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18年宗祖伝16講法話

18年11月25日(土)宗祖伝16講 I講師の講話
(編集項目:ブログ者)
1 本堂改修と弁天講
⑴ 本講について
⑵ 信者による十輪寺本堂改修
⑶ 信者林房太郎さん 
⑷ 信者の報恩感謝の真心
⑸ 無償で格天井を直す大工さん親子
⑹ 本堂改修とおばあさんの寄付
⑺ 韓国人の信者さんの寄進で完成
⑻ 助け合い励まし合って功徳を積む弁天講を組織
2 支部への御親教
3 保育園の開設




1 本堂改修と弁天講

1) 本講について

十輪寺の屋根の改修工事を介してお宗祖様は気づかれました。御神示を通して皆様方に降りかかる火の粉を幾らでも、払いのけて上げましょう。でも、この払う手を辞めてしまうと降りかかる火の粉を食い止めて行く手だてを私はみんなに教えていなかった。むしろ、払うよりもその火の粉が落ちてこないようにする方法を、私は皆に教えていなかったと言うことを痛切に感じられて行くのが、この「16講教えの道へ」です。
いまで言う功徳を積むことによって、本当の救いがもたらされる。本当の幸せを得て行くことができるということを教えていなかった。御神示で救って行くのみの人助けであった。もともと昭和9年ご本尊様とお宗祖様がお出会いしたときにご本尊様はなんと言われたのか。「水の心を心とせよ。水の心のあるところそなたとともにあって現世苦行を滅するであろう」といわれています。いわゆる御神示を通して救うと言うことは、1つの方便であって、水の心を心とすれば、必ずご本尊様はそなたとともにあって
すべてを叶えてくれると言ったことをみんなに伝えていなかったということをお宗祖様は反省されるのです。当時は、警察の取り調べを受け、家庭ではごたごた続き、色んな出来事が周辺で起きました。教えを伝えて行くよりも、毎日、お詣りする信者さんの悩みや事情を聞いていると、ご本尊様のお力にすがり、教えよりまず救って上げなければと言う気持ちが強く、一心に人助けをしてきたお宗祖様でした。
このことを教えなさいと言うご本尊様からのメッセージでなかったかとお宗祖様は気づかれるのです。ご本尊様に何という申し訳ないことをしてきたのだろう。ご本尊様はみんなに何を伝えよと言われたのかということを反省され、教えの道へと進んで行かれるところがこの講です。
2) 信者による十輪寺本堂改修

時代背景は戦争です。昭和20年3月東京が空襲の被害を受けます。続いた大阪に空襲を受けました。大都市が焼け野が原となりました。その年の8月に広島長崎に原爆が投下され、都市が壊滅し戦争継続意欲を断念させられ、無条件降伏し、終戦となります。そして、毎日のお米にも困り、人は生きる希望を見いだすことができず。今まで以上に苦しむ人が増え、頼るところは、神仏になって行きます。そのような中十輪寺では、霊顕あらたかなお宗祖様の前には、噂を聞いた苦しむ方々が救いを求めて日増しに増えてきました。いままででしたら1日40~50にという人であったのが、100人を超える人が毎日十輪寺に訪れるようになりました。今日救ってもまた明日救わなければならない。明日救っても明後日はまた救わなくてはならない。見る顔は違えども人の波には違いないという時代でした。なんぼ救ってもきりがない状態でした。そんな中信者さんとは有り難いもので、おかげをいただいたら感謝を形に表したいという方が沢山増えてきたのです。お宗祖様にご本尊様に何か報恩したいという声が出てきます。それが十輪寺の屋根の改修工事へと成って行きます。十輪寺というお寺は、享保2年(1717年)に1回改修工事を行っただけで、昭和20年(1945年)を迎えましたので、228年経過したお寺です。
如意寺の本堂の屋根は、霊顕66年祭まではとても無理だという専門家のご指摘をいただき、平成元年の宗祖霊顕55年祭の時、皆様の真心で改修しています。この本堂は、昭和29年に完成ですから約30数年経過しての改修です。屋根瓦の耐用年数が過ぎていたのです。これから考えますと十輪寺の屋根は想像できると思いますが、瓦は割れ、屋根に草が生えている状態でした。お宗祖様の話では、雨が降ると家の中にある器という器全部並べなければならないほどに雨漏りがしたそうです。そんな現実の中、100人もの人が詰めかけました。十輪寺の建立の目的は、説教寺ではなく、人を大勢集めて行う御神示のためのお寺でもないのです。檀家さんを中心とした。また昔は僧侶行場として建てられていますから、多数の人が集まるのには不便なのです。20くらいの人が寄り集まれる小さなお寺です。気候のいいときはよろしいにですが、雨が降ったり寒いときは軒先で、境内で、塀で御神示の順番を待たなければならないので、大変でした。
終戦前後は、家族が出征してその安否のご神示を受ける人が多かった。十輪寺では本堂のほかに8畳の庫裏(くり)が2間で狭すぎたし、雨の日は雨宿りする場所もなく皆が困ったので、西吉野村の方が材木を寄付し、和歌山の方がその材木で、十輪寺に入って左手の「待合室」を建てました。
おかげをもらいたい方にはあついさむいは感じられないかも知れませんが、報恩感謝したい方から見れば、何とかしたいという気持ちになられるのが当然です。そんな信者さんの真心が集まってきます。何とかしようよお宗祖様といいますが、信者さんにお金を出してもらうことはできない。待って、私に力が付いたときに、させてもらう。いま信者さんに無理は言えヘンとお宗祖様は断り続けるのです。しかし現状がありますので、世話人さん10数名の方が発起します。林房太郎さん、河内長野の北野さん、王子の谷さんなど大きな御利益をいただかれた。命を救われた方々ばかりです。これらの方の下に、当時数百名の信者さんが集まり、させてもらうとお宗祖様も申し込まれます。そんな中で、改修工事が進むのです。

