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妙音新聞18号 足運び

足運び (昭和27年10月、妙音第18号) 神代 智辯尼
◎ 五念と五果
○ 信仰の念は………福徳の因となる
○ 慈愛の念は………仏果を得る
○ 和合の念は………発展の因となる
○ 懺悔の念は………罪障を解く
○ 不平不満の念は…不幸を招く
(編集項目:ブログ者)
1 足運びが遠のき救われない方がいる
2 衆生済度の誓願で弘法大師が勧請された神様
3 足運びは、信仰の心を緩ませない
4 人間は沢山の業報(悪因縁障り)を持つ身
5 心と行いで救って頂ける堅い信仰を築く




1 足運びが遠のき救われない方がいる

ご参詣されてご神示を受けられました方に、お足運びをするようにお勧めいたしております。
足を運んで下さいと申しますのは、ご信仰が薄れませんよう信仰を重ねて頂く事をお勧めいたしているのです。
私を通じて弁天様のご神示にお仕えいたしまして18年になります。
この間に数限りなく参詣されております。そして随分難儀な事を救われた方も数えきれぬほどおられます。
こうして毎日増えて参ります。
参詣の方の信仰の様子を考えますと、何と申しますかある淋しさを覚えます。
その淋しさと申しますのは信者の信仰する心が定まらないからです。
何か出来事が起こった時は弁天様でなければとお縋りに参詣されます。
そしてその出来事を弁天様のお慈悲で救われた時は、弁天様のご恩は一生忘れませんと泣いて喜ばれます。
しかし、この救われた喜びも、弁天様のご恩も当分の閒で、日が経つに従っていつの間にか夢の如くに忘れて、参詣の足運びがなくなります。
そして忘れた時分に、又何かの出来事に対してご神示を求められるのです。
信仰とはそんな考えでよいのでしょうか。
こうした信者の心の持ち方は、丁度弁天様のご神示を一種の職業かあるいは商売と思っておられるのではありますまいか。
お医者様ならば、病気の時に頼めばよいのです。
又占い者でありますれば、何か迷うような事柄ができました時に易を見てもらえばよいのでしょう。
弁天様のご神示をこの様な職業や商売を同じように考えられているかの如く見受けるのです。
神や仏の慈悲は何か出来事があった場合だけ、救いを求められるのが悪いと申すのではありません。
弁天様のご神示は永久に続くものではありません。
今私を通じてのご神示も幾年続くことでしょう。
長くとも私の1代に終わるのではありますまいか。

2 衆生済度の誓願で弘法大師が勧請された神様

弘法大師が今の世の衆生を済度せられますお誓いによって、1200年前に勧請されたのであります。
このお誓いの時が来て、この私を通じてご神示があるものと考えます。
即ち衆生を仏法に帰依せしめる仏の方便であります。
私が皆様にお足運びをお勧めいたしますのは、このためであります。
もしご神示を受けられなくなった時は、皆さんどうされます。
現在のような信仰でありましたらご神示の終わった時から、弁天様への信仰が絶えるのではありますまいか。そして種々の業報に泣き苦しまねばなりません。
弁天様のお慈悲はそんな浅いものではありません。
一心にお縋りする人はことごとく助けて下さるのです。
信者の皆様は本当の弁天様のお慈悲を弁えずして、只々ご神示に参られます。
これでは弁天様の方便のご利益も、又弁天様のご利益をも心から喜び心から信ずることができませんから、その信仰も一向に定まらず。
遂に弁天様にたすけて頂くことができないこととなります。
それが私にとって淋しい思いとなるのです。
ご神示によって弁天様の不思議なお慈悲を得られた方は弁天様は実在しておられることを信じて、その時だけの信仰ではなく、常に忘れぬ怠らぬ信仰をして頂きたいのです。

