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19年宗祖伝9講法話

19年8月11日(土)宗祖伝9講1世管長の生い立ち(3) 田口祥行講師法話

感謝祭は午後3時から本堂で行われ、午後5時から祖霊殿で施餓鬼法要が施行されます。午後7時から吉野川で灯ろう流しを行います。
先祖供養塔婆、灯ろう流しは例年通りでございます。
現在、塔婆と灯ろうを受け付けています。
ご先祖様のご供養は勿論ですが、何かご縁のあった方、無縁の方でもこの方を何とか供養して上げたいと思われる方がありましたら、尊いご本尊さまご宗祖さまのところへお導き下さい。
この霊のお供養もれっきとしたお導きであります。
生きている方だけでなく、亡くなった方の魂を導くのも尊いお導き行でございます。どうぞ力を入れて頂きたいと思います。

9月17日(月、祝祭日)は京阪神地区、諸国の御廟清掃まこと行日です。

彼岸法要は、来月のことですが26日(水)結願日が如意寺です。
午前10時からお運びに続いて行われます。
茨木冥應寺は23日(日)中日です。


幾度となく苦行から逃避しようとした智祥様も、ご両親のいさめにより、修行に励まれました。
小学校を終え、高野山中学林に進みました。
持明院に寄宿し、働きながら勉学されました。
その後、高野山大学に進み、その在学中に、金剛寺住職大森慧海師の養子として、住職となることを定められていました。
ところが、事情があり、金剛寺には本山からの徳名の住職が着任したのでした。







大学を終えた智祥様は、金剛寺にも十輪寺にも帰ることができず、奈良県吉野町上市町の妙法寺(大師山時、通称大師堂)へ赴任することになりました。
やがて後援者もできました。
その1人、吉井ケイ様との縁から、宗祖さまと結婚される絆が結ばれました。

本日の講の狙い最後のところに少し触れられていますがどの様な苦行をされて、お宗祖様とお出会いに成られたかという大事なところです。

第2の智祥様の生い立ちのところで、習って頂きましたように、智祥様は、十輪寺での修行があまりにも悲しく、辛く、淋しく父母恋しの思いが断ちがたく2度も実家に歩いて逃げ帰っています。
厳しいお父さんの愛の鞭から、ここはお前の家と違うのだ。
お前の家は五條の十輪寺なのだぞ。
そんな女々しい心ではあかんぞと厳しくその都度お父さんにしかられて、また十輪寺に送り届けられたのです。
子供とはいえ、実家に入れてくれなかったということから、僕はもうここの子や無い。
十輪寺で暮らすしかないのやなとやっと悟ったのです。
辛抱するということを本人が認めたのです。
我慢する、辛抱する、忍ぶということを本院が自分の口から言葉に出して言うことが「認めるという字」ですね。この認めるが更に深くなりますと何故自分はこういう生活なのかということをハッキリ認識する。
もっと深く認識するということになりましが、それを「諦観(ていかん、又はたいかん)」といいます。
物事の本質をあるがままに認める。
皆さん信仰でもそうですよ。
弁天さんに参っていたらなんぞええことがあるやろとか。
どうしても弁天さまに助けてもらわな成らんことがあるからお詣りに来るなど、皆さんの立場や信仰の取り組み方、考え方の違いから、信仰の仕方も色々ですね。
最終的にはね、こんな有り難い神様にどのような縁(えにし)があってご縁をいただいたのか分からないけれど、結構な神様やな。
本当に自分の生命回り360度が見える日が来たらね。
ああ有り難い神様やなと感激にひたる日が来ます。
そのような信仰になると諦観ということになりますね。
自分がどこから来てどこに行こうとしているかという自分の行く先が分かるのです。
その時に、自分の生命にとって何が1番有り難かったかということ。
何が1番頼りになったかということが、自分の心の底から湧き出たら悟ることができたら、それが諦観です。
なかなかここまで行くには、諦観まで行くには普通の行では行けません。
それなりの行を積んで、一つ一つ悟って行くより外方法はないのではないかと思います。
そのような行の過程と私達も積ませて頂き、その結論としてそしてああ有り難いご縁だったなということに成って頂ければいいのですが。
弁天さまは行を行ったときにね。
今までやったら何もかもがいやでいやで、辛くてかなわなんだのに。
心が変わったら、えらいもんでございます。
あんまり辛いと思わなくなります。
そして心の底から苦しいことや辛いことが楽しくなるのですねから、人間て、結構なものですね。
心の持ち方一つでころっと変わるのですから。

