人気ブログランキング | 話題のタグを見る

昭和41年3月17日の感謝祭でのお諭しNO2

昭和41年3月17日の感謝祭でのお諭しNO2

(編集項目:ブログ者記)
NO1(前項)
1 私の食事
2 浪速千栄子先生のこと
3 私の生活と食事
4 私の日記帳
NO2 
5 医者のS先生とお宗祖様の身体
6 信者への励まし
7 私の身体を心配する母
8 疲れてている身体
9 信仰する信者のあり方



5 医者のS先生とお宗祖様の身体

それで、この間も24日の日に、私を子供のように可愛がってくださいます佐野っていう博士があります。
あの、布施におられます。
この先生がちょいちょいとおいでになります。
「先生、私、最近しんどくてしょないです。自分で気が付かないのですけどしんどい」「どないしんどいんです」「そうですね。私ね、去年の12月の初めごろから自分で苦しいこと気が付かない。付かないけれど、余り食も食べてない。そして、ますます頭がさえてくる。どうもおかしいのですけどね」って言いますと
先生は「そうですか、そらね、そんな人ほっていてはいけません」
「待ってくださいよ。私ね、いっぺん御神示うけまして、自分の。それから先生のところまいりましてね。レントゲンでもとりますわね。っていいました。
レントゲンだけ撮っといて結果見やんと帰ってまいりました。
そして、すぐと3日の、「命の泉」の、祝賀会に私が出ました。
その時先生は、そのレントゲンをご覧いなってすぐと、聴診器と強壮剤を用意して、後ろで立っていたと言います。
もう子供のように、辯天さまのところに家を建てて、「私ら子ないんやから、先ずね、宗祖さんと管長さんや総長さんのところで死にたいね」っていう先生なんです。
ものすごう慕てはります。
笹川先生のお友達なんです。
で、絶えず絶えず行って遊んだり、またお手紙よこしてくださったり、今は1日に1本ずつ来ます。
毎日来てくださいます。
後ろに立ってくださっています。
これが済むなり、お手紙をよこして参ります。
その手紙を読むと「医者の立場では何ともいえん。非常に元気な顔して話をするし、あんたというものは、私は何10人もあれした解剖の大家で、ものすごい解剖を何回と阪大系統の人としてきた人。
何もかもしてきた私であるけれど、判断ができない。
医者としての判断はできません。
これはもう、神徳の致すところで、あんたはまったく神徳というよりほかにない」っていうことを何回も繰り返して書いておられるのを私読み、総長さんも管長さん読んだんですが。
その後も恐ろしいように私にいいます。
けど私、ご承知の、この本堂落慶の時の後日にも、全然食が越さなくなりました。
これは皆さんの、良く記憶に残っています。
全然食事が越さなくなりました。
それから皆さんが心配してくださりまして、その時に。
その時は、阪大の、京大のってあらゆるところでレントゲンを撮りました。
真っ白けになって写らない。
けど、ある名医は食道ガンとつけ、全然もう、泡ばっかり出て、何をいただいても越しません。
けれど、私は、これはもう疲労の積もりだと知っていましたし、
そしてその前も60日間ほど、白菜とおろしとばかり食べて60日、患らったことがありますね。
十輪寺から、十輪寺の御本堂の落慶のすぐ前後でございますね。
そうすると辯天さまは、これは非常に、そのお示しである。
その度に、非常に宗教が変化が来ます。
辯天宗に大きな、大きな変化が来ます。
それはものすご、そのつど大きくなるのですね。
おおきくなる。
その食道がそうなった時に。
それでほんとういったら、先生方の判断のできないところの、病気でないところの、ご法難って申しますか、私に対しての行って申しますか。
信者さん信者さん一円、皆様一緒になった。
これは1つのお示しだと私は思うんですね。
そうですからね。
熱もあるはずだけど熱もありません。
それじゃ食事が食べられないのならいいけど、平生よりすごく美味しくて、悪くないです。
それで拝もうと思ったら、もっと元気。
もっとこの間からもっと悪かったのです。
黙ってましたよ。
黙ってましたけどね。
この間奈良の三笠山の山焼きを拝見かたがた、あの、奈良の人の招待を受けまして。
奈良の支部の招待を受けまして婦人会でもってまいりましたときも、私が急な苦しみでどうなるかと思ったけれど、その明くる日から、もう倒れるかしらんと思いました。
どうもないんですね。
御祈祷してしまってしもうたら、どうもないんです。
ほんとうにね。
そういうようなことを幾日も繰り返してまいりました。
で、この度も明日からでも明後日からでも、もうすごく元気になっていますから、できないことはないんです。

