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妙音新聞24号 先祖の恩を知って敬え

先祖の恩を知って敬え (昭和28年4月、妙音第24号) 

◎十訓(五念五果に替わり新聞の1ページに掲げられた言葉) 
1 実在する神仏を信ぜよ
2 生命の尊きことを想え
3 喜びも悲しみも因縁なると悟れ
4 先祖の恩を知って尊べ
5 施しを惜しまず、良い因を作れ
6 導きは謝恩の誠なり
7 足運びを法縁のつながりとせよ
8 先ず怒りの心をしずめよ
9 恨みの念を忘れるに努めよ
10 邪な思いは不善の原となる。

祖先の恩を知って敬え   神代 智辯尼
(編集項目:ブログ者)

1 祖先と50回忌法要
2 系図がなくとも皆一様に優劣新古の差別のない祖先を持つ
3 私達の最初の祖先は仏
4 仏事法要は祖先が仏果を得るため
5 祖先は私達であり、私達が祖先




1 祖先と50回忌法要

私達が名のために祖先の恩を謝し、そのために霊を敬わねばならないのか。
これは非常に難しい事柄でありまして、このことにつきましては、多くの人と申すより、その殆どの人は自分の祖先と言うことに無関心でありまして、祖先をわきまえぬように考えられます。
祖先の恩に謝し、敬うには自分達の先ず祖先を知らねばなりません。
私達が常に口に致します祖先というのは、私達のごく近い祖先に限られて申すのであります。
第1には自分達の父母であります。それから祖父母、その次は曾祖父母位を限度とした祖先であります。
中には7代前とか、10代前に居られた祖先を語られますが、その祖先が特に社会的に特別な働きがあって歴史に伝わった人のことを語るのであります。
自分達から2代3代位前の祖先のことは父母から或いは祖父母から聞かされて、子供心にも曾祖父母のことは親しみをもって知っておりますが、それより前の祖先のことは知らぬままになっているのが常のようであります。
仏事法要に致しましても、50回忌をもって一応法要が終わったことになっております。
普通50回忌を済ませますとその位牌は寺におさめたり、或いは仏壇より取り除いて片づけられるのです。俗世の習わしによって50回忌の法要をもちまして祖先に対する恭敬の霊を終わりますのは種々な事情の上と考えます。

2 系図がなくとも皆一様に優劣新古の差別のない祖先を持つ

例えば幾代を続く忌日命日を弔いますのは全く煩わしいことでありましょう。
或いは50年の間にはその霊の納まるべきところに納まった事として法要の用がなくなったことにも考えられるのであります。
こうした法要の行事もその供養する人の身近な仏に限られておりまして、それより前の古い祖先は次々に忘れられて行きます。
もしそれより古い先祖を知っていたり、又は話題に上がるのは、その人の家は特別な家柄であって、何10代も伝わってきたという家系図を持つ家であります。
こうした系図を持つ家の祖先は、子孫のために系図を書き始め、そして代々の子孫がこれに1代1代を克明に書きつづってきたものです。
私の祖先は、天彦屋根の命の何代の孫藤原鎌足の何10代の家柄だと言っておられます。
しかし、この由緒ある系図と申しましても1000年か2000年位の日本歴史始まった以来のことです。
系図のない家には祖先はないのでしょうか。
系図を持たぬ家の祖先はそうしたことに無頓着で子孫に系図を残さなかっただけで、系図の有無によって祖先を語るにその優劣を区分することはできないのです。
しかし、これも2000年余りの祖先を知るだけの事であります。
私達の祖先はその家柄によって早くから祖先を持ったり、或いは途中から祖先ができるものなのでしょうか。現在この世に生きておりますいずれの人にも皆一様に優劣新古の差別のない祖先を持っているのです。

3 私達の最初の祖先は仏

私達の祖先は、2000年や3000年前に生まれたものではありません。
それでは私達の祖先は一体いつの頃から始まったのかと申しますと、それはいかなる科学者も測り知ることのできない久遠の昔……。
即ちこの世が始まった時よりですから歳月にしては幾億年か幾10億年の昔から私達の祖先は正しく伝わってきています。
科学者の一部では人間の祖先はアミィバーであって、それが段々進化して今日の人形に達したのであると申しております。
この人間の進化論は科学者の推測に任せいたしましても、最初の祖先は仏であるのです。
その仏より別れた私達の祖先は、親は子を産み、その子が親になる一定の規道を何万代、何10万代繰り返して今日にいたっています。
ここで重ねて申し上げますのは、この世で正しい系図を持った人は古い祖先があって、橋の下で雨露を凌ぐ貧しい人は天から降ってきたのでも、地の底から涌いてきたのでもありません。
やはり親から子への道筋を通ってきています。
1組の親が2人3人の子を産み、その2人3人の子が矢張り3人4人の子を産んできたのです。

4 仏事法要は祖先が仏果を得るため

更に存命中仏果を得られずに外道に生を受けた人もないとは限りません。
ある人は、この世に非常な亡執を残した霊やこの世を呪って死んだ霊などは定められた六道にも行けずこの宇宙の迷い霊となって祟り障りをしているのもあります。
こうした亡執の霊が種々な災いをその子孫に与えていても子孫である人は凡夫の浅ましさにその因縁を知ることができずして苦難に泣き暮らしているのです。
成仏をとげた人、又は人界に還元した人以外の外道に落ちた霊や迷い霊となっている祖先が少しでも仏果を得られるように追善供養したり、或いは施しをして、その霊が落ちた奈落より浮かび上がり、又は迷うより逃れてその落ち着くところに往かしめるために仏事供養を営むのであります。

5 祖先は私達であり、私達が祖先

こうして私達の因縁、即ち私達の祖先の因縁を仏に縋って解いて頂くことによって今世の苦しみを救われ、更に今世の幸福をそのままに、今度の往生の一大事には安養の浄土に導いて頂かねばなりません。
私達が現世を幸福にそして来世を救って頂くには、必ず祖先の因縁と切り離しては得られないのです。
もっと簡単に申し上げますと祖先は私達であり私達が矢張り祖先であって、決して祖先と私達は別々のものでないということを深く心に悟らねばなりません。
これを知りますと祖先を尊び敬う事の理が自ずからお分かりになると存じます。
このことは大変難しい事柄でありまして、お話も十分言い現しかねますが、
最後の申しました祖先と自分とは別々のものでないことをお悟り下さいますと自然にご理解になって1日1日が信仰の心なくして過ごされない厚信の心にはいることができると存じます。