3 足運びは、信仰の心を緩ませない

弁天様の有り難いお救いを得られた方はその時の嬉しさをいついつまでも心に刻み込んで寝ても起きても一寸の間も忘れないで信仰する心組みでありましても、毎日の忙しい活きた社会に生活されますとその忙しさに知らず知らずのうちに信仰の心に緩みができてくるのです。
忙しい人は1年目とか3年目とかに参詣されるのです。
それも只弁天様への報恩の参詣ではありません。
必ず何か新しい出来事のご神示のためです。
なるほど日常の生活に追われ参詣の足が遠のくのは決して無理のない事とも考えられます。
しかし、忙しいからといって、何か不幸なことか又は自分の思案に余る出来事が起きた時は、忙しいのも都合が悪い事も、何とか差し繰りをして御神示をうかがいに来られます。
これを考えますと忙しいからお詣りができないということも、自分勝手なことではありますまいか。
忙しいには違がありませんがどれだけの道程がありましても、又いかに忙しいと申しましても1ヵ月30日の中で半日や1日を信仰のために費やし参詣できないこともありますまい。
私の申し上げる足運びされますことは、皆様方の信仰の心が緩まぬように申し上げるのです。
忙しい中から今日は弁天様にお詣りしてくると家を出て弁天様に参詣されます。
その行いとその心は弁天様を忘れていない証です。
そして次のお詣りまで何日にはお詣りせねばならぬ、明日お詣りしましょうと思う心が弁天様への信仰の薄らぎを引き止めることになります。

4 人間は沢山の業報(悪因縁障り)を持つ身

私はなぜにお足運びをして信仰を深めて下さいと申しますと以前に業報(妙音6号)ということで詳しく申し述べてありますが、今一度ここに重ねて申し上げます。
ご神示を願われる方の大部分は何かの不幸な出来事であります。
この不幸な出来事は、その人の因縁のあらわれであります。
前世で造ってあった罪、又は今生で知って造った障り、知らず知らずに重ねた科の報いであります。
人間の持つこの因縁は1つや2つではないはずです。
その沢山な諸処の業は一時に現れてその報いを果たすのはありません。
1つ終わって又1つとその時その時に現れてくるのです。
前に現れた業はその時弁天様にお縋りして救われたのです。
そして何ヶ月か幾年の後に再び別な因縁によって苦難を受けることになるのです。
皆様の今の信仰の姿では、1つ1つの因縁をことごとく受けられて、その度に参詣されて、弁天様にたすけて下さいとお願いしておられるのです。
因縁の現れた時に救っていただけばよいといわれるかも知れませんが、もし、弁天様へお詣りして救いを求められるのに、間に合わぬ出来事が起こった場合を考えますと、本当に気の毒でなりません。
あるいは信者の皆様方は因縁ということが分からぬので、案外気に止められておられないようですが、この私にはそれが手に取るように分かりますから、全く信者の皆様方のことを思いますと夜も眠られない事があります。

5 心と行いで救って頂ける堅い信仰を築く

皆様が1度でも多く足運びをされまして、皆様方の信仰が揺るぎない堅い信仰に徹して下さると諸処の業は小難は無難となって皆様方の知らない内に過ぎ去ってしまいます。
又大きな難は小難として救われます。
常に信仰しておられる人には頓死ということがありません。
いよいよ生命終わりの時は家族の人に看護されて大往生が遂げられます。
毎日の如くに大勢の参詣者が詰めかけられます。
この気の毒な人達に私の身体の続く限り奉仕したいと思いますが、何分時間にも限りがあります。
また私の体力にも限度がありますので1日90人に制限いたしておりますから、ご神示に洩れて(くじ引きでご神示の順番を決めていた)不本意に帰って行かれる多数の参詣者を見て本当に気の毒に存じているのです。
もし私のお勧めするお足運びによって常に信仰の誠をされておられましたら、古い信者の方の殆どが不幸によってご神示を受ける必要がなくなるのではありますまいか。
そして新しい本当に困っている参詣者に弁天様のお慈悲を得さして下されば、ご神示の札も幾分楽になり、そして大勢の人が救われる事になります。
このままで今まで通りの信仰を続けられますと、ご神示を受けて頂くのがますます不自由になって参ります。
このご神示が不自由になって参りますと、ご神示のみに頼って足運びをしない信者は追い追いと参詣が遠のいて、ついには弁天様とのご縁もたれることとなり、弁天様のご慈悲から洩れることになります。
どうか皆様信仰は口だけの信仰でなく、行いと心の信仰となって下さい。
これは決して誰のためでもありません。
みなあなた様ご自分のことであります。