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18年水の章9講法話

18年8月9日(土)水の章9講 小竹祥善講師法話
(編集項目:ブログ者記)
1 慈悲について感じるとき
2 水は美しきものなるも、不浄物も混じりて流るるなり。(16)
1) 水の心は美しい
2) 水鳥も水に浮かぶ訓練が必要です。
3) 私達人間は不浄物であると自覚した生き方
4) ものの見方
5) 世間には他人の心を見抜く力を持った人がいます。
3 穢れ汚れいずれも嫌わずともに流るるなり。(17)
1) 穢れとは、ノギヘンのある通り刈り取った稲が散らばっている状態を表して2) 両方を受け入れる心が水の心でありご本尊様の心
3) 意外と意に添わないことを乗り切って成長しています。
4) 色んなやり方を知り、その中で学んでください。
4 肌を拡げて抱きてともに流れゆくなり、これぞ慈悲なり愍みの心なり(18)
1) 無条件に丸抱えするこころ、底が汚れる風呂敷の包む心
2) 慈悲の心を養う
3) 人間は感受性が強いので、信仰心があれば聞くだけで成長します。
4) 人間心理の実験をして心が廃(すた)れないことを証明した。
5)「衆生の秘」という仏教用語があります。




1 慈悲について感じるとき

前回までは真心の話でしたが、これからは慈悲愍みの話になります。
先代管長様が小学校2年生で十輪寺に養子に行きましたが、修行があまりにも厳しかったので、2回逃げて実家に帰っています。
その時に和歌山の実家ではご両親がどの様に対応されたかと言いますとお母さんは、帰ってきた管長様を抱きしめて「もうそんな辛いところに行かなくてもいいここに居れ」といわれたそうです。
ところがお父さんは、反対に「もうここはお前の家ではない。お前の家は五条の十輪寺だ。それぐらいの修行ができなくて立派な坊さんになれるか」といって、追い返しています。

この2つは形は違いますが、自分の子供さんの将来を考えた親の慈悲であると私は思っています。
慈悲という字は、慈は「いつくしみ」という字で、悲は「かなしみ」という字です。
慈しみは抱きしめる、可愛がるということで分かりますが、どうして慈悲に悲しみを使うのか分かりませんでした。
ところが先代の管長様に対するお父さんが追い返す厳しいさを知り、悲が分かりました。
お父さんは先代管長様が五条の十輪寺でどんな修行をしているか知っているのです。
子供にとってどれぐらいつらいことか分かっていたのです。
ですから我が子を追い返す心の中は涙で一杯であったと思います。
お母さんのように抱きしめてもう行くなと言いたい。
子供のためにはここで追い返さなくてはいかないと思い、悲しみに耐えて追い返しているのです。
これを知り慈悲には悲の字がふさわしいなと思いました。
ですから頭を撫でることもあればお尻を叩くこともあります。
慈悲については両面があることを私達はいつも考えなければなりません。
お尻を叩くより頭を撫でてもらう方が嬉しいのです。
お尻を叩かれるといやがるでしょうが、先代管長様のお父様のように、心に一杯涙をためながら、鬼になって帰れといわなければなりません。
そういう慈悲もあることを知ってください。
頭を撫でる慈悲とお尻を叩く慈悲、慈悲の2つの面を考えて頂だくことがこの章のテーマです。

2 水は美しきものなるも、不浄物も混じりて流るるなり。(16)
1) 水の心は美しい
みんな水の心である慈悲の心をもっています。水は美しきものです。
すべての人間は、ご本尊様につながる水の心をもっている。
この水の心が慈悲です。
すべての人間はみんな慈悲の心をもっているのです。
ところが持っているからといって、常に使っているかということとは別です。

2) 水鳥も水に浮かぶ訓練が必要です。
大阪茨木市冥應寺正門前に池があり、春になると色んな水鳥がきます。
春先の寒いときに水鳥が水死します。
水鳥は普通の鳥より油分が多く、毛つぐろいをするのは、口から油を出して毛に塗り水をはじく毛にしているのです。
ところが生まれたばかりの子供はそうゆうことが上手ではないのですが、水遊びが好きで、冷たい水の中で遊びすぎて、毛の水をはじく力が弱まり水中に沈んでしまいます。
水鳥でも、脂肪を毛に蓄える訓練が必要なのです。
この訓練によって水鳥としての力が発揮できるのです。
水は美しいもので、全ての人間が慈悲(の心)という美しいものを持っていますが、それはすぐに使えないのです。