6 信者への励まし

けれどもね、私いっぺん地下に入ったような気分で、皆さんの姿をじっと見ているんですがね、辯天さまはそうしていらっしゃるんじゃないかしら。
どんなみなさん信仰をなさるんやろ。私ね。死んでから発展して欲しくないんです。
これだけ苦労してきたんやもの。
私がこの世におる間に、皆さんがどんな信仰をなさるかしら、どんな因縁を取る信仰(を)するかしら、もし私が今日目をふさいだとなったら、皆さんよい因縁解かずして、シュンとなってしまう信仰をするんじゃないやろか。
こればっかり心配しているのです。
けれどもね。そんな人も中にはチラホラあるけれども、ほとんどそうではありませんね。
ないからこそ、こんなにたくさんお詣りくださるのですね。
幸いにね、皆さんね、あの、周囲の先生方、部長先生はじめ、周囲の方々、教区長、支部長班長さん方、また各位の信者さん方におきましては、手となり足となり、皆さん辯天さまの力を杖として、一生懸命にお導きしてくださいますね。
お働きくださいますんやもの。それにすがってみなさん、これからいかなけりゃいけませんね。
そして1人でも多く導いて、この有り難い、有り難い辯天さまのお徳をあまねく隅々までね、照らしめなけりゃいけません。
光の放つだけお話しいただかなけりゃいけませんね。
そして、その光をちょうだいせなけりゃいけないんですから、みなさんが。

7 私の身体を心配する母

そんなんですからね、私のことですから、もう何時でもと思っています。
せやけど総長さんは、年ね、若いですから、色々「医学的なこと、健康的なこと無茶苦茶してもろうたら困る。お母さん細長う生きてもらわな。
いっぺんに元気出して死んでしもうたら僕ようやっていかんからな。
今ごろ死なれたら僕はもうようせんで、もうフウッとなってしまう」って心配ばっかりしています。
もう私が拝むことはかえってね。それと一番心配するのはね。
89にもなったお母さんがおります。
このお母さんを置いて死ねませんものね。私は。
お母さんに一番不孝です。
一番やっかいになったお母さんに、一番善根を積んできたお母さんに「毎日こんな無理させたらお前はアカン、こっち帰ってきたら宵から一杯、またここで拝んで、あっち行ったら茨木で一杯、お前一体どうなるねん。そんなんしとったらアカンで」って私の前に付き添って言います。
そうすると私が何時でも、親不孝やな、これじゃ親不孝やなと思っています。
で、今ね、暫く休むと「当たり前や。
休み休み、誰もけえへんようになったってかまへん。
だれも来てもらわへんでもええねん」ってお母さんがいいます。
だれも来てもらわへんでもええねんて。
もう「おまはん長生きするのほうがええねん」て朝からいいます。
そんなことゆうてもろうたら私困りますねって。
「お母さん、私ね、昔ね、もう子供が泣くし、警察に引っ張られるし、もう拝むのを止めようと思うて止めかけたことがあるやろお母さん。
その時にね、あのね。
交通事故を起こしてきたり、総長さんが天王寺の病院入院したり、次の蘭子ちゃんもまた入院せにゃならん。家の中に不幸なことが次から次へと起こったやろ。
毎年続いて起こったやろ。お母さん人助けせんとこと思うたらそういうこと起こるのよ。
私はね、人間の身体しているけれどね。神に捧げたこの身体や。
そうせなしゃないよってしてるんやで」
「せやけどアカン。やぱり血が流れている以上、お前かて人間や。無茶苦茶なことしすぎる。
わしが一番ようしっとる」って朝からね。
夕べも私の腕を痛いほどつかまえてね、
「大勢けえへんでも構わへん。もうな。
特別にね、『来たろ』っていう人だけ拝んだったらええで」って、「こん人ほっといたらええね」ていいますけれど「そんな勝手なこといきまへんわ」って私な、いうたとようなことですけれど、お母さんが一番心配します。
それで、総長さんがとっても心配。
で、管長さんが朝からも、「わしね、ご宗祖休んでいたら仕事でけへんさかいな」って、ねえやちゃんにいっています。
「何で、何も別に私が休んでたかって仕事しておくれなはったらよろしはんね」っていうたらな「そやけでね、なにか知らんけど仕事おいといてできへん」何か知らんけれど、せえだいテレビの前来てテレビを見てます。
ほいてパチッとテレビをかけますから、「もうお前見やへんのか、テレビ」っていいますから、「はい、私テレビを見やしません」っていうたらね。
ほんだらね。「わしがおれへんさかいテレビ、見いへんのやろ。わしが付きおうて見たるさかい見よ」っていいますよって、「はあそうですか。それじゃあなたに付きあってもろたらおもしろいんでしょう」って夕べも笑ったんですけれどもね。
まあ、管長さんはふうっとうとうしい顔をしておいででも、結局わざとね、やはり元気づけようとしてはるのやろなっていうことが分かるし。
どこもしんどくないのですから、ああしんどてかなわんねん、かなわんねんっていうこともありません。