⑶ 信者林房太郎さん 

林房太郎さんは、始めて十輪寺の門をくぐったのは、2番目の娘さんが当時不治の病に冒され、医学では絶対に治らないと言われた病気(ぶどう病?)でしたが、お金がありますので、有名な病院を転々としますが、治らないと診断され、夫婦で悩まれます。(奥さんの)実家が五條の近くで、教会もできていますほど信者さんの多い町です。当時も弁天講ができたときも待ってましたとその町に講ができる町でした。そこへ帰られたときに、大和五條の十輪寺というお寺に大変有り難い弁天さんが居られるんや騙されたと思って、いっぺん行ってこいと言われ、夫婦はわらをもすがる思いで十輪寺の門をくぐります。お宗祖様にお出会いになり、お宗祖様から助けてあげますといわれます。どこの医者に行ってもアカン、何の手だてもできないと言われた娘さんが助かるのですから、喜ばれたことだろうと思います。2週間でおかげをやる。この薬を飲め、足を運べといわれといわれました。必死の思いで夫婦は足運びをします。2週間で、治らない病気が嘘のように全快し元気な身体をいただかれるおかげをもらいました。あきらめたらイカンナと思いますね。そして有名なお話しです。大阪が火の海になるから、早く疎開せよというお指図です。あんた私が言うたことをしてないでしょう。早くしなさいと怒られ、大急ぎで我が身、社員を疎開させたところ、翌日空襲があり焼け野が原になります。熱烈なお宗祖様の信者さんになられます。

⑷ 信者の報恩感謝の真心

そんなお方ばかりですから、お宗祖様の御神示の道場である十輪寺を修復したいという気持ちが強いのです。改修工事をするのに当時20万円が集まりました。信者さまの真心をいただき、お宗祖様は申し訳ないと思いつつ、改修工事に入ります。
昔の大工さんは、材料を買い、働く手下の大工さんの給金が入りますので工事費は分割前払い方式でした。改修改築すると高くなると言う話のように、お宗祖様は傷んだところだけ直してもらうおつもりのようでしたが、約200年以上たったお寺の改修ですから、屋根の瓦を替えますと重たいので柱を直さなイカン、壁をなおさなイカンとなり、思いもしない工事が出てきて、予定を越えましたので、資金が足りなくなりお宗祖様が悩まれました。いままで、黙っていた檀家さんが、棟はあがったけれど、資金繰りができずほったらかしているとちゃんとするといっていたので黙っていたけれど不満の声が出始めます。この間、信者さんの中にも恩を報じようとする方とそうでない方が出てきたのです。寄進してくださいとお願いをすると出さしてもらおうという方と、お宗祖様と慕ってきた方が寄進という言葉で手の平を返したように、私は関係ないいう態度を取られるかたがでてきたのです。
ここでお宗祖様は、私の家を建ててくれ直してくれといってない。ご本尊様の在所を直すためにと信者さんお真心で改修工事が始まった。この真心を神様が受け取り、おかげを倍にして与えてくださるのが甲斐様の慈悲です。私はこのご本尊様のお慈悲をいただいて本当の幸せをつかむ心を教えていなかったと反省されました。

