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妙音新聞36号 第1 まごころを常に忘れるべからずNO2

昭和31年8月7日発刊妙音新聞36号 水のお諭し(4)

(編集項目:ブログ者記)
第1 まごころを常に忘れるべからずNO2
1) 水の流れにそった生活が本当の生き方
2) 放蕩息子への財産分け
3) 放蕩息子への愛のまごころを切らさない




※ 弁天宗の教理「五行のお諭し」に関するお宗祖様の初めてのお話しです。
この水のお諭しは更に充実し水の章となります。


1) 水の流れにそった生活が本当の生き方

前号から申し述べて参りました通り、私達の生活はこの水の流れに添った生活であってこそ、本当の生き方であると信じています。
弁天様の信者さんは、夢にもこのことを忘れてはならないと思います。
水の心が即ち弁天様の御心なのですから、それを忘れるということは、弁天様の御心から遠ざかるということになって参るのです。
前にも申しました通り、水というものは良く観て見ると弁天様の御心がよく理解されてきます。
その1つの形として水は流れ動いて行きます。
この流れ動く清い水の形が私が5つのお諭しの第1で申します「まごころ」なのです。
流れ動く水の姿は河川の水の流れであります。
この清い河川の水の姿が弁天様の生命であり、御心なのです。
とうとうとしてつきることなく流れる水の姿が私の申します「まごころ」なのです。
「まごころ」こそ弁天様の御心なのであります。
ですから、いくら祈ってもこのことが分からない方々はいつまでたっても、その苦しみ悩みを救って頂くことができないのでございます。「まごころ」のない祈り、そんなものは弁天様には何の意味もないのです。
「まごころ」というのは、この様に河川の流れの如く、いつでも新鮮でつきることのない清らかな水のような心なのですね。
私は五條の大橋の上を通る時、よく吉野川の流水を眺めるのでございますが、川の瀬は音を立ててサラサラと流れています。
その水はいつまでたっても変わらず川上から川下へと流れて行きます。この水音を、水の姿を千年の昔から幾万人の人々が、いや幾万人の人が心なく眺めてきたことでしょう。
こうして幾億万の人々が眺めている間に歴史は移り変わり、人の世の姿も変わって参りましたが、この吉野川の流れは変わることなく流れているのでございます。
その幾千年昔の人々が眺めたこの川の流れも、時と所こそ違っておりますが、川の流れそのものの姿に何の変わりもありません。
何という尊い悠久の生命でありましょう。
この尊い流れが弁天様の御心なのであり、これがこの世の中を支えている尊い生命なのでございます。
もしこの水の流れが切れて、水が切れるようなことがありましたら、川底がさらけだされて醜い姿になり、見る目も痛ましい姿を晒け出して川の生命を失ってしまう事でしょう。
川は永遠に切れない水の流れの生命であります。
この永遠に切れることなく続いて行く心が「まごころ」なのでございます。
「まごころ」とはいつまでも変わる事なくつづいて行く愛の心なのであります。

2) 放蕩息子への財産分け

ある親不孝の息子さんを持って苦しんでいる信者さんがありました。
この方は家は農家で、何不自由がないのですが、2人の息子の中、弟息子のBさんがとても親不孝で苦しんでおられたのです。
その家は財産について、ご先祖が因縁を積んでおられるという弁天様のお告げで、その因縁解きをするよう申しましたが、仏の供養をしたり色々祈願も致しましたが、仲々そのBさんの放蕩はなおりません。
この両親は、これほど信心しても何故なおらないのかと嘆かれています。
「因縁は仏の供養をしたのみでは取れません。
その仏が積んだ因縁の原因は『まごころ』をなくした行いによって生まれ、不徳を重ねたからでありますから、その償いとしてシッカリ功徳を積むことです。
息子さんを憎んではいけません。
嘆いてもいけません。
先祖が積んだ罪を『懺悔し』『まごころ』を行うことです。
息子さんが治らないのは、まだ自分達の『懺悔』や『まごころの行い』が足らないのだと考えなさいと申しました。
その後、その息子さんは、財産の分配を求めました。
私は「分けてあげなさい」と申しました。
その方は「Bに財産を与えれば猫に鰹節で直ぐなくしてしまう」と申されましたが、「財産があるということが幸福ではありません。
悪い因縁がなくなるということが幸せというものです」と申しましたので、その方は財産を分けられたのです。そしてその財産を以て東京へ出て商売をしましたが、どれもこれも失敗に終わってしまいました。

3) 放蕩息子への愛のまごころを切らさない

知らぬ他国で知る他人の無情!ヒシヒシと思う親の情け、乞食同様の姿になって帰ってみれば、兄息子は家に入れることを反対する。
親はどうしょうかと考え、弁天様にお伺いをされた。
弁天様は「頭を打って帰ってきた心を愍れんで助けてやれ」とのご神示で、家に入れることになりましたが、この時始めてB青年の心は迷いからさめたのです。
それから兄と力を合わせて懸命に働くようになったのでございます。
そのB青年は、いまでは立派な人になっています。
これでこの人の運命は立ち直って因縁が切れ一家はいま喜びに満ちておられますが、この両親の「まごころ」が途中で切れていましたらB青年の放蕩は治っていなかったでしょう。
河川の流れのそれの如く、どんなことが起きたとて、愛のまごころを切ってはいけないという弁天様の御心によって、この一家は救われていったのでございます。

by nohara4241 | 2008-01-12 08:05 | 水のお諭