智祥様が自分お立場を認めて悟って、辛い修行に耐えたことで、純祥師匠は、6年生になったときに五條の中学校にやらんと、5年間高野山の中学林に通わそうと考えられたのです。
これは、大正の2~3年頃の話です。
当時は小学校4~5年で止めて働いていました。
9才年下のお宗祖様も学校にまともに行くことなく。
しかも小学校卒業前大正7年に女工として四日市に働きにでていますね。
智祥様は、持明院というお寺で小僧をしながらのご苦労をされ高野山の中学林に5年間通わせて頂くことができたのです。
智祥様の人生2番目の行でした。
小学校の2年生から5年間から努めました雑用から解放され、色んなところから年齢差もあったようですがよく似た境遇のお寺の小坊さんと一緒に働きながら勉強するのです。
この期間の5年間は十輪寺の雑用の苦労にくらべたらへっちゃらでございます。
みんなと一緒に過ごせるのが働けるのが楽しくて楽しくて、本当に素晴らしい中学林時代を送られたようでございます。
高野山のお寺は、ほとんど宿坊です。
今135の宿坊があるそうです。
その中の大きなお寺には、全国からの団体の参拝客が交通の便が悪く、その当時のことですから一晩泊まるわけです。
今日でしたら、車や電車により日帰りで参拝できます。
ですから、宿坊にとっては、泊まる団体の参拝客は、お客様です。
休憩、ご飯、お風呂、土産物販売と色んなことお世話が必要になります。
それを智祥様達、お寺に寄宿した小坊さんの仕事なのです。
皆さん子供ですからね。お膳運びも何段も重ねて、俺はこれだけ運んだと自慢するのですね。
ひっくり返すと大事ですから、鴨居に当たらないように、敷居につまずかないように、高くお膳を積みお泊まりの参拝客の部屋に運ぶのです。
毎日がそのようなお世話をする仕事であったそうです。
その間に、勉強をします。
勿論昼間は中学林に通わせて頂くのです。
コマネズミのように動き回った智祥様の青春時代であったようでございます。
智祥様は、よく働くし、物事の整理整頓もキチッとされる方でしたので、住職や奥さんから大変可愛がられ、信用されまして、持明院にお世話になって3年目くらいに、寺の倉の鍵を預けられるようになったそうです。
智祥様は、持明院時代にお寺の様々な年間行事のすべてを体得され、どんな行事があってもその準備のお膳立てが頭の中にすべて入りました。
今日我々宗務員にも行事の準備と執行があるわけですが、30~40人の参加者のお世話をしつつ、行事の説明から、色んな手配までして、法話もされていたようです。
勿論朝のお寺のお勤めはされます。
将来はお寺の住職となるべく、充実した中学林時代を過ごさせてもらったのです。

中学林3年生になったときに、それまでは真言宗は昔からの戒律を守り、お坊さんは結婚はできず、食べるものは精進料理でしたが、お坊さんの肉食妻帯を許すという法律が施行されました。
全国から信者が高野山に登ってきますから、段々と一般の方々の男女が高野山でも働くようになり、女人禁制の山が様変わりしてきています。
当時十輪寺ではお師匠さん1人でお寺を維持されていました。
お寺の住職は毎日寺にいるというわけには行きません。
仏事、葬式等何やかにやで寺を開けることがあります。
そうしますと檀家さんにとっては智祥さんが高野山の中学林に行っますので、都合の悪いこともあり、肉食妻帯が許されたのだからこの際純祥さんも嫁さんをもらいなさいと世話をする方がでてきましたす。
たまたま中学林3年生の智祥様が帰ったときに、師匠が、智祥や、実はお前に相談がある。
これこれこうやと結婚話をしてお前はどうやと聞かれました。
僕は意見はない。
反対はしません。
お師匠さんが嫁さんをもらいたければもらって結構ですと反対理由がないので師匠の結婚に快く賛成されました。
お師匠さんもお前がそういってくれるなら俺も嫁さんをもおらう事にするかととなりました。
ところがその嫁さんは智祥様より2つ上の若い嫁さんでした。
たまに帰りますとお師匠さんお身の回りのことやお寺の雑用をしなければならなかったのですが、
(智祥様は、別の先生では中学林に通い楽をするがお師匠さんは1人で食事洗濯から寺の仕事を切り盛りされているので土日は楽をして頂くために帰宅しお師匠様の世話や寺の雑務をやられたいたようです。)
嫁さんを師匠がもらったら、嫁さんが全部してくれるから、自分は帰っても自分のことだけしたらいいと思っていたのですが、現実は、嫁さんが智祥智祥とお師匠さんと同じように呼びつけ、あれしこれしと指図し、嫁さんのものまで洗濯させられるなど、用事を言いつけられたそうです。
帰ってくるのはいややなと思ったこともあったようでございます。
この様にして、中学校を卒業する時分になりますと、嫁さんに子供ができました。師匠も中学林を卒業すると帰ってもらうつもりですたが、子供もできその子が寺を継ぐということにあるやもしれぬという心配が出てきました。檀家さんと相談して、高野山の中学林に行かせているのだから、いっそのこと大学に行かせてはどうやという話になりました。

