事態が突然起こってきて、多額の借金を重吉さんが抱えます。
この事情を承知された、お宗祖様は自分が働きに出ようと考えられます。その時に持ち込まれたのが、三重県四日市市の五島製糸会社です。学校の先生や両親は引き留めようとするのですが、逆に両親を慰め、2、3年間や、なにも心配せんといてといって女工に行くことを決意されます。誕生日が4月1日で小学校卒業式前にでかけられましたから、11歳です。
当時60円のお金を前借りして、3年間無償で働くという年季奉公をされます。このお陰で借金は全部返すことができます。

⑵ 小学校卒業前の11歳の少女が年季奉公
三重県四日市には近鉄線が通り交通の便がよいですが、当時は、JRの吉野口という駅から乗車します。飯貝から2時間はかかる思います。その道を朝早くおきまして歩いて吉野口駅から汽車に乗り、四日市につきましたときは、西に日が傾いていました。降りて五島製糸会社に向かうのですが、行く先を聞くと歩いては行かないといわれます。乗車券を買う手持ちがなく、線路づたいに歩いて行かれ、その会社につかれたときは日もどっぷり暮れた夜だったようです。しかし、普通の人より、自分に過酷な労働が待っているとは、想像もつかなかったのではないかなと思うのです。明けて次の日からは激しい労働が待っています。今のような老業基準法もなく、あるいは会社会社にあります就業規則もなく、勤務は日の出から、日の入りまでです。時計を逆に回してでも働かせようという時代でした。野々麦峠の映画のように大変な労働であったようです。五島製糸会社の建物は取り壊されて、更地になった状態で残されています。工場は大変大きな建物であったのではないかと思います。当時働いていた女工さんが3000人です。お昼の休憩は線香1本です。間の休憩は線香の半分でした。お昼の休憩でも機械が止まらないでしょうからおにぎりをほおばりながらの休憩であったのではないかと想像します。
嫌な顔をせず、みんながいやがる仕事をこなし、最後は女工さんでも貴重な存在になって行かれます。

⑶ 初めての正月休みで触れた人の優しさ
そんな状態の中、始めて迎える正月のことです。激しい労働を強いていましたが、正月の3日間はお休みがありました。女工さんたちはその正月を待ちかねたように、それぞれの家に帰られますが、お宗祖様は家に帰ると両親を心配させるだけであると、家に帰らないと決心されます。寄宿舎で1人正月を迎えようとしているときに、たまたま事務所で働いていた奥野稲造さんという方が、お宗祖様の姿を見つけ声をかけてくださるのです。「正月家に帰らないのか」といわれ、自分の思いを奥野さんに打ち明けますと気丈夫な心のたががはずれて泣き崩れて、涙が出て止まらなかったと仰っています。「それやったら家に来い。寄宿舎よりましやと思う。餅ぐらいはあるから、なんぼでも食べてもらったらいいから家に来い」といって奥野さんの家に連れて行かれました。その家の趣が、自分の飯貝の家と同じ趣があり、奥野さんのお母さんがなにくれとなく大事にしてくれる優しい心に触れて、始めて受ける優しい人情に、私は終生忘れることができないとお宗祖様が仰っておられます。

⑷ 管長様の触れた人の優しさ
ご宗祖さまの成長の過程と第1世管長様の成長の過程が同じだと思うのですよ。第1世管長様は、8歳で和歌山市木の本から五條の十輪寺に養子に来られます。8歳で私は大きくなれば坊さんになるという決意をして来られたわけではなく、さびしさから心が定まっていないので、親の所に帰りたいという思いが一杯です。そんな思いをもって毎日を過ごしていましたが、だんだん自分は坊さんになるという自覚ができてきます。
この様に幼い子がおかれた境遇に順応して将来を思い、現在を堪え忍ぶことができたのは、お宗祖様にあっては奥野稲造さんであり、第1世管長様には十輪寺の近くに住んでおられた馬場ショウさんというご婦人でした。何時もこのお婆ちゃんが第1世管長様にいわれます。こぼんちゃん何泣いているのや、泣いていたらアカン。あんたは今大切な坊さんになる行をしているんや。あんたは立派な坊さんになって人のために役立つ人にならんといけんのや。わしはあんたは立派な坊さんになると思うで。何時もあんたのことを応援しているから、あんたの側に何時もついているから、見ているから頑張るんやでとそれはそれは温かい言葉をかけてくれるお婆ちゃんでした。見ず知らずの所に養子に行き、知った人は1人もいないところで、自分の気持ちが分かってくれる。優しい言葉をかけてくれる。どんな大きな支えとなり、力になったのかは想像できると思います。第1世管長様も、わしあのお婆ちゃんがいなかったら、何遍家に帰っていたか分からんと仰っています。

⑸ 第1世管長様のご恩返し
わしは坊さんになるという心が固まったときに第1世管長様は、わし立派な坊さんになる。必ず立派な坊さんになったるとお婆ちゃんにいっています。それはお婆ちゃんにもしものことがあれば面倒見さしてもらうから、墓を建てるからなという意味で言われたのではないかなと思うのです。馬場ショウさんのお墓を御廟の裏にあります墓地に第1世管長様は建てられました。私たちもお祀りさせてもらっています。
見ず知らずの土地にきて、始めて受ける優しさは、お宗祖様は奥野稲造さんから頂かれたのです。これら人の優しさがお宗祖様、第1世管長様の成長を高める力になったことは間違いないと思います。後にこの四日市の五島製糸会社の近くに三重教会が建立されました。不思議な巡り合わせだなと思います。四日市で信者の組織ができましたときに、奥野さんの家を訪ねるのですが、再会はできませんでした。

⑹ お宗祖様、第1世管長様のものごとの解決方法
私たちは、宗祖伝のお宗祖様、第1世管長様の姿を通して、学んでいかなければならないなと思います。私たちはものごとまた出来事に対して、平行移動させて解決しようとする所がありますが、こんな会社はいやだ、あっちに行けばもっと条件がいいし、その外にもいい条件の所はあるのではなかな。お婆ちゃんと一緒に住んでいるから、不平不満があるのや、場所を別にして住んだら、たまに会うからなんぼでも大事にできるんや。自分の位置を横に滑らせて、ものごとの解決を見るということが、よくあるのではないかと思います。お宗祖様の姿を見て行くと、すべて、おかれた状態の中で、上下移動して解決してゆかれているように思います。
吉井スエ様が毘沙門様からいわれた言葉は、家に戻って辛抱して善根をつめ、死んだつもりで功徳を積めといわれています。その家には戻らず離れて暮らし、子供を育てろといったのではありませんね。平行移動していたら私たちのお宗祖様はいなかったでしょう。

⑺ 宗祖伝で学ぶべきもの
スエ様は、何が何でも親や主人のために、家や家庭のために、家族をもり立ててゆかなければならないのだという前向きに進まれたればこそ、お宗祖様が天啓を受け、人助けの道を歩まれることになったのだろうと思います。
自分に意に沿わぬことがあり、嫌なことがあるのが人生です。合わんからといって、平行移動させてものごとを解決しようとするときには、決して根本的な解決にはなりません。それよりもそのままでどうして行こうか、解決しようかという所に根本的解決に繋がる糸口を見いだせるのではないでしょうか。またスエ様のように毘沙門様のご守護を胸に辛抱してただひたすらに功徳を、善根を積むだけの場合もあるでしょう。宗祖伝では私たちの出会いや出来事を解決する方法を見いだす勉強をするために学んでいるのではないでしょうかと思います。

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by nohara4241 | 2008-04-20 15:10 | 法話宗祖伝