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19年 水の章22講法話

19年2月19日(月) 水の章22講 N講師の法話
(編集項目:ブログ者記)
1 お宗祖様の御廟
2 お宗祖様名弁天様の声を聞き教えを示された
3 汚れありとも、遮りては、流れ止まるなり。(59)
1) 汚れ
2) 流れを止めない
3) 宗団は、先祖供養を勧めています。
4) いい体験談
2 汚れをも受けて、流れは続くものなり。(60)
汚れ止むるに流れ止まれば、手元の清水もやがてはつきて、流れ涸るるなり。(61)
3  交通事故で歩行が困難になる汚れを受けたTさんの体験談
1) 交通事故と不自由な身体
2) 両親に導かれて茨木に詣でる
3) 1回目のお運び終了と就職
4) 2回目のお運び終了と正常な身体を取り戻す
5) 両親の導きに感謝
6) Tさんはまず過酷な運命を受け入れた。
4 大石順教尼さんの話
1) 弁天宗と大石順教尼さんの関係
2) 事件と順教尼さん心掛け
3) あるものに目を向けた生活を悟る
5 先代管長様の苦労と弁天様のお計らい




1 お宗祖様の御廟

遷神祭に引き続き17日の感謝祭にも皆様にお詣りいただきました。昔は、17日は東京の別院の感謝祭で総長さんが出かけました。その感謝祭で、総裁さんから五條は奥の院やでとお宗祖様から聞かされた話を聞いて私も御廟のことをお話しします。
お宗祖様が亡くなられて、岡松さん方に、智弁学園の藤田さんが来られ、お宗祖様が亡くなられたので御廟を五條に作りたい。どこがいいだろうかな、いいとこがないかなと相談され、まとまったのが今あります御廟の場所です。ここやったらましたに智弁学園があり、金剛山、かつらぎ山、高野山も見え、大和本部も見えるのでここがいいとまとまりました。
誰が持っているのかなとなり、岡松さんが知っている方の家を訪問しましたら、不思議なことに尋ねた先の家の方が御廟の丘の地権者の地積と樹木の資料を持っておられました。20数人の地主さんがいましたが、その夜地主さんに集まってもらい、事情を説明したところ、その夜で売却が決まっています。15日お宗祖様が亡くなられ、埋葬が17日ですから、時間がないのですが1晩で決まって、よく16日にはブルトーザーが入って、地ならし、整地をしています。17日にはお宗祖様に御廟にお休みいただきました。奇跡ですね。地権者の資料が何故あったかと申しますと、実は御廟の南に小学校がありますが、その小学校の用地に最初なっていたので、地権者をまとめた資料が作成されていたのです。感謝祭での総裁さんの笹川さんとのやりとりなどを聞きますと御廟は大きな力の計らいがあって、ずっと以前から場所が決まっていたような気がします。

2 お宗祖様名弁天様の声を聞き教えを示された

先代管長様は、高野山の学校に行き専門的知識を納められていますが、お宗祖様は宗教にはまるっきりの素人です。最初の頃は般若心経も唱えることはなかったと聞いています。家の宗旨が浄土真宗ということもあると思います。何でこういう教えを残したのかと言うことですが、お宗祖様には弁天様の声が聞こえています。それをそのまま教えに表されています。これは宗教を勉強したのではないのです。ある人にご宗祖さまと同じ時期に同じように弁天様を拝んで御神示をしておられた方がいたと聞きました。奈良県に鳶尾というところがありますが、そこに霊仙寺か霊壇寺か忘れましたが寺院があるのです。そこは多角経営でタクシーを運営し、風呂もあります、バラ園が有名です。私ももの好きですから行ってきました。驚いたことに紋は桔梗でした。霊仙寺の宗祖様もどこかの宗教に属していましたがそこから分離し独立の宗派を立てられています。
そのお宗祖様に智弁尊女様のような教えがあるか知りたくて尋ねていったのです。社務所で聞きましたが教えは何も残っていませんでした。紙切れ1枚もないそうです。
お宗祖様が大阪梅田の太融寺で加持祈祷の免許を取るために、修行されましたね。その方も一緒に修行されていたそうです。ある方に十輪寺の弁天講のご神代は私の弟子であると話したのを私たちのお宗祖様がお聞きになり、私は弟子でも何でもない。たまたま太融寺で席を並べて、勉強して免許を取っただけですと申されています。その霊仙寺の奥の院に行きました。そこには弁天様が祀ってありました。
(元T先生から聞いた話では太融寺で加持祈祷師の免許試験に合格したのは2名で、お宗祖様は2番だったそうです。その時1番だった方も弁天様が降りて弁天様のご神示ができる方だったと聞いていますので、多分この霊仙寺か霊壇寺のお宗祖様でしょう。
この他にもお運びの講師から加持祈祷師試験には弁天様が降りた拝屋さんが居られ、その拝屋さんは不合格でしたが、お宗祖様に心酔し、100名の信者を連れてお宗祖様の信者になられたとも聞いています。)