智祥様も中学林を卒業して帰ってきても、師匠も元気だし奥さんはいる、子供もできた十輪寺に帰るより大学に進学させてもらおうか。
その間に師匠に身の振り方を考えてもらったらいいだろうということになり、大学に行かせてもらうことになりました。
大学のあと1年で卒業という3年生になったときに、お師匠さんが、智祥様の住職としての将来を考えられまして、十輪寺の近所にあり今は花の寺で有名な金剛寺の住職大森慧海さんは妻帯をせずにいましたので、その方に智祥様のことを相談しましたら、大学までよう育てたのう。
その智祥さんが家に来てくれるのだったら有り難いとお寺同士の了解ができました。
智祥様は、お師匠さんが自分の身の振り方を考えてくれたと感謝し、不満は何もありません。話し合いをされたように金剛寺で僧侶をやらして頂きますというお師匠さんにお礼を言い、お師匠さんと大森慧海さんが早速大森智祥の入籍手続きをしました。
第1世管長様は和歌山の木の本で西本正信として生まれ、小学校2年の時に十輪寺に養子に行き直木智祥となり、今度は大学3年の時に金剛寺に養子に行き大森智祥になりました。
智祥様は大学3年ですから高野山で勉強中でしたが、大森慧海さんが吉野川を越えた向かいの栄山寺で坊さん達の会合があり参加しました。
そこでお酒がでて飲んだのですが、渡し船の都合で大森慧海さんは泳いで渡ろう、着物を頭にくくりつけ川に入って泳ぎだしたのですが、そのまま川に沈み浮かんでこなかったのです。
心臓麻痺です。
この事件が起きました。
管長さんは大学3年生ですから、金剛寺はその後無住寺になりました。
ところがあるとき金剛寺に泥棒が入り寺宝が盗まれたのです。
金剛寺には色々寺宝がありましたので、本山がこれではいかんと思っていたときに、たまたまアメリカから若い布教師の坊さんが本山に帰ってきました。
この坊さんに行ってもらえばいいと決まり、アメリカ帰りの若い坊さんが金剛寺の住職に赴任しました。

本山としてはやむを得ない処置だったのでしょうが、お師匠さんが将来のこと考えて養子にさせた智祥様の卒業後の行き先が無くなりました。
どこにやろうかと、お師匠さんが探していましたら、吉野上市の妙法寺(大師堂)が空き寺があるということを知りました。
また智祥様は将来立派な坊さんになることを願っていた師匠でしたので、高野山で大学まで学べばどこにでも行ける。
望めば大きなお寺の住職でも行ける。
大学を出たからといって一人前の坊さんになったわけではない、ほんまの修行はこれからや。
この師匠のいう通りに吉野上市に大師堂があり、檀家は一軒もない、ひたすらお大師さんのお供養をする寺である。
修行する寺である。
そこに行けと行く先を命じました。
智祥様は、素直な方でしたので、お師匠さんのいわれる通りそういたしますと二つ返事で了解されています。
大学を卒業し吉野上市の大師堂に赴任します。
ところが智祥様は大師堂がどういうところか想像もできなかったのです。
田畑一枚もなく、一軒の檀家がないというお寺はお供え物もありませんので、托鉢により食べ物を頂くしか方法がないのです。
僕な、ほんまに行ったけれどな。
どないして暮らしていったらいいかほんまに考え込んでしもうたんや。
今更泣き言を言って、師匠に十輪寺に返してくださいとは言えない。
ほんまに天涯孤独やなとその時に思った。
どないしていいか分からんようになってしもうた。
せやけど師匠のいうことを思い出しかみしめて見たら、ワシはここで何とか生きて行かんとならんのやなということに納得した。
そしてまず3年1000日を目標にしてお大師さんに使えようと思ったそうです。
そして明くる日から気を取り直してお大師さんに3時の勤行をします。
3時といいますのは朝と昼と夜の3回の勤行をいいます。
お給仕をしてお経をあげます。
この3時の間に、手っ甲脚絆に菅笠、金剛杖、鈴、頭陀袋、草鞋履きの身繕いをしまして、托鉢行の回ったのです。