8 疲れてている身体

けれどもね。なんも一線にたって皆さんを助けとんのばかりが、私ではないんです。
私がね、これから地下に眠っても、本堂の中に入っても、奥にいてても皆さんがお祈りくだされば、皆さんをワァッと大きな光はなって助けるだけの力を持っています。
失礼ですけれど。
それを安心してください。
何にも病気ではありません。私はね。
疲れていますっていうことなんです。
五体全部疲れてしまっています。それはもう、私で分かってます。もうどこもかも弱っています。
弱るということは使いすぎたということなんです。
何年、32年ですね。
かぞえ年。ちょうど足かけ32年間。
もう本当に休みなしにやりました。
私ね。
いまから思ったら後悔しているのですけれどね。
この間、11月の末でしたか、12月の初めですか。母がね「私、足のゲンチョ(膝の意)が痛い」それでね。
薬を煎じて飲ませば、こんなことして、炭酸飲んで、砂糖ねずって、もう見苦しいことして薬飲みます。
薬大嫌い。
1本の注射もしたことのない母なんです。
煎じ薬でもおそらくそうですね。
茶飲み茶碗に3杯ぐらい飲んだでっしゃろか。
生まれてから。飲んだことのないですね。初めて「ゲンチョが痛い」いいます。
そして「母の友達が椿におるんで『来い』という手紙が来たので行きたい」っていいます。
それじゃあね。
汽車で行かそうと思ったけれど、ああいうところの宿も汚いことやし、ここに特別にお詣りくださいます社長さんのお顔をかざって、そして椿に私と管長さんと送ってまいりますのに、私と管長さんが、勝浦の支部に親教致しましょうと、その道すがら、寄りまして、母を送ってきて、そして私が椿まで行って、そしてそこに一泊して明くる日、私が勝浦に行くべく行ったんです。
ところが母は落ち着いてくれたけど、私がひょこっと廊下で誰かと出会ったですね、
信者さんと。
そして、そこに落ち着いたけれど、どうもしんどくて勝浦に行って話ができそうにないんです。
眠たいのとあれとでね、もう柱持ってパタンと倒れてしまうのです、眠たいので、これでは行けられないので、電話で勝浦に断りました。
気の毒だけれども、行きたいのだけれども。
その時は中尾先生も、野川先生もお供してました。
それで中尾先生も野川先生にもお電話しまして「ちょっと止めたい、取り込みもできたので」って電話をかけました。
そして勝浦の支部にも電話かけて、そして私が止めました。
そうてしますと、そこへ廊下でぴっちゃり出合ったという信者が入ってまいりまして、そしてあれやこれやと話している内に、あんまり疲れたのでということをよういいませんと「勝浦の支部行こうと思って出てきて、明日行きます」というたんですけど。
よう行かんと、そこに寝付きました。そこに一晩泊まって明くる日私はすっと五條に帰りました。
その時に私は思った。
あのときに、もう一晩あそこで寝たらこの疲れなかったのにと思うんです。
けれども、ちょうど月末で私のお休みの日でしたし、あのとき休んでいたらこんないやなかったのになと思っていても、出合ったのが信者さんであり、「また勝浦に行こうと思って出た身体であり、休もうと思ってきたんではない」思って帰ってまいりましたけれども、何という私って馬鹿な者やろな。
何も遠慮なしに遊んだらいいものを、何かしらね。“こうゆうところにお金使うことはいけない。
テレビを見たりすることはいけない。
贅沢な本を読んだらいけない。美しい着物を着たらいけない。
美しいもんを食べたらいけない”ってこういうふうに誰かが教えているような気分がするのです。
そないばっかり思うのです。
そして信者さんから与えられる着物も、与えられる衣も、与えられる美味しい物も、美味しくよういただけかないんやなと思うと、私はえらい因縁をもろうてんねんと思う。
これ私、ほんとに地獄の因縁だと思っているのです。私は私ながらにそう思っているんです。

