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18年水の章1講法話

18年4月9日(日)水の章1講 小竹祥善講師
(編集項目:ブログ者記)
1 始め
2 古代インドと大弁才天女尊様
3 仏典に伝承された大弁才天女尊様
4 先代管長さんに教えられた話





1 始め

感謝祭に参加した場所が、和歌山市木ノ本の先代管長さんの生家である西本さん宅でした。
管長さんの子供時代のお話を親戚の方からお聞きしたり、アルバムを見せて頂いたりでうれしい時を過ごしました。
先代管長さんは夏になるとご一家でご訪問され、お宗祖様は宗歌の作曲家山田耕筰様のところにサツマイモを送ってくれといつも頼まれていたそうです。
山田耕筰様は信者さんでしたが娘さんがクリスチャンだったそうです。
昭和31年5月にお宗祖様が東京に来られ、その際に山田耕筰様の病気見舞いに行かれています。
そしてこの時東京では根こそぎ救うと言われて一度に15の支部を作られました。
その何ヶ月か後に東京本部が向島に設置され、昭和52年に本部は渋谷に移りました。

2 古代インドと大弁才天女尊様

黒海とカスピ海の間にある地域に居たとされる遊牧民族であるアーリア人が東と西に3500年前に大移動しました。
西に行ったアーリア人はゲルマン人等の祖先になり、イランと言う国名はアーリア人の国という意味だそうです。
東に移動したアーリア人は、移動前から栄えたインダス文明の地であるインダス川の上流パンジャブ地方に定着しました。
この民族は最上級にバラモンという階級の世襲宗教家を位置させるカースト制度を持ち、祭事に関する聖典を4つ作り、その1つが沢山の神々をたたえている詩のリグベーダーです。
そのリグベーダーの中に大弁才天女尊様が出てきます。
家畜の牧草を求めるために水や河を求めて旅をし、貴重な水・河を神格化し女神としてあがめるようになり、水流の豊かな代表的な河をサラスバティーと名付けました。
サラスは河を意味し、バティーとは「富む・持っている」を意味します。
大弁才天女尊様のご真言オン『ソラソバティー』エイソワカとはこの河の名前です。
詳しくは岩谷文庫の辻直四郎作の「リグベーダー賛歌」をお読み下さい。
辻さんはサラスバティー河は海に注ぐ大河であったと記しています。
これは紀元前500年頃誕生されたお釈迦様より更に1000年以上前からサラスバティーの信仰があったことになります。
管長様のお供をして昭和55年に現地を訪問しましたがサンスーティーという川が残っており、これがサラスバティーだといわれました。
川は涸れていました。
平成15年上野の博物館で4大文明展が行なわれ、見学に行きましたがインダス文明展でインダス川の東側にガンガールハークラーという名の地下水脈が表示され、しかも括弧書きでサラスバティー河と付記されていました。
サラスバティー河女神に、ヴァチュという知恵・弁舌の神様が習合してた新たな誕生したサラスバティー女神が中国に入って弁才天女尊様・妙音天・功徳天等と訳されました。
インドで見ました大弁才天女尊様は水瓶・琵琶・武器等の色んな道具を持つ方や、臂が2臂、4臂、6臂、8臂とあり、薄い衣をつけていますが、インドは暑い国ですから裸体の仏像が普通です。
しかし儒教の中国に入り薄衣や裸体が嫌われ当時の唐・隋の女官の服装の大弁才天女尊様像が作られ、江ノ島の裸弁才天女尊様を除き日本にも中国の服装をした弁才天像が入って行ってきました。
バラモン教であがめられたサラスバティー女神は、4世紀になりバラモン教が衰退しサラスバティー女神は新たに誕生したヒンズー教の神として取り入れられています。

3 仏典に伝承された大弁才天女尊様

6世紀(552年?)中頃に仏教が日本に入ってきました。
大弁才天女尊様の記載されている金光明(最勝王)経は、護国教典として703年頃作成されていますので8世紀中には日本に入ってきたと思います。
金光明(最勝王)経は、聖武天皇が国分寺建立時に唱えさせ、聖徳太子が大事にし、持統天皇が毎年正月に唱えさせたなど国の行事のたびに使われたため、第15品・30品に記された8臂で道具を持った大弁才天女尊様も併せて全国に流布され、各地に大弁才天女尊信仰が広まっていきました。
お経本は、お釈迦様のおられた紀元前500年頃には経本はなく、お釈迦様からこう聞いたという書き出しで紀元1世紀頃から作成されたとされています。
金光明(最勝王)経には、大弁才天女尊様が沢山の方々の中で説法をされ、それを聞いたお釈迦様が大弁才天女尊様をほめたたえるお経になっていますが、歴史的に3500年以上前のアーリアン人の神様を、2500年前頃に誕生し80才くらいでなくなったお釈迦様がほめたたえることは年代的にできません。

(プログ者:西洋の東洋学者間では、大乗仏教の教典はお釈迦様の教えと違い後世の人が創作したものであるという考えが定説です。)

私達のご本尊様大弁才天女尊様は行基菩薩が金光明(最勝王)経に由来して作られていますので8臂に道具を持った大弁才天女尊様です。
弁才天女尊の寺院での扱いの多くはご本尊様の守護神という地位です。
東京都内でも100箇所以上で弁才天女尊が祀られています。
しかし、弁才天女尊様のお力があると言うことで平安時代から日本の昔からの海・河・農耕の神様と習合(合体)し、ご本尊としていろいろな弁才天女尊が作られました。
福岡の海上の神様である宗像神社の長女市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と合体しできましたのが厳島神社、京都の宇治には首から上は髭のおじいさん下は蛇体(蛇は農耕の神様だそうです。)の弁才天女尊様もあります。
穀物の神様はウガヤミタマノカミ(宇賀神)と合体したのが宇賀弁才天女尊です。
江ノ島の琵琶を持った裸の弁才天女尊は特別な存在です。
関西では聞きませんが東京では、御利益があると言い伝えで己巳(つちのとみ、ミイミイ)の日に弁才天女尊様にお参りする信仰があります。
これは源頼朝が夢で巳の年の巳の月の巳の日(細部不明)に弁才天女尊様を祀ると世の中が平和になるという啓示を受け、鎌倉の銭洗い弁天を建立し、4日にお祀りをしたことに由来し、4のつく日をミイミイの日としてお参りをするようです。

4 先代管長さんに教えられた話

茨木市冥應寺で広報の仕事をしていたときに、茨木JR駅方向へ向いもっとも左側の車線上(茨木JR駅前から万博へ続く6車線の道路)上で、横断道路でないところを横断されるご婦人を、車ではねる交通事故を起こし、幸いに小骨の骨折で済みました。
参籠殿前の道路でご婦人が運転の練習中ブレーキを間違えアクセルを踏んで池に飛び込みそうになった車が1本の樹木に衝突して助かった事故を見ていますし、
広報係として信者さんの奇跡の話を聞いていますので、
事故を犯しながら私に奇跡が起こらなかった事が、
ショックでしかも毎日病院に謝罪に行き落ち込んでいましたときに、
先代の管長様が「年ごとに咲くや吉野の山桜、木を割りて見て、花のありかを」(一休さんの歌?)という歌で、桜の木は冬は枯れ木のようであり、木を切っても花を見ることはできないが春には必ず花を咲かせる力がある。
今回の事故で乗り越える力は目で見ることはできないが、お前の中には必ずあるのだ。
お前自身がしっかりしなくてはならないと教えられました。
これでご本尊様がおられるので、何が起きてもできるやっていけるという自信を得て、一寸先は闇ではなく光であるという信条を得ました。

by nohara4241 | 2008-03-23 09:17 | 法話水の章