お坊さんは着物は春、夏、冬の3枚と鉢1つあれば生きて行けるといわれていました。
托鉢をしてお供えを頂き食べて行くのです。
一軒一軒の家を回り、そうして家内安全、無病息災ということをお大師さんのご宝号と光明真言をひたすら唱えて、托鉢行をされたのです。
当時、若い坊さんとしてはこの托鉢行は恥ずかしいことでした。
ちりんちりん鈴と鳴らしお経をあげながら一軒一軒の門に立ちます。
犬に吠えられ、腕白小僧に石を投げられたり水をかけられたり、考えると格好悪い、惨めやなと思いますがそれがお大師さんに使える姿であり行なのですね。
一軒一軒にしっかりと心をこめてお経をあげさせてもらうのです。
一番大事な本尊供というのがないとだめですね。
智祥様は真言宗でございますからお大師さん、本尊は色々ありますが大日如来が基本でしょう。
本尊様の供養ができて始めて先祖供養ができるのですね。
弁天宗では弁天さまとお宗祖様をしっかりと供養させて頂くのです。
家ではお宗旨の本尊様がおられます。
その本尊様をしっかり供養させてもらうのです。
それができますと始めて先祖供養が成り立つのです。
智祥様の本尊供は、大正11年から昭和5年までまるまる8年間の托鉢行を通じて供養されました。
この托鉢行は尊い行です。
私達でいいますと低い心の行です。
下座の行ともいわれます。
3年1000日のお大師さん供養が8年になったのです。
若い坊さんの朝昼晩お経の声が聞こえてくるので、なかなか精進のできたお坊さんであると地元で評価されます。
これにより大師堂にも地元の方が顔を見せるようになりまり、終いには、ご住さん料理したものですが食べてください。今日は豆炊きました。
何を作りましたと持ってきて頂けるようになったそうです。
また智祥様と話をした方々が、立派なお坊さんやと噂をします。
あの坊さんは毎日お勤めをして托鉢にでる。
しかも、高野山大学を出ている。
ええ人や、親しみの湧いてくる人やと噂が流れました。
大師堂が地元の人に知られるようになりますと智祥様は大師堂の敷地内にありました長年放置され薮と化し歩くこともできないミニ四国88箇所巡りの順路を自らスコップ、鍬、鎌を持ち、石を並び替え、木の蔓や薮を払い、順路を啓開し、倒れた石像を立て、あらたに造り直したそうです。

日々怠りない智祥様のご精進は、地元の人の心を打ち、智祥様のことをよく理解してくれる吉井ケイさんと出合われます。
智祥様の後援者であったようです。
今日はあの子が自宅の方に回ってくるな。
夏であればスイカを井戸で冷やし、冬であれば熱いお茶を準備し、一度家に入って足を温めて行きやと声をかけ、親身になって若い智祥様を大事に大事にしてくれたそうです。
この親切なもてなしから、身寄りのないもの同士で、ケイさんと智祥様が親子の契を結ぶことになるのです。
智祥様は、西本で生まれて直木に養子にゆき、更に大森に養子に行ったので今また吉井へ名前を変えることはできません。
しかし、実の親と思うて、一緒に暮らさせてもらいます。
結婚して子供ができたら、必ず次男に吉井の家を背負うようにしますからと智祥様は約束され、現智辯製薬の社長さんは現管長さんの弟で吉井家を継がれています。現実にその通りになっています。
この様にして、智祥様の低いまことの心が、お宗祖様とのお出会いにつながって行くことになるんですね。
これはいつも申しますが弁天さまの神算ですね。
神様のお計らいですね。
大森慧海さんが死んだ。
金剛寺に帰れなくなった。
吉野上市の大師堂に行った。
そこで吉井ケイさんと巡りおうた。
この様なことが一つ一つ積み重なって、昭和4年7月12日のお宗祖様との結婚になるのです。