⑸ 無償で格天井を直す大工さん親子

林房太郎さんは、大工の棟梁さんに完成の頃には代金を払うから工事を辞めないでくれとお願いしますが、大工棟梁さんは、お金がなければ材料が買えない、給金が払えないので続けられないと工事を中止されました。その大工さんの中の1人が、お子さんをお連れになり、何もいってないのにある程度の工事をさせてくれと願い出て、やってくれます。その方の親方にたいする遠慮、材料の工面、改修工事のやりかた、作業の気配り心構えとその心がお宗祖様には見えますので、この人の真心がうれしくてと泣けて、泣けてたまらなかったそうです。そしてお寺の格天井はほって置くと木組みがダメになりるので、途中で止められないのや。けりがつけるまで無償でワシやらしてほしいんやとお願いされ、頭領、同僚から非難され仕事がやりにくくなるかも知れないのでお宗祖様は手を合わせずにはおれなかったとおっしゃっています。
この大工さんの子供さんは何10年か経ち子供さんに失明の危機が訪れます。この時に何があっても救えとご本尊様から御神示があり、人伝に薬の指図をしてあげ救われます。

⑹ 本堂改修とおばあさんの寄付

改修で、何十万円という借金をして、工事を続けました。
その当時、戦地の息子の無事帰国、帰国した息子の嫁捜しのために弁天様にお祈りをしていた老婆は、息子が帰国できたのも弁天様のお陰、良い嫁が来たのも弁天様のお陰と感謝を現すために、5日おきに自分で編んだ竹籠を売った少ないお金を、本堂改修の費用にと寄付を続けました。みすぼらしい姿の若者が冥応寺にご神示を受けに来た。お宗祖様は、なぜかお金を貸し与えたくなりお金を貸し与えるとともにまた来なさいと言った。そしてお宗祖様は何度もお金を貸し与えているうちにその若者が十輪寺の本堂改修時に少額の寄付を続けた老婆の息子であことを知った。弁天様はお見通しであると言うこと。そして功徳をする必要性と(老婆の)積んだ功徳は、この場合は子孫の福となって帰ってくる真実を物語っています。 お宗祖様は涙が出るほどうれしかったとおっしゃっています。

⑺ 韓国人の信者さんの寄進で完成

その大工さんの厚意により、格天井はできあがりますが、それから先の仕事が一大工さんではできません。借金をして、屋根の改修をお願いすることになります。そんな時に韓国出身の6人の方がお見えになります。この方が十輪寺の浄水場で手を洗っているときに、林房太郎さんが、工事と借金の現状を話し、支援の寄進をお願いすると、韓国出身で日本にきて成功された方々ですから、私らはお宗祖様のご恩を返したい、何かご恩返しの方法はないかと思っていたところです。エエ話を持ってきてくださった。ワシらに寄進させてくれと申され1人10万円の寄進をされました。これで十輪寺の改修工事は借金は返せ問題が無くなりました。この韓国出身の方はお宗祖様に皆さん命を救われた方ばかりです。大林さんの墓が御廟の墓地に建立されています。この大林さんは、事業家で、大変立派な方で、人物紹介としてどの事業所にも弁天さまを祀り、熱烈な弁天さんの信者で絶えず禮拜經と数珠を持ち歩かれていると朝日新聞の記事掲載されるようなお方です。結核で命がないといわれましたがお宗祖様の御神示と薬で救われました。昭和20年9月に完成し、10月に落慶祭典が行われています。お宗祖様は、韓国の信者さんにもそうですが、数百人の弁天講の信者さんの真心に涙を流さずにはおられなかったと言っておられます。それは集まった浄財がいかにして信者が工面したものか皆判るからですね。