3) 私達人間は不浄物であると自覚した生き方
私達はご本尊様につながる水の心である慈悲心を持っていますが、不浄物も持っているのです。
お言葉集第1集20p(誰に出もある因縁=水鳥の水かきのできる奇病の子供さん)の23p私達人間は生きて行くために何かを食べなくてはなりません。
私達が食べるものは、みんな生きているものばかりです。
牛や魚は勿論のこと、果物や野菜も、みんなその命は私達によって絶たれています。
殺生しなければ生きて行けないのです。
殺生してはいけない。これが正しいことです。
しかし私達は殺生という因縁を積んで生きているのです。
不浄物も混じって流れるのが人間なのです。
ですからお宗祖様は、供養の生活をしなければなりませんとおっしゃっています。
ですから私達はみんな避けることのできないものを持っています。
私達人間は殺生をする未完成な存在です。
私達は未熟です。失敗をします。間違いをする存在であることを自覚することが大事です。
この自覚を通して物事を見つめますと相手を責めたり、非難したり、裁いたりのみでなく、相手を許したり、認めたり、受け入れたりとかいうことを学ぶ必要があると思います。
間違っても責めたり、攻撃したり、裁いたりすることのない生き方・生活ここで考えなくてはならないと思います。
自分はいつも因縁を積んでいる存在である、そんな未完成である自分を強く自覚して、相手に接すれば別に生き方を見つけることができるのではないかと思います。

4) ものの見方
混じるとは、色んなものが溶け合って一緒になっている状態ですが、この時大事なことは、どんなものが溶け合っているのか溶け合っているものを見分ける力を持つことです。
不浄物もの「も」とは、不浄物のみではないよということです。
だから不浄物とそうでないものを見分ける力を持たなくてはなりません。

5) 世間には他人の心を見抜く力を持った人がいます。
埼玉県に昔鋳物工場が多かったのでキューポラのある町として有名になった川口というところがあります。その町の会社に勤めていたご婦人に関する話です。
会社でリストラが行われ、経理をやっていましたので、会社の事情が分かり次は自分であると理解できたそうです。
辞めてくださいといわれ、新聞をめくって仕事を探したところ、ある病院の医療助手として看護師の手助けをする人材を若干名55才まで募集されていました。
電話で連絡を取ったところ、長電話であって、24人が電話して半分が落とされていました。
電話の応対で応募者を選考していたのです。
面接に行きますと看護師の経験者もいました。
そのご婦人は、医療に関係ない前職経理でしかも53才で受験者の最高齢で条件が悪かったそうです。
暫くして一名合格しましたが、合格したのが信者さんのそのご婦人でした。
何故自分が選ばれたのか分からなかったそうです。
仕事は4時間ほど人工透析を受けに来る患者さんの世話でした。
そして中には目が悪い、身体能力が悪い方もおられました。
ご婦人はいつも反省していました。
例えば食事の時には片手でやるのは動物に対する世話で人間に対しては両手で世話をするという信条をお持ちの方で、その患者さん達は水分がとれないそうですが、先生方は隣の部屋でお茶を飲んで居られてもご婦人は患者さんの立場で目線で対応しようとして、お茶を飲むこともできないと言っておられました。
そして、家に帰り、1週間に何日しか来られない患者さんに対しても、心安らかな4時間にしたい、少しでも楽しいと思われるようにお世話をしたいと今日はこれでよかったのだろうかと反省をします。
その話で分かった。
このご婦人が選考された理由が分かった気がしました。
病院の院長さんや先生方は、ご婦人や応募者にお世話をする技術を求めたのではなく、1週間に2~3回来られる患者の世話人として優しく接することができる方を求め、ご婦人に優しさがあることを見抜いたのであろうと思いました。
このご婦人は辯(才)天様を信仰を通して優しさを培われたのだと思いました。
求められる力を持ったのです。
これが私達が求めようとしている信仰です。
そのご婦人が毎日毎日仕事をしては、これでよかったのか反省する心をもたれるようになったのは信仰以外にはないと私は思います。
そして承知して欲しいことは、医院長さん等先生方には、ご婦人の優しさと反省する心を見抜く力があったということです。
私達は色んな方と接して生活しますが、私達の身の回りにそのような方がいるということです。
勿論その方方何か言うかいわないかは分かりませんが、あの方はああいったが本当はこうだな、心が優しいな、優しいなと他人の心を見抜く力を持った人がいることを、そして私達は常にその方々に見られていることを忘れずに生きてゆくことが必要です。
55才までの募集の中で53才であったが選ばれた。
それは信仰により優しさを持っている方であるとことを見抜いたからです。
技術は教えると学び直ちに身につけることができますが、優しさは学んでも一朝一夕に身につけることができないのです。
だからこの方は選ばれたのでしょう。