振り返ってみますと、和歌山木の本で生まれた智祥様が、十輪寺に行って、高野山に行って、吉野川沿いの金剛寺から吉野川沿いに上市大師堂に行きました流れは素晴らしいものですね。
お宗祖様も管長様と出会われたからこそ、衆生救済の行を完成することができたのではないかと思います。
私はこの先の弁天という地名のところに住んでいます。
家を求めたときにもう亡くなっていますがおばちゃんが、ええところに家を持たれましたな。
私がここへ嫁に来た20歳代の何10年も前の話ですが、今思えばもったいないことです。
先代の管長様とお宗祖様が金剛杖に菅笠を被って、管長様と同じお坊さんの法衣を着て、管長様の3mほど後ろに何時も付いてこの辺をズーッと托鉢に回ってくれましたんやで。
あんたが今住んでいるところの家の前で必ず山の方に向かって礼をされていました。
その山には昔から弁天さまが祀ってあったことをご存じだったのでしょう。
それから次の家に行って拝まれていたという話を聞きました。
管長様とお宗祖様が歩かれたところを歩かせてもらえると喜んだわけですが、十輪寺は、管長様が托鉢に回らなければ生活できないお寺では無く豊かな寺でありましたが、管長様もお宗祖様も行乞(ぎょうこつ:僧侶が乞食をして歩くこと。托鉢行)としてズーッと続けられたようです。
月に何回か行乞をなされています。
本当に管長様は行の人であったのですね。
小さいときから苦しい修行に辛い修行を重ねて来られたから身に付いた行を行と思わない尊い尊い習慣だと思いますね。

真言宗の信者が多い五條地区のとは違って吉野上市地区は、浄土真宗さんの信者さんの地区で中には浄土宗や禅宗も混じっていたようですが、托鉢の行にでますと、阿弥陀さんをお祀りした家ばかりでありますから、南無大師返照金剛などと法号を唱えても、ピンと来なかったのでしょうお断りといわれたそうです。
お断りといわれてもそこの家の繁栄、無事息災、家内安全をお祈りしなくてはならない行ですから、お断りといわれても、最後までお経をあげさせて頂いて、次の家に回るということであったようです。
管長様は、お断りといわれて、こそこそとそこから逃げ出したらアカンのや。お断りといわれても、ご本尊さまのお願いして御加護があるように拝むのやから最後まで、キチッとおがまにゃいかんおやぞと仰いました。

管長さん大師堂は真言宗のお寺でありますが、お寺の法事や葬儀の時は坊さんが3人5人と数が決められていますので、手伝いの声がかかるのです。お経も作法も全部違うのに、今日急に法事が入ったが大師堂のご住さんどうやろうと声がかかるのです。
管長さんは他の宗旨のお経から作法まで全部覚えられたそうです。
私も本当に器用な方だなと思いました。
それは管長さんの心がけがそうさせたのだと思います。
管長さんご自身は、そうやな。
実をいうとな。
生活のためやとあけすけにいわれました。
そうですよ。
大師堂の1日の托鉢行で報謝していただけけるのは30軒やそこらです。
それもお米、麦、豆一握り、お金でさえ1銭くらいです。
1日の頂く量は知れてます。
ところが法事等ではまとまった現金が頂けますので管長さんにとっては、ほっとけない、アルバイトだったのだと思います。
しかし、他所の宗旨の讃(さん)などは難しくてね。
毎日上げているわけではありませんので、忘れてしまうものですが、管長さんは覚えておられるのですからすごいお方だなと思いました。
ご本尊さま、お大師様、阿弥陀如来様、大日如来様にひたすらひたすら低い心でご供養をささげてこられた方です。

お亡くなりになったのは、1987年12月31日です。
1月3日に如意寺にご遺体を移し、密葬をいたしました。
私は眠く無く眠らずに3日3晩大阪茨木冥應寺でお側にいさせて貰いました。本当に生きるが如きお姿でした。
管長様は脳梗塞で3回倒れました。
リハビリのお手伝いで、足をさすりますと右側の足が曲がらなかったですね。
これは仕方がなかったのです。
足がびっこを引いているような感じでご不自由でした。
お棺の中にドライアイスを入れていますが、お経が足った人は死んでも、身体が硬くならないといわれていますが、まったくその通りでした。
えらいものやなと思いました。
12月31日午前4時頃に亡くなられて、1日、2日の晩と72時間経っていますのに遺体はかちかちにはなりませんでした。小さい身体で、88年間本当にあっち行き、こっち行きし毎日毎日コマネズミのように動かれた遺体を守らせて頂きもったいないことやなと思いました。
今でもそのお姿が昨日のように思い出されます。
尊い尊い御生涯であったと思います。
最後の最後まで、何一つ泣き言を言われず。
円満そのもののお方でした。
であればこそお宗祖様のよき夫となることができたのでしょう。
私達はお宗祖様と並んで素晴らしいお方によって、救われる道を開いて頂いたということを決して忘れてはなりませんね。
管長さんやご宗祖さまの行や歩みにくらべることはできませんが、私達の行とかはまだまだ足らないと思います。
by nohara4241 | 2007-08-19 21:46 | 法話宗祖伝