19年水の章19講法話NO2

19年1月6日(土) 水の章19講NO2 K講師
(編集項目:ブログ者)
NO1 略
NO2
9 上が清まれば下も清まるなり。(49)
⑴ 上が清まるとは上が幸せになることです
⑵ 回りのあらゆる出来事を自分に起きたことと考えることのできる心
⑶ 一捨一得
⑷ 臨済宗の白隠さんの「そうか」で始まり「そうか」で終わった話し
⑸ 不離一体
10 己を清めんとて、手元に石を置きても、上の流れ汚れおれば、汚れはまた己に流れくるなり(50)
⑴ 己を清めんとて、手元に石を置きてもとは
⑵ 上に対するみちびきの関係
⑶ 感謝の心で上のお世話をする
⑷ 苦手な相手出来事にはどうすればよいか
⑸ 自分を捨ててご本尊様のお働きを意味を考える
⑹ 苦手なことに挑戦しましょう。




9 上が清まれば下も清まるなり。(49)

⑴ 上が清まるとは上が幸せになることです
ここも上下に分けて考えます。
色んなことが起きてもそれに対して感謝の心で尽くす行為や供養をやり、流れが変わるということ教えられました。
上は自分以外のものであり、社会や先祖であったりします。
この上の方々が幸せになるということは、幸せが上から流れてくるのですから自分も幸せになるのです。
上と下を、説明上別々の存在であるように説明しましたが、上が清まれば下も清まるということから、私は、上下は不離一体であると考えることが大事かなと思っています。
特にご先祖様に対する私の見方は、先祖供養という形でやりますが、私の先祖はここに(胸を指す→心)入っていると思っています。
墓とか仏壇とかではなく自分の中に先祖がおり、先祖と一緒になって自分は生きていると思っています。
先祖供養をするということは自分のことなのだと思っています。
ですから自分が一生懸命生きることは、ご供養であると思っています。
皆さん方もご先祖は自分の中に生きていると考えることはできませんか。
※ (宗祖伝の法難にある水死した霊の恩返しの話を始め、お宗祖様は霊は存在するといわれました。
従って思いや考えとは違い、先祖は霊魂の存在であり、私は霊魂と肉体の存在であると思っていますのでこの考え方には賛成できません。
しかし立原さんのような霊能力者が示すように霊魂と霊魂は相通じるものであるとも思っています。
しかし、心で先祖を思う、尊敬する、心から供養することには賛成します)

⑵ 回りのあらゆる出来事を自分に起きたことと考えることのできる心
つまり社会の色んな出来事は、自分とは関係がないということではなく、深く自分と関係した出来事なのです。
他人事ではなく、自分のこととして考えて行く心構えを持つことが大事であると思います。
自分のことのように考える。そういう風に心をたかめて行くことが大事ではないかと思います。
別な言葉では、弁天さまやお宗祖様に手を合わせます。
その神様に手を合わせる心で他人に、相手に接することです。
神様に接するときと同じ心で相手にも出来事にも接することができる方が信仰信心している方ではないでしょうか。
神様には手を合わせるが人には手を合わせないのではなくて、神様に手を合わせるように家族に、隣の人に、回りの方々に接して行く心をもつことが信仰の勉強であると私は思っているのです。
ですから、私たちの回りの出来事を自分のこととして考えることのできる心にする距離を縮めることのできることが大事であると思っています。
従って上下は不離一体なのです。
具体的にいいますとお宗祖様は「自分より他人を先に」とおっしゃいました。
自分より相手を幸せにするというのかでの「不離一体」です。それを考えますと、人様のためにの「ために」という考えはなくなって、人様と「共に」というふうに変わってくると思います。
何々のためにという考え方、表現をできるだけしないようにすることが私はいいかと思います。
何のために、あれのためにといいますが全部自分のためなのです。
ですからむしろ共にという言い方で受けとめた方が良いのではないかと私は思います。

