ご真言ご宝号を唱え一体になれる

神様・お宗祖様の心が頂ける、一体になれる真言宝号の称名

私は、草刈り等種々の誠心誠意を誓った奉仕活動に又法話に集中してお話を聞きたいのですが、よくお喋りをする方が近くにいることに出くわすのです。
それで対策として、休憩待機や境内でも、うるさいと腹を立てないためにご真言オンソラソバテイエイソワカを称えることにしています。
そして、以前は般若心経を称えてお百度を踏んでいましたが、今はオンソラソバテイエイソワカとご真言を称えることにし、昨年から健康管理のために始めた散歩中もオンソラソバテイエイソワカ、ナムチベンソンニョ(南無智辯尊女)と称えることを実行していました。

(項目)
1 寺内大吉さんの称名
2 アミダ婆さんの話
3 松原泰道さんの養生訓に書かれた称名と坂村真民さんの念ずれば花開






1 寺内大吉さんの称名

最近、寺内大吉さんの産経の記事を読みました。
この方は作家ですがお寺の子供として生まれましたので、お坊さんになること最終目標にして作家活動等も行われたようですが浄土宗の宗務総長を勤め、今は末寺を抱える大きなお寺の住職のようです。
この方が産経で徳川家康もナムアミダブツと毎日称えていたと書かれ、更にご自分も何もなければナムアミダブツを称え、毎日何回称えたか日記に記録すると書いてありました。
これを見て私は、ああお宗祖様もオンソラソバテイと毎日称える習慣を持たれ、うっかりするととんでもないところで称えていることがあると何巻の何処かわすれましたが、お言葉集成に書いてありました。
念ずることの意義も知らず、寺内大吉さんも徳川家康もお宗祖様と同じなのだ。
閑があるとナムアミダブツを称えるのだ簡単に思っていました。

2 アミダ婆さんの話

これは、ナムアミダブツと毎日称えるお婆さんが死んで閻魔様の前で、私はナムアミダブツと称えているから浄土に行けるはずだといいます。
閻魔様はお前が真剣にナムアミダブツと称えたのは雷が鳴り響いた時の1回だというたとえ話があります。
念仏とは気休めのようなものであると実は思っていたのです。
心に念じたこと、夢に描いたことを実現させる力を私達は持っていると心理学的なことは知っていますが念ずることに意義に置き換えることが出来ていませんでした。

お寺の法話でも、後で出てきます「念ずれば花ひらく」坂村真民さんの話はある講師から聞きましたが、そこでも『口ずさむ』程度のお話だったように思います。
また、100反真言と経本に書いてあり、お百度もオンソラソバテイエイソワカの真言とナムチベンソンニョの宝号と称えて回る方法を教えていますが、記憶違いかも知れませんが、ハッキリ言って『念ずる』ということのお話を聞いたことがないように思っています。

3 松原泰道さんの養生訓に書かれた称名と坂村真民さんの念ずれば花開

ところが、この考えを覆す本に出合いました。
それは、臨済宗僧侶松原泰道さんの養生訓です。
そこに「念ずること」の意義が書いてあり、私には称名の大事さがにじみ出るような記事でした。(養生訓161ページからの転記です。)

『念ずるとは、仏の心を自分の心に忘れずに思い続けること。
つまり念ずる事です。仏の心を念じていると、自然に口が開いて仏の名を称えるようになります。
これが称名です。
つまり念仏という精神的な活動が称名という肉体的活動を引き起こすきっかけになっているのです。』
更に、他の念ずる方法として坂村真民さん「念ずれば花ひらく」を紹介してありました。
『念ずれば花ひらく、苦しいとき、母が何時も口にしていたこの言葉を、私はいつの頃からかとなえるようになった。そうしてそのたび、わたしの花がふしぎと、ひとつひとつひらいていった。』が坂村真民さんの詩です。
こちらは困ったことがあると「念ずれば花ひらく」と念ずるのです。

弁天様、お宗祖様の心忘れないために念じて(思い続け)そして弁天様お宗祖様の心が頂けるように、心と一体になれるようにと念じて(思い続け)、今は散歩中も含めオンソラソバテイエイソワカ、ナムチベンソンニョと称えています。
閑があれば弁天様お宗祖様を心に念じて称える事にしていますが数は数えていません。
私には、逆に称名することで心が弁天様、お宗祖様の心に近づけるのかも知れません。

※松原泰道さんは、肺結核で病んだとき、仰臥したまま「踵で呼吸、土踏まずに心」と心に忘れずに思い続け(念じて)、肺結核を治しています。
(頭の額においた玉が溶けてクリーム状の液体が全身を包むという軟酥(ナンソ)の法という瞑想法も用いられています)
白隠禅師の師匠白幽が「のぼせている心を感じたら、その心を降下させて、丹田や土踏まずのおいてみなさい」という教えを実行する手段が『踵で呼吸、土踏まずに心』と念ずることです。

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