⑻ 助け合い励まし合って功徳を積む弁天講を組織

関係者の皆が改修に際して寄進を嫌い離れた信者さ
んを非難するとお宗祖様は、ご神示を受けるだけの信者は「感謝」することを知らない。信者を教育しない私が悪いと反省された。そして信者の教育のために弁天講を始めました。落慶に伴い、教えの大切さを感じられて、御神示の待ち時間と利用して、水の心を心とする五行お諭しの話を聞いていただくようになります。これは功徳の大切さを説いて行くことになります。
教えを広めるために昔のざら紙を利用した妙音新聞が発行されて、お互いに助けあい励まし合嘘方こそが功徳の根源であるとしてお宗祖様は、現在の教区支部のもととなる弁天講を作られていき、30人以上いる講者に、1枚の御神示特別優先券を発行され、しかも奇数日は一般信者、偶数日は弁天講者という制度を設けましたので、講に入る信者が増え助けあい励まし合って功徳を積む組織が増えて行きます。
この時代のお宗祖様呼び方は、十輪寺の奥さん・弁天さん等と呼ばれていましたが、弁天講と作ってからは「ご神代」と呼ぶよう統一されました。

2 支部への御親教

救いを求めてくる信者さんを待つのではなく、自ら全国に弁天さんを広めようと、3と8の付く日(3,8,13,18,23,28日)を御神示のお休み日として、その休み日に全国に御親教に出られるのです。地方の感謝祭に出向きますと、お宗祖様の足跡を感じさせてもらっています。後に感謝祭でお護摩を焚くことが行われます。お護摩には道具が入ります。当時は道具全部を風呂敷に包み、管長さん等が背負われて行かれたようです。大変な人助けであったと思います。北陸、四国、九州、東京と全国に出かけられます。北陸に七尾というところがあり、そこではお運びが開催されています。50~60人が毎回、足を運んでくださいます。ここは昭和39年支部の発会を見ますが、昭和30年頃からの9年間、お宗祖様は幾度となく足を運ばれたようです。
お宗祖様は、お詣りされた方に、ああようきてくれましたね。お金とか時間とか考えたら、なかなかお詣りできませんよね。ようお参りしてくれました。ご本尊さまは喜んでいますよ。大変でしょうけど、帰ると必ずいいことが待っていますよ。私はあなたがたの幸せを祈っていますよといってくださったと話に聞きました。今日は止めとこかなと、足運びがくじけそうになることもあるそうです。お宗祖様の言葉を思い出してお詣りさせてもらっているそうです。
余談ですが、四国の鳴門からお詣りされた信者さんの遇いました。今月は23日に茨城に行くので今月は6回目やと言っておられました。1回お詣りするのに、便利になりましたが高速料金が16,000円かかるそうです。大和と大阪に20年間ワシ月参りをしていると言っておられました。必ず家族はもちろん誰かと一緒にお詣りに来るそうです。

3 保育園の開設

当時十輪寺の墓地に犬や猫の死骸を投げ込むことがあり、管長さんとお宗祖様は人びとの心の荒廃をしり、何かしなければとお思いになっておられました。
智弁保育園の前身となる保育園が保育所は、五條市からの管長様に依頼があり、茶室の2間から始まりました。昭和23年8月に開園します。現在庫裡が建っているところに、建物を建て開園となりますが、多分4月に十輪寺を利用してスタートしたと思います。昭和23年当時は、物資も豊かでなく大変な時代ですが、子供の心を豊かにしたいというお宗祖様の思いがあったのだと思います。
2クラスで始めています。祥五さん保育に桜井園長さんは、私たちの心の中を見通し、お宗祖様に怒るときはうちの子から怒って、褒めるときは他所の子から褒めてよといってくださり、また、誰も気づかなくても、ブランコが油切れでキイキイ音が出ると、管長様が自ら油を差してくださった。そして、保育園の前が道路が狭いので消防車や救急車が入らないと心配していますと、如意寺の塀を内側に下げ、門までの道路幅を広げてくださったそうです。お宗祖様や管長さんの気にかけることは大事なのじゃないかなと思います。この気にかける行為が善根功徳であり、慈悲ですね。困っている人に手をさしのべる。声をかける。

by nohara4241 | 2007-11-22 20:52 | 法話宗祖伝