3 穢れ汚れいずれも嫌わずともに流るるなり。(17)
1)穢れとは
ノギヘンのある通り刈り取った稲が散らばっている状態を表しており、汚れとは川の流れの湾曲した部分のよどみにゴミが溜まっている状態を表しているそうです。
私は、穢れとは内側の心というか精神的な面のイメージでとらえ、汚れとは外側の服装態度といったイメージでとらえています。
ここではみんな様には、人生には内と外という両面性があることを知ることが大事だと思います。
悲しみもあれは喜びあり、苦しみもあれば楽しみみもあり、不都合もあれば都合のいい場合もある。嫌いいなこともあれば好きなこともあるといった2つの面が私達には起こってきます。

2) 両方を受け入れる心が水の心でありご本尊様の心
ともに流れるとありますが、これは都合のいい方を受け入れて都合の悪い方を受け入れないという態度ではなく、両面受け入れることが大事であろうと思います。
嬉しいことも受け入れるし悲しいことも受け入れる。
楽しいこともつらいことも受け入れる。
自分に都合のいいことばかりでなく都合の悪いことも受け入れるという両方を受け入れる受け入れ方をしないと人生はだめですよ。
両方受け入れるのがご本尊様の心で水の心ですよとおっしゃっているのだと思います。

3) 意外と意に添わないことを乗り切って成長しています。
楽しいことを願って信仰するが、楽しいことだけで人生が楽しくなり幸せになったのでしょうか。
こんなつらいことがあって物事が分かりました。こんな苦しいことを乗り越えたためにこんなことが分かりましたという話を聞きます。肥料には、きれいなものより汚(きたな)いものが多いです。
肥料は前もお話ししましたが、和歌山の実家では鶏を2000羽飼っていました。
その鶏の糞を集めて干すのが子供の仕事でした。鶏糞を袋に詰め皆さんに売っていました。
人間として私達を成長させるのは、成長の糧とでもいうのでしょうか悲しい、苦しい、不都合、汚いことの方が多かったのでなないでしょうか。
嬉しいことも有り難いのですが、辛(つら)いこと悲しいことを通して、辯(才)天様が私達に何か大事なことをおっしゃってくださっているのではないでしょうか。
自分に起こっている一見苦しそうに思う、つらく思えることの中に私達にとって学ぶこと

4) 色んなやり方を知り、その中で学んでください。
14年前東京に転勤しました。お運びの講師として行っていましたが、住まうとなると色んなことがありましたが、本当に有り難いなと思ったことは坊さんは一人ですから信者さんと色んなことを話します。
大阪はお盆は8月15日ですが、東京では7月15日です。
月遅れのお盆が8月15日と教えられました。
旧のお盆といわないのです。
お盆の木蓮尊者の話は7月15日です。
細長い日本では地方で異なりますから大阪では8月15日です。
13日から15日まで、13日から16日までと期間も違います。
関西では亡くなりますとその前の日から数えましが、関東ではその日から数えます。
色んな違いがあることを東京に行って始めて知りました。
大阪では、白い石を使った3段墓=和墓が普通です。
長野県ではほとんどが黒い石です。
東京青山の墓地では長四角の石が乗っている2段墓=洋墓があります。
とのように色んな違いを持ってみんな生きているのです。
色んな供養を学ばせてもらいました。
皆様はどんな事情があってもその中に成長の種があるあるのだと思います。
それを見抜いて行くことが大事であると思いました。
それが慈悲の心につながって行きます。

4 肌を拡げて抱きてともに流れゆくなり、これぞ慈悲なり愍みの心なり(18)

1) 無条件に丸抱えするこころ、底が汚れる風呂敷の包む心
ここで少しずつ言葉で慈悲ということが分かってきます。
「肌を拡げてともに流れゆくなり」には2つの面があります。

拡げて抱きてですから、1つは、慈悲とは丸抱えの心です。
これは、ことに当たって条件を付けない心です。どんなことでも受け入れます。
これはいいけど、あれはだめということがありません。
否応なしに両方とも受け入れなくてはなりません。

抱きてともにというところから、2つ目は包むというお母さんの優しさが慈悲には必要であろうともいます。どんな人も、どんなことも包むことができるのは風呂敷ですから、風呂敷の心で覚えて下さい。
包むのは風呂敷きの心です。
風呂敷の心には1点落とし穴があります。
どんなものも包める、相手が四角ても丸くても相手に合わせて包むことができるすばらしさを持っています。
しかし包むときには底ができます。
底があるということは汚れる、損をする、疲れるという面が必ずあるということです。
相手の下になる心をもたなくては、風呂敷の心では相手を包めないということです。
従って、ここでの慈悲の心は、この無条件で丸抱えする心であり、もう一つは慈悲はきれいなことですが、底になる部分があり汚い損をする疲れる風呂敷の心で相手を包むことです。

2) 慈悲の心を養う
優しくなれる心をみんなもっているのですが、育てなくてなりません。
育てるとというときに2つのことをポイントにします。
1つは、慈悲の心が大きかったのはお宗祖様だろうと思います。
お宗祖様は2つ心があると見抜いていても、ご本尊様を信じない方でも受け入れて一生懸命御神示されました。
いつも母親の優しさで、ご自分が疲れ、損をすることを含みながら、私達を包んでくださっています。
私達の中で何人が、深夜に信者のためにお百度を踏まれたお宗祖様を知っているでしょうか?
朝から夕方まで御神示し、夕食後はご祈願用紙のお祈りをされ、更に寝る時間も惜しんでお百度を踏まれました。この様なお宗祖様の心がお姿が慈悲であろうと思います。
もっともっとお宗祖様がどんなことを考え、どんな方であったのかを学ぶ必要があるように思います。
もう一つは慈悲の一杯あふれているところに自分を置くことが大事なようです。
例えば、お宗祖様や信者の体験談を聞き、我々の辯(才)天様はこんなにすばらしいのかを体得して頂きたいと思います。
感謝祭や行事に参加してお話しを沢山聞いて頂きたい。
聞くだけと馬鹿にしますが人間は感受性が強い生物ですから聞いている内に十分身体にしみ込むのです。

3) 人間は感受性が強いので、信仰心があれば聞くだけで成長します。
どれくらい感受性が強いかの話ですが、元映画館を経営していた奈良の信者さんのお話しです。
今は閉館していますが昭和40年50年代です。
当時東映系の高倉健さん等の任侠映画を上映していました。
8割から9割方が男性のお客さんでした。
2~3時間映画を見てお客さんが映画館を出るときの姿は、全員胸を張って歩き方まで高倉健等の主人公に似ているのだそうです。
お客さんは映画を見ている内に主人公に心を同化させ、心をふくらましているのです。
私達は知らず知らずのうちにその場の雰囲気に同化するのです。
私達も慈悲の心をふくらませるには、もっともっと大きな慈悲の心にふれると知らずに心がふくらみのです。いい話を聞くとにっこり笑い、気持ちがよくなるでしょう。
今日はいい日だなと思うでしょう。

4) 人間心理の実験をして心が廃(すた)れないことを証明した。
アメリカで1ドル紙幣を道路に撒き、どれくらいの人が正直に拾った紙幣を届け出るか実験をした。届け出具合で心理を調査した。結果的にはアメリカ人は正直であるという実験結果が出た
しかしある日誰も届出ない日があった。その日はロバートケネディが暗殺された日でした。
人間は悪いニュースを見たり聞たりすると、知らず知らずに心が感化される。
ですから沢山よい情報、話、ニュースを聞いたり見たりしましょう。そうするとよい話の方に心がふくらんできます。

5)「衆生の秘」という仏教用語があります。
信仰を通してやさしくならないと分からないことがある。
私達人間が生きて行く上で、人の優しさ、良さはどうして分かるのでしょう。
人を欠点をあげたり、人の足らないところを言い合う、相手を非難したり、相手を馬鹿にすることは修行しなくてもできるのです。
思った通り言えばいいのですから修行は不要です。
ところが相手のいいところを見つけるのには修行が必要なのです。
優しさを見つけるのにも修行がいります。修行しないと相手の優しさが見えないように、私達が修行しないと見つけられず、成長しないと見えないことが世の中にはあります。
世の中が悪いのではなく、自分の修行が足りない自分の責任なのです。
皆さんが成長すれば分かることなのです。
貴方はあの人が悪い悪いというがこんなにいいところがあるということを学んで行く必要があるのではないかと思います。
慈悲と章の中で大事なことはその辺ではないかなと私は思っています。
相手の良さ、すばらしさを見抜こうとするのですが、私達が優しくなればどんな方でも良さを見抜くことができるのです。
どうしてもなれないときは私の修行が足りないと思ってください。
どんな人にもすばらしいところがあります。それをお宗祖様は私達に見せてくださったのです。
だから皆さんがお宗祖様の側に寄ってきたのです。
幾ら神様が偉くても人の非難をしては寄ってきません。
しかしお宗祖様は回りの方に信者に、欠点を話すことなくよいところばかりおっしゃいました。
私達が自分自身を磨いて行かないと、成長しないと分からないことが沢山あると考えて、どうか回りの所為にせずご自分の修行の所為にして行く生き方を「衆生の秘」といいます
相手が隠しているのではないのです。修行が足りないから隠されているように見えたり思えたりするのです。
全ての方の優しさを見抜くことにできるように修行をして行きたいなと私は思っています。

by nohara4241 | 2007-08-20 08:26 | 法話水の章