3 汚れありとも、遮りては、流れ止まるなり。(59)
1) 汚れ

川は、汚れたゴミでも何でも拒否しなく流れます。これは水だからです。私らに置き換えると汚れとは、苦しいこと、苦難を汚れといえると思います。

3)流れを止めない

流れが止まっては、汚れが貯まりますから、苦しみを次に流すには受け入れなくてなりません。否定的に受け入れることと肯定的に受け入れることがあります。私は、色んなことを肯定的に受け入れるべきだと思います。

5)宗団は、先祖供養を勧めています。

これはお宗祖様がそうせよと仰ったからです。ご先祖の塔婆を弁天様で供養していただいて、それを家に持って帰り、1週間祀って、終わると本部に返しますことを勧めています。私も先祖をお祀りしていますが、先妻さんが若くして亡くなっていたり、父の母も父が幼い時になくなり母の顔を知りません。兄がいますが1才の時に葉hを亡くしています。戒名書いていますと毎年死んでいるので不幸が続いたのやな等色んなことが分かってきます。お塔婆を持ち帰ってお祀りする時に、この方は若くして亡くなっているとかその仏様のことを思いお経を上がることもできます。先祖の因縁とよく言いなすが、色んな事情の流れがあるのやなと思いました。私が仏様の事情を思い出し供養をしていることは、先祖の仏様の事情を受け入れていることになりのだなと思います。ご先祖様に色情因縁を積んだ方や、お金に汚い方や、他人の悪口を言った方がいたかも知れません。それを我々はすけ入れるということも、先祖からの流れを止めない一つの方法ではないかと思うのです。

6)いい体験談

三重教会の感謝祭に行き体験談を聞かせてもらいました。ご主人と子供さんと3人でお詣りされていました。奥さんが発表されました。体験談に良い悪いはないのですが、良いというのは自分が余り聞いてもらいたくない身の上話を皆さんの前ですることを言います。多くは聞いてもらいたくないことをカットしていいとこばかりを話すのが多いですね。自分の過去を聞いてもらうことは弁天様に聞いてもらうことですね。話をして聞いてもらうことで、自分の因縁が帳消しになるのではないかと思います。お宗祖様は、家族を捨てて別な女性と一緒になった父親を恨んで手が動かなくなった方に、また悪いことでお金を稼いでいた方に、自分ような人間をださないために各支部を回り体験談をさせました。
体験談をされたこの方は40才くらいの方です。23才の頃家出をして、暴力団員と内縁関係にありました。この方のご主人は元警察官です。当時警察でも色々連れ戻そうと手を尽くしたのですが、女性が納得ずくで一緒になっているので連れ戻せなかったそうです。色々あって両親が弁天様を信仰し始めた。ご両親は娘を連れ戻すために、一生懸命信仰して、連れ戻すのに10年かかったそうです。帰ってきて娘さんは、父親の黒髪が白髪になって、髪も薄くなって、身体も一回り小さくなった。母親もそうだと感じられ、本部や教会にお詣りすると、信者さんが一生懸命拝んで知る姿を見て、両親もあんなにしてお百度を踏んだり、ご祈願をしてくれたのやなと思ったそうです。その方は、両親の信仰を見ならい弁天さんの信者になられます。それからある男性と巡り会い、過去のこと男性に納得してもらい、結婚し、家族3人で弁天様を信仰していると話されました。私は信仰するとは、色んな苦しみがありそれからはい出すために助けていただきたくて信仰するというのもありますが、私は、信仰は、娘の家出など色んな事情を受け入れることが信仰ではないかと思っているのです。苦しみや苦難を受け入れて行くことが大切であるということを教えていると思います。

2 汚れをも受けて、流れは続くものなり。(60) 汚れ止むるに流れ止まれば、手元の清水もやがてはつきて、流れ涸るるなり。(61)

3  交通事故で歩行が困難になる汚れを受けたTさんの体験談
智弁学園の1期生を卒業し、大学を卒業して家業のスポーツ店を継いで、小さい時から剣道を習い、家業を継いでからは近所の道場で剣道を教えていたTさんの体験談が妙音新聞に載っていました。

1)交通事故と不自由な身体

結婚し子供もできた。昭和53年12月11日剣道を教えて帰宅途中、信号待ちをしている時に脇見運転のタクシーに追突され、5m飛ばされて脊髄をやられます。山口県に良い病院があると聞けば山口県に、岐阜県に良い病院がある時聞けば岐阜県へと出かけ、手術やリハビリで色んな病院の入退院を繰り返しました。4年間治療しますが、補助具を腰にはめ、杖をついて歩けるようになったまでしか回復しなかった。医者には、あんだけの大きな事故だから命があるだけでも幸せだと思わなければいけないといわれた。しかし、剣道のできる身体に戻りたかったそうです。不自由でもう死にたい年を考えたことは2度や3度ではなかった。

2) 両親に導かれて茨木に詣でる

智弁学園に通学していたが、恥ずかしながら、私は手を合わせることが大嫌いだった。智弁学園卒業後、自宅の吹田市から茨木の弁天様に詣ることは1度もなかった。
しかし、ある日両親に連れられ茨木の整地に足を踏み入れた途端、生きる目標も失った私を弁天様が温かく迎えてくださるのが分かりました。ここしかないと弁天様、お宗祖様の御前で一生懸命祈りました。それから、鎧のような金具をはめて、杖をついて1日がかりでお詣りをしお運びを受講します。

3) 1回目のお運び終了と就職

昭和58年の初席お運びの1回目の終席式がもうすぐあるという時期に、お運びに行く途中<NTTの職員募集のポスターを見つける。今まで働きたくても身体が不自由だからと採用試験を受けられなかった。しかしNTTの応募したいからと募集状況を確認したところ、(多分34~5才だったと思います)年齢制限で応募できないが、身体が不自由であるということで応募を許可され応募します。数百人採用予定に4000人の応募者があったそうです。奥さんに励まされて勉強をして受験すると合格しました。しかし、ちょっとした段差で転倒し、途中のベンチで休憩しながらの通勤でした。

4) 2回目のお運び終了と正常な身体を取り戻す

お運びを続け2回目のお運びが終わるという時に奇跡が起きます。初席お運びも2回目の終席式を迎える頃です。局の慰安旅行に誘われた私は、うれしくてなりませんでした。事故以来、旅行に行くことなど考えたこともなかったのです。ところがその朝、起きた時にどうも身体が軽くなったような不思議な感じがして、杖もないのにすいすいすいすいと足が前に出るのです。S字型に曲がった背中がだんだん真直ぐになるのが分かりました。突然歩けるようになったのです。何がどうなったのか、今でもあの時の驚きを忘れることができません。仕事も営業に変わり、再び剣道のできる身体に戻ることができたのです。

5) 両親の導きに感謝

もしも、両親が弁天さまの信者でなかったら、あの時無理にでも茨木聖地にひっぱていってくれなかったら、今の私は、素直に手を合わせることのできる私ではなかったのでしょう。辛い苦しい事故ではありましたが、それが私に信仰という何物にも代え難い財産を残してくれました。ただ残念なのは、昭和60年5月、長年教区長を勤めさせていただいた父が他界したことです。老体を省みず最期まで私のことを心配し世話をやいてくれた父でした。そんな父の意志を継ぎ若輩ではありますが、信者皆様の励ましを得て教区祭事部長拝命しております。春秋の大祭には、お宗祖様、第1世管長様の元に智弁学園時代の思い出多き蓬莱山(お宗祖様御廟の地名)に帰参する教区信者の先頭を私が教区旗を掲げながら胸を張ってあるかさせていただいています。うれしいです。今幸せです。

6) Tさんはまず過酷な運命を受け入れた。

Tさんは今支部長さんをされています。私は、ケガが治ったのは医学的にはそんなことあるかいなということです。杖もなく補助具もなく歩いて参拝されています。私はTさんに葛藤があったと思います。脇見運転しなければこんな不自由な身体にならなかったのに、智弁学園に行き、父も教区長をやっているのに何で俺がこんなことになるのや、奥さんも子供もいるのに仕事ができん。もう死にたいと葛藤があったと思います。弁天様に足を運び、お運びを受講する。お話ししたように、今までは事故前の丈夫な身体に戻りたい。戻れなければ死にたい。何でこんなことになったのだろうと過去を振り返る日々であったと思います。それが、自分の置かれた状態を受け入れて自分は今後どう生きてゆくか歩むかと考えたと思います。その心が弁天様の大きなお力をいただいたのではないかと思います。この様な奇跡が弁天様の世界では現実にあるのです。ですからお陰をいただきたい。救われたいと思ったら、今の状態を受け入れて歩んで行くことが大事だと思います。

4 大石順教尼さんの話
1) 弁天宗と大石順教尼さんの関係

私は大石順教尼さんと先代管長様の話を良くしますが、高野山の奥の院には花菱アチャコさんお墓の隣に筆塚といって大石順教尼さんのお墓があります。浪速千栄子さんが大石順教尼さんを連れてここに来られているのです。口で筆をくわえてきれいな字を書かれます。お宗祖様はそれを見て、管長様は字が上手や。私は書くことは管長様に全部任せた。大石順教尼さんはあんなきれいな字を書かれる。私も勉強しなければならないと思った。なんぼ私に力があるからといって、大石順教尼さんの手をつけて上げることはでけへんとも言われたという話があります。

2) 事件と順教尼さん心掛け

この方は17才の時に、養父から刀で両手を切り落とされています。この方は、色んな福祉の施設を作ったり、仏光庵というお寺を造ったり、障害者の講演会にも励ましに行かれます。10才の時に踊りが天才的に上手で、芸者の置屋のある大阪の堀江で、中川家の養女になります。ご主人の奥さんが浮気者で逃げたのです。ご主人がお弟子さん等6人の前でお前達女房の行く先を知っているだろうと焼き餅から刀でお弟子さんを斬り殺し、順教尼さんは両手を切り落とされたのです。順教尼さんが殺されなかったのは逃げずに前を向いていたからです。他のお弟子さん5人は逃げたために後ろから斬られています。しかし、養父の死刑後の骨拾いに行き、お墓も立てています。時間後実家に帰るのですが、銭湯に行くと堀江の6人切りの生き残りだと見物人が集まる。また芝居一座の舞台に上がると大勢の見物客が来る。同僚からお前の芸を見に来るのではないお前は見せ物になっているのだといわれる。

3) あるものに目を向けた生活を悟る

仙台に興行で行きました時に、旅館に1人で泊まっている時に、梅の木に吊されたカナリヤの入った籠があり、それを見ているうちにカナリヤにも手がない。口で子にエサを与えている。自分がないものに目を向けて生きてきたけれど、これからはあるものに目を向けて生きようと決心するのです。筆を口にくわえて字を書く練習をされます。仏光庵を作られると、養父の位牌と亡くなった5人の方の位牌を作り毎日礼拝をされたそうです。先祖供養でお話ししましたが過去を受け入れるということが出発点ですね。不幸にした養父が憎いと恨むと不幸な状態が不幸を呼ぶのですね。不幸を受け入れて前向きな生き方をすることが大事なのです。
皆様方も家に帰れば病人がいたり、家族の問題を抱えているとそれをまず受け入れて行くことが、今日の汚れを受けてもということになるのではないかと私は思います。

5 先代管長様の苦労と弁天様のお計らい

先代管長様の十輪寺の跡継ぎとして養子に来たが養父が結婚してダメになり、金剛寺の大森慧海さんの養子になるが、養父大森が川で死亡し管長様は高野山で勉強中、寺の宝物が盗まれる。新しい住職が赴任し、管長様はやむを得ず吉野の大師堂に赴任するという話も、9才から厳しい躾で修行しているのに、コロコロと運命が変わる。私であれば、僧侶を止めています。しかし、先代管長さんは、過酷な運命を肯定的に受けとめて、お宗祖様と巡り会い弁天宗の初代管長になられる。これも大きく考えると弁天様のお計らいかも知れません。Tさんお話をしましたが、Tさんは辛かったかも知れないが、傷ついた数倍もの信仰を知ることができたと仰る。これも弁天様のお計らいかも知れません。ですから私たちは、色んなことがあります。腹を立てたり怒ったり、自分の意に沿わないことが起きてもみんな弁天様のお計らいも知れないというとらえ方をするのが大事なのではないかと思います。不平不満想うべからず。どんなことでもご本尊さまが我々を一人前の人間にする試練であると捉えたら苦労が苦労でなくなるのではないでしょうか。

by nohara4241 | 2008-02-07 21:24 | 法話水の章