⑶ 一捨一得
自分をなくすということでもあります。
余り使わないのですが、マザーテレサという方はコルカタ(旧カルカッタ)で沢山の方々を救われました。
彼女は36歳の時には、修道場(?院)の校長先生をやっていました。その人達(修道女)を連れてコルカッタのスラム街の貧しい方々のところに飛び込んで行きました。
自分の着ているものも含め自分を捨てました。しかしその代わりにしっかり神様の愛に包まれました。
一捨一得という言葉がありますが、私たちにも捨てるものかもっともっとあるのではないかと思います。
捨てられないと得られないそういう世界が信仰には必要かなと思っています。
皆様方の中でもっともっと捨てなければならないものがある。
それを一度自分で考えないといかないかと思います。
余りにも、沢山のものを抱え込んでしまって、そのために大事なものが入って行く余地がないのかもしれません。
自分というものを捨てたら、それを神様が拾ってくださるということがある。
私たちはもっともっと裸になったところを神様に拾って頂く、その神様にご本尊さまにすっかり包まれている。自分の都合を捨ててご本尊様の都合に合わせる。
それも捨てるでしょう。
そういった意味合いの捨てるということを私たちは1回考えることが大事かなと思います。

⑷ 臨済宗の白隠さんの「そうか」で始まり「そうか」で終わった話し
こんな話があります。江戸時代の臨済宗のお坊さんで白隠さんというお坊さんがいました。
この方は10年100年に1人というより500年に1人の逸材であると評価された方です。
静岡県ですね。
駿河の国にすぎたるものが2つある。一つは日本一の富士の山、もう一つは原の白隠といわれました。
その白隠さんに立派な坊さんというという名声がでてきました。
白隠さんの教えを信仰されている家族があり、特にお父さんは熱心でした。
その家族のお嬢さんのお腹が大きくなってきた。
結婚もしていないのでお父さんはびっくりしました。
お前それ誰の子だお父さんに言われ、叱られるのが怖く、お父さんが信仰している方であれば良いだろうと考え、白隠さんの子ですと答えました。
お父さんはびっくりしてしまいました。
今まで熱心に信仰していた白隠さんがこんなことをするのかといって、生まれた赤ちゃんを白隠さんのところに持って行き、お前の子だからお前が育てろといいました。
白隠さんは「そうか」といって受け取るのです。
受け取ったのでやぱり赤ちゃんは白隠さんの子だということで名声は低くなり、お寺へのお詣りは少なくなり、どんどんみんなの評判は落ちて行きました。
しかしそれでも白隠さんは、そんなことをするはずがないという方々もいましたが、名声は瞬く間に落ちました。
しばらくして白隠さんがその赤ちゃん負ぶって托鉢に行きます。
冬でもねんねこですか寝それを赤ちゃんの上から着て托鉢に行きます。
その姿を見ていた赤ちゃんを産んだ娘さんがこれは申し訳ないとあの子は白隠さんの子ではなく別の誰それの子であると本当のことをお父さんに話しました。
お父さんはびっくりして白隠さんのところに行き平謝りに謝って、どうかその子を返して欲しいといいますと白隠さんは「そうか」といって赤ちゃんを返したそうです。
これは「そうか」で始まり「そうか」で終わった話しといわれています。
これは大事なものとそうでないものを分けた話なのです。
何が大事で何が大事でないか私たちは見極めて行く必要があると思います。
名声とか人の評判とかを白隠さんは、本質ではない。
赤ちゃんの命が大事と受け取ったのですね。
他人が自分のことをどういうか等は全部捨てたのです。
ですから私たちは捨てるものと掴むものをしっかり自分の人生で見極めて行く必要があろうと私は思います。
もっといいますと捨てるものと持っているもので人を見たらだいたい分かります。
あの人はこういうものを捨てないのだな。
こういうものを捨てるのだなということでだいたいその方の人生観が分かります。
何をしようとしているのか何をいおうとしているのか。
ですからどうか皆様方みんな見られているのですよ。
この様に私たちの一番大事なところを捨てるということと得るということそのことで見極めて行くことが必要であると私は思うのです。

⑸ 不離一体
自分と周囲を切り離すのではなく、自分のこととして考えて行く習慣が、私は上下が不離一体であるということの背景であろうと思います。
自分と自分以外のものとの関係をこの様にしっかりと掴みたい。
そしてその2つを、上下を不離一体にするために、相手を生かし自分を生かすために、石や小砂利を置くのですが置こうとする心が感謝の心でなければならないのですね。
置く行為や内容ではないのですね。感謝の心で置くから流れが清まるのです。
相手も自分も生きる関係が生まれるのですね。どんなとこでも、どんなことでも感謝できる心にする、心を磨くことが、私たちが創造的な生き方をする元なのですね。

10 己を清めんとて、手元に石を置きても、上の流れ汚れおれば、汚れはまた己に流れくるなり(50)

⑴ 己を清めんとて、手元に石を置きてもとは
これは、自分だけが幸せになろうと思って、対処することです。
ところが先ほども申しましたが、私たちは1人では生きて行けない世界に住んでいますから、自分だけの幸せというのはないと考えることが大事だと思います。
みんなと一緒になって生きているのですから幸せもみんなと一緒になって作って行くのです。
ですから大事なことは自分と上との関係です。
この上と自分との関係をどう作るかということが大事ないです。
1人で生きて行けませんから、上である自分以外の方々、代表的な社会とか、先祖とかと自分とはどういう関係を持つかということが幸せを作るときの基本であると思います。
そしてお宗祖様はこれを、「自分より他人を先に、それがあなたを幸せにする道です」と表現されました。
上を先に幸せにする。この生き方があなたを本当の幸せに導きますとおっしゃったのです。
相手を先に幸せにする生き方の中に私たちの本当の繁栄がるという関係をこれから築いて行こうというのです。

⑵ 上に対するみちびきの関係
まず相手ですか、代表として相手に対しては、社会に対しては、先祖に対してはどうするか。
これは自分以外の方々に対して、みちびきという関係でよいと思います。
相手の本当の役に立つことです。
節分の時には、お宗祖様の残された喘息のおまじないがあります。
薬室で売り出しました。
ご近所で困っている方がおられたら飲む飲まないは別にして、こんな薬があります飲みませんかと教えて上げることです。
今の私たちは知らん振りをします。かかわらない、私には関係がないと言うふうな自分がおおございます。
そうではなく飲む飲まないは別にしてこんなのがありますがどうですかといって教えて上げる。
この生き方が私たちには必要です。信者であるないは関係ありません。
困っている方にいかがですかと聞いてみる。飲む飲まないは相手の判断です。
しかし教えて上げなければ相手には分かりません。そういうことをすることがみちびきであろうと思います。引っ張ってくることではなく持って行くことがみちびきです。社会に対しては奉仕であり、ボランティアです。
地域活動を通して私たちは少しでもさせて頂く。
ご先祖様はいうまでもなく供養することです。
こうゆうふうな上に対する私たちの関係作りをして行くのです。

⑶ 感謝の心で上のお世話をする
もう一度申しますと上を先に幸せにするのですから、今の自分の状態を考えず、困っている方々がおられるならば、お世話をして上げる。
社会に対しては自分のできる奉仕活動やボランティア活動に参加するということ、地域の行事に参加してお世話をさせてもらうということです。ご先祖様に対してはしっかり供養をするということです。
これらの一番ベースになるのが、感謝の心でするということです。
感謝の心のこもった石や小砂利というのですから、この感謝の心でお世話をする。奉仕をする。
供養をすることが大事だろうと思います。
ところが、人間ですから感謝しやすいときと、そうでない苦手な相手が出てくることもあります。
自分とは相性の良くないという方がおられます。
しかし苦手な相手がいた場合、私は何時もこういうときはこう考えます。

⑷ 苦手な相手出来事にはどうすればよいか
12年前に東京にまいりました(転勤した)。その時は10月22日に行ったのですが、管長様から東京へ行けといわれました。普通の4月などの定期異動でなく突然でしたので、何故こんな時期にと思いました。
こっち(五條)に来たのは(去年の)12月の9日ですから余り変わらないですね。これも何故なのですね。
(東京に行ったときは)何故こんな時に異動なのだろうなと思いましたが、私の誕生日は1月です。
東京の渋谷では誕生日検診があったのですが、翌年行かず1年3ヵ月後の翌々年の1月の検診してもらいましたら、東京の女子医大で胃ガンの再検査を受けました。
胃ガンではなくあなたは1年半位前までは胃潰瘍だったですね。
その胃潰瘍の自然治癒した影が今回映ったのですねとお医者さんからいわれました。
私は胃潰瘍をしていませんといいましたらお腹の中のキズの状態は胃潰瘍であったことを現しています。
あなたはご自分でわからなかったらこういう症状ですから家で奥さんに聞いてくださいと言われました。
1年半前に生活の変化があったのですね。
それで助かっていますね。それがなかったらあなたは多分倒れていたでしょうねとお医者さんにいいわれました。
帰って妻に聞くとその通りだそうで、何故言わなかったのかと言いますとあなたは言っても聞かないからといわれました。その通りなのです。
映ったのはその年だけです。
これはあなたは胃潰瘍だったのですよ教えてくださっているようでした。
ですから、何故この様なときにと思いましたが、異動という出来事にはご本尊様からの意味が含まれていたのです。
従ってそれから何故この様なときにこれをするのかご本尊様のさせる意味は何なのか考えるようになりました。
これには意味があるから出来事を受け入れる、肯定することにしました。
その肯定の奥はないかと申しますとご本尊様です。
ご本尊様がそこにはいらっしゃる。自分がご本尊様のいらっしゃるところに入ったのだ。

⑸ 自分を捨ててご本尊様のお働きを意味を考える
自分を捨ててご本尊様のお働きを先にするという考えに変えたのです。
15年前は何故だといったのですが、こちらに来た12月の時はハイといってきました。
それは14年間の東京暮らしでご本尊様のお働きである沢山のお陰を見てきたからです。
本当に間違いと思うようになり、0とは言いませんが、何故だという気持ちは少なくなりました。
皆さん方も何故という考えがでてきます。
しかしご本尊様のお働きがある、その意味は何かということ考えることを皆様方の多くの信仰体験を通して培うことができたら、感謝の心が湧いてくるような見つめ方ができたら良いのになぁと思います。
因みに、無関心とか、私には関係がないとか、避けるとか、逃げるとかこれは全部腐り、その腐りが大きくなります。
苦手であったら苦手がどんどん増えてきます。
嫌であればどんどん嫌なことがふくらんできます。
避けるとか、無関心を装うとか、逃げるとかはなんにも根本解決にはつながりません。

⑹ 苦手なことに挑戦しましょう。
どうか一つ勇気を持って、ご本尊様がいらっしゃいますから私のように嫌なことでもこれにはきっとご本尊さまの意味があると考えて頂き、それに向かって行かれますと必ず、ご本尊様が私みたいに教えてくださると思いますので、色んな悩ます問題に取り組んで行きたいと思います。
お宗祖様から濁っている根本を清めてこなければ自分は澄んできませんと教えて頂きました。濁っている根本を清めて行く力は、やっぱり感謝です。その感謝は私たちの心にあります。感謝は、お世話をする行為や、奉仕、供養の行動の中にはありません。私たちの心の中にあるのです。感謝は相手や上からいただくものではなく、自分であるかないか探してなければ見つけるのです。起こってきた事柄に感謝する心で取り組みましょう。病気が起これば、病気には感謝はありません。熱が出る、咳が出る。しんどいことです。嫌なことですが、それをどう受けとめるかによって感謝が出てくるのです。私たちの心にあるのです。間違わないでください。
自分の中に持っている力を存分に使って、苦手なことにひとつ挑戦して頂きたい。そして感謝を見つけて、そこから創造的な人生を作って行きたいなと思っています。

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by nohara4241 | 2008-01-05 16:31 | 法話水の章