御所教会の機関紙「幸真」昭和22年12月1日号から頂きました。

お宗祖様のお話では、故梅木先生は弁天さまがお前に2人の弟子を与えてやると言われ、与えられたお弟子さんの1人です。

故梅木先生回想録100からの続きです。
回想録80に戻ります。

しかし、今回のはここの家庭訪問であり、しかも闘争というかぶとをつけていないのが、私にとって何ともいえぬ楽しさを味わうことになった。
心からの真心を、個々の人たちに会って話し合える庶民的な喜び。
これが信仰ということの幸せなのだとしみじみ思った。
利害にかかわる駆け引きもなく、ほほえましい親切を、語り合える事が出来るのだから、こんな楽しい人間関係はほかにないだろう。
これこそ、この世の極楽というