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妙音新聞25号から 真言ということ

真言ということ(妙音新聞28年5月 25号) 阪大講師、高野大学講師 眞 成

余り在家の信仰には直接関係しないと思われますが、学識者のお話ですから、転記しました。心というか人間の内面が豊になるには、真理に基づく理論と実践、教えと実行が必要であるといわれているように思います。

真言と言うこと
(編集項目:ブログ者)
1 特色ある教道
2 真言
3 内生活を豊かにする真理




1 特色ある教道

最澄、空海、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、蓮如等の諸上人は日本仏教の創建者であり、人間の心に仏智を宿すためにそれぞれ特色のある教道をお立てになりました。
私達は石でも木でもコンクリートでも家の建つことを知っています。
しかし、これを初めからゴチャゴチャにしてしまって家を建てる事は非常に困難であります。
木や石やコンクリートの良いところを融合して建築するために、先ず1つ1つの道理とその方法を知らなくてはなりません。
仏の智慧は一切智々呼ばれているように、宇宙の一切の理法、一切の力は神仏の理法、神仏の力でないものはありません。
しかし仏智を開き仏智を心鏡にうつすためには1つの道に沿って修養して行くことが必要なのであります。
ご神代様が日々お示しになっている御徳の数々は我々がより早く仏の心を開くように、より早く人間として真の生活ができるようにとの慈愛である事は申すまでもありません。
私達がこの御徳をわがものとするためには、この御徳の特色を知り、その道を守って、自らの体験を活かして行かなければならないのです。
1つの道を深く知ることはやがてすべてのことを理解するよもすがらともなるものです。
私達は医者としてでも、政治家としてでも、教育者としてでも或いは他の色々な方法ででも社会を愛することができます。
しかし、1人の医者、1人の歌手、1人の技術者としてその道を深く研究して始めてこのことが可能になるのです。
この故にこそ諸宗があり諸導師がお生まれになっているのであります。
以上のような意味で真言弁天宗にも巌然とした特色とその中心となる道が存在しているんであります。

2 真言

その中心となる教道は実にこの宗旨の示す頭文字「真言」という言葉で現されているものと推察されるのであります。
というのはご神代は弘法大師の因縁の地で、弘法大師がお開きになった真言宗をもっとも如実にもっとも具体的に実践しておられる御方であります。
これこそ真言弁天宗の名にふさわしいものと思われるからであります。
理論や議論に凝り固まった現代人にもっとも具体的にご神代自身の肉声を持ってしかも1人1人の肉体の直接救って行かれることによって、仏の力とその徳を事実の上に現しておられるのであります。
私が何故この様なことを言うかと申しますと、その根拠はすべて弘法大師の教えにいるのであります。
弘法大師は金剛界を胎蔵界、或いは理と智、或いは内と外なるものを立てこれらを2つにして1体であることを説かれましたが、徳に後者胎蔵界に力を入れられたこと、身体そのもの力を入れられたこと、
身体に即して成仏を説かれたこと他宗に見られない所であります。人間のもっとも具体的な存在である「胎」なるもの、或いは「身体」なるものをとってきて、一切の法とか一切の世界を理解しょうとされたところに、即ち徒な議論や抽象にとどまらず、生きている人間のもっとも具体的なところに重点を置かれところにこそ真言密教の特質があったからであります。
真言という言葉からしても、これを単にほんとのこと、まことの言葉という意味にとどまらないで、咽喉からでる音声そのものを重要なものとされています。
空海はこれを「声字実相」といっておられますが、声字をぬきにして実相というものが外にあるではない、言葉そのもの、声そのもの、字そのものが実相なのであるというように具体的に真理を掴む、この様に抽象に落ちまいとする真剣な態度に真言宗の深みがあるのであります。
私達はよき言葉そのものが実相であり、まことの言葉そのまま実体であり、愛の言葉はそのまま愛の本体であるということわりを知り、このことこそが真言という名前で示されている事柄であることを見逃してはなりません。
ちなみにご神代様の言葉を思い出して見て下さい。
何となく不思議に明るく愛に満ち、こわれたるものもまとまるとひびき、これこそ実に妙音の香り高いものであることを思わざるを得ません。
美しい言葉、愛の言葉、親切な言葉を出すようにしましょう。
やがてそれはそのまま自分の肉体、自分の生命、自分の生活上に如実に実って参ります。
そうしてこのことが嘘であったなら大師の教えが間違っているのであります。
ご神代の言葉はご神示のお薬と同様もっとも具体的な真理なのです。
私達はご神代と同じ口、同じ肉体を持っているのでありますから、ご神代を手本として、その笑顔、その明るい言葉を見習って行くことが大切なのです。
そのようにして初めて自分の生活、自分の肉体に無限の豊かさを見出して行くことができるのです。

3 内生活を豊かにする真理

私がさきに「妙音」誌(絶版)上で世界の実相を金剛界のまんだらによって抽象的な面からお話し申し上げました。
これらの知見は大切でありますが、しかし、それを真実に自分のものとするためには、この様な理だけではダメなのであります。
私達人間は肉体があって生きているので、この肉体と直接関係のあるものを離れて抽象的な理論のみで生きているのではないのです。
言葉といっても音声を離しては抽象であります。
ご神代から手紙を頂くよりも一言でも直接そのお声に接する方が喜びを感じるこのことであります。
すべてのことに対して美しい均衡と調和の取れた肉体が参加して行かねばならないのであり、これこそもっとも具体的な心理の生かし方であります。
弘法大師の仏教解釈の根底には、常にこの様な真摯な根本態度があるのであります。
哲学や科学の理性を開いて行くことは、社会を明るくし、文化を進歩さすために必要でありますが、しかし、この「自分」をどうするのか、この「われ」をどうするのか、自分の生命、自分の内生活に豊かな喜びを味わって行くためには、この具体的な自分の肉体、自分の言葉に直接実相を吹き込まねばなりません。
この様な世界観や思想を強い信念を持ってお示しになったのが弘法大師であります。
少なくとも仏教の中では真言宗に求めるより外にありません。
空海の思想がこの様なものであるというのは、「即身成仏義」や「声字実相」や「叫字義」や「ご遺告」等の内容からも明らかであります。
弘法の生涯が、仏教の諸経典を解釈したり、社会を改造したりする努力に向けられていたと言うよりも人間そのもの、世界そのもの、究極の真理に対して、自己の肉体をぶっつけて行かれたという色彩が濃厚なのはまことに意味深いものと申さねばなりません。
実にこの「身」を自覚するところまで真理探究の努力をお止めにならなかったこと、山岳に攀(よ)じ或いは海浜に勤念し、或いは穀漿を絶ち、大自然の前に自己の肉体を授げ出して、必死の修行をされたのは、すべて自己の肉体に即して直接に実相を把握するためであったと推察されるのであり、このことあってはじめて人間一人一人の肉体の病を治し、一人一人の内生活を豊かにする真理をお開きになることができたのであると思われます。
弘法大師が自らの称号において人間一人一人の中に今なお脈々とご慈悲の力をお流しになっておられるのは、具体的に仏の力をお生かしになっておられる証拠であります。
弁天様から頂く力もこれと同じく、如実の仏の力でありますが、この様な直接の力、具体的な力感謝すると共に、この仏の神力を自己の欲望のために利用したり、或いは自己のできる努力を少なくしたりすることに利用したりして安易に流れないように戒めるとともにこの有り難い力によって、自分自身をより深く自覚し、成仏して行くよう努力するところがなければならないと思うのであります。