9 信仰する信者のあり方

けれどね皆様、皆様かて私と一緒である間ね、共に苦労してもらわなけりゃいけませんのやから、皆様方だって。
私ね、参籠殿において油絵を習ったり、今日は踊りだって習ったり、ああ、今日はなんや俳句だって習ったり、まあその教養を高めるのはいいでしょうね。
いいですけど私は僻みますね。
なんで私が朝から晩まで信者のためにこのくらい苦労しているのに「絵習ったり、俳句習ったりする時は別の時間を与えてなんで習わないの。
この有り難い辯天さまのとこへ来て、もっとどして一生懸命拝まないの。
もっとどして一生懸命なお導きをするとこにその時間を与えないの」といいたくなるのですよ。
私は。
本当いったらね。
そうゆう僻みが来るのです。
それは私の大きな間違いかも知れない。
私も私ながらに絵も描き、喜ぶときは喜び、うれしいときはテレビも見、美味しいものを食べして、ほいて、人助けを喜んでしていたらいいのにと言う気持ちになれないのが、無教育の私の考えかも知れません。
けど、私は小さい時からなに贅沢を知らずにね。
ほんとにコツコツ、コツコツと働くことしか知らなくきた私は、なれないんです。
そんなに。
そうですからフワフワと歌うとたり、絵を描いたり、俳句詠んだりして遊びはる姿が恨めしいんです。
悲しくなるんです。
“何で信者さん、そういうことをするのか。
そういうことはめいめいの家でしたらいい。
ここに来るときは感謝の日である。
ここへ来るときは信心の姿である。
そして、そのままもっともっと活躍したらいいのだ”と思いたくなるのです。
皆さん違いまっしゃろか。
私の考えが違ったのかしらん。
そんなことも考えて僻んでもくるんです。
悲しくもなるのです。
それというのは、あまりにも私の生活に無理が生じているということなんです。
それで皆さんにこんな愚痴も言いたくなって。
この間、浪速千栄子さんが思わず口へ出て、それが京都の支部の感謝祭に、ある錦さんという熱心な信者さんが、「若い子はそういうことを取り入れんだらけえへん。
有り難い、今日は、有り難いさかいに」“ちょっと待ってください”「今日は有り難い話やさかい。
今日は有り難いことやさかいって体験ばっかりするのは能やない。
そやから、色々絵を描いたり、絵教えたり、色々したりして人を寄せよやないかという話をしたら浪速千栄子さんが『そういうことはええか悪いかよう言わない。
いっぺんな、辯天さまに聞いてみてやないと」というてましたが、
この間、命の水のときに、祝賀会の時にその話をなさいましたら、「後で聞いたら参籠殿でそれが教えている。茨木の方で教えている。
ここで教えている。
それが後になって大変迷惑した。私それ知らなんだんや」と知らないのは当たり前です。
浪花先生は京都の感謝祭をおっしゃったんです。
感謝祭は感謝祭。
その日に有り難い体験をお互いに話し合い、和やかに集い合い、そして皆さんをみちびき合ってすることが感謝祭なんです。
皆さんの有り難い話を語り合うのが感謝祭なんです。
それなのに、それをいったといって浪花先生かものすごい悲しい思いをしておられたんで「それは済みませんでした」といって、私謝っといたんですけれども、私の考えが違っているかしらとも思うんですけれども。
あるいは、私にも余りにも無理な生活のためにそういう僻みかも知れません。
けど、どうぞ皆様ね。ちょっとでも間があったらね。
ふじゃふじゃといらん話をしてお百度を踏むのやったら、草むしり一つするのがましでしょう。
ちがいますか。
ふにゃふにゃしたお百度踏んで、ふにゃふにゃ人にいらんことをいうてんのなら、ちょっとの草でも引いて、宗のためになるがほんとうの信心じゃないかしら。
もっと人のためになるようなことをやるように考えるのがあれじゃないかしら。
人、10人寄ったら、人のいらんことをいうたりするよりも、10人寄ったら、どうしたら人を助けられるだろうか。どうしたら人を導かれるだろうか。
どうしたら我が家が幸せになるやろかと、いうことを、ひとつ練ってみて、そして、確かにね、信仰して頂く。
私は元気になったらね、元気になってきました。お陰でね。
けれども、まあしばらくやすむかもしれません。
しかし、休むのみたいな問題じゃありませんよ。
絶対に、みなさん私は贅沢な休みはしません。
贅沢しようとか、そんなこと「せえ」っていわれても私の性格が許さないんです。
私はね、小さいときからの苦労はいまも忘れておりません。
そうですから絶対ね、皆さんのことも忘れません。
一生懸命にやりますからね。
どうぞ皆様もね、変わらない信仰で、今年は祈りである。
祈りでお陰をもらう年であるぞということをお忘れにならないようにして、しっかり信仰なされますことを、今日はお話申し上げまして、皆さんさよならいたします。
有り難うございました