人気ブログランキング | 話題のタグを見る

18年 宗祖伝24講法話

18年3月21日(火) 宗祖伝 24講 田口講師

(編集項目:ブログ者記)
1 昭和41年2月22日の御神示を最後に闘病生活
2 昭和42年(1967)2月15日お宗祖様ご遷神
3 ご遺告
4 ご本尊様の希望




1 昭和41年2月22日の御神示を最後に闘病生活

3月からご休養の床につかれます。最初は喉が痛かったのですが、精神的にも肉体的にも衰弱されていました。
4月に智弁学園の2回生の入学式にも「おめでとう。しかり頑張って勉強するのですよ。」と言葉をかけられ退場されています。春季大祭はお宗祖様の身体を思い茨木の冥應寺で執行されました。お宗祖様は介添えを受けながら護摩木にお鈴でお加持をされて退場されています。大祭参加は、帰参と称しご本尊様の元に感謝をしに帰ることが原則ですから、お宗祖様は何時までも悔やまれていたそうです。
5月の感謝祭に参加され、「御神示は休みますが、私は地下に潜って必ず皆さんのご信仰を見守らして頂きますよ。」と言われています。
夏、信者の声として役員が集い、お宗祖様のご病気快癒のご祈願をさせて欲しいと管長様にお伺いを立てますと、お宗祖様は長いこと天井を見ておられましたが、「私のこと案じてくれるのはうれしいけれど、そんなことを考えつくれる間があるのなら、例え草の1本でもゴミの1つでも拾うて功徳を積んで欲しいのにな。」とおしゃっています。
秋の大祭は、車で如意寺に来られ、前日は信者の運動会で智弁学園の3階の窓から信者に手を振られました。
翌日の大祭は介添えを受けて護摩木にお鈴でお加持をされて庫裡へ戻られています。
その後も病の床に伏されましたが、今の管長様が病院を探され、お宗祖様も本意ではありませんが周囲の方に従い入院されています。

2 昭和42年(1967)2月15日お宗祖様ご遷神

昭和39年に茨木の冥應寺が落慶された頃から、御神示が大変で、神箋用紙が1500枚くらいに成ったそうです。毎日それを眺めてどうしたらこの方達を助けることができるのか、考えられ、この五体では救えないであれば五体を棄てて万人を一度に救える神の力しかないと心に決めておられました。衰弱死ではなく初めから望まれてご遷神されたのです。ご遷神の1報は信者を驚かされ、班長以上はお顔を拝見できましたが、生きておられるようなふくよかなお顔でした。
2月17日は仮葬で、ミゾレ降る雨の中信者が整列し伏し拝む道筋を通り、蓬莱山にお宗祖様の遺体は納められました。蓬莱山は以前からの名称で40名の地主さんがいましたが、奈良県庁と地元の皆さんのご協力で1晩のうちにお宗祖様の御廟にさせて頂いています。
3月5日告別式でしたが、土砂降りでした。松下幸之助さん、今東光さんを初め多くの名士が集まり信者の心に響く切々たるご弔辞をいただきました。

3 ご遺告

お亡くなりになる前に、こうをするのですよ、ああするのですよと残して頂いた遺言です。困ったときに誰も頼りにならないときでもお助いただけるのです。「たすけさせて(いただきます。)」という言葉が4回も出てきます。例えどんな因縁があってもお宗祖様のところに行きますと、又お名前を呼びますとお宗祖様が現れてくださるとお約束をしてくださっています。ニッチもサッチも行かないときに、ご本尊様の前でお宗祖様の魂がこもっていますご遺告を3回読ませて頂くと元気が湧いてきます。天啓後33年間人を助けてこられ、人助けがこんなに辛いものかもうやめよう、もうやめようと思われたが、続けざるを得なかった。修行を積まれて私は人助けのために生まれてきたのだと悟られ懺悔されています。家族も顧みず、我が身を人助けのために尽くされ、身体はぼろぼろに成られたのです。
苦しい息のしたで、管長さん信者の皆さんに一言伝えてほしことがるんねん、ちょっと書きとってやとお願いされ、これだけは伝えてほしいんやかいてえなと言われて管長さんが書き取ったものです。
お宗祖様にお会いできたことを無上の喜びとして、お宗祖様教えを実践し、今の生活を感謝できるように信仰をして行かなければならないと思います。

4 ご本尊様の希望

全国的に、いや世界中に広げたいと言うのがご本尊様のご希望ですから、『堂々とあの人は、ちょっとしぶといな』と言われるくらいのおみちびきをお願いいたしたい。(昭和41年2月2日御神示前のお諭し)

by nohara4241 | 2008-02-28 11:07 | 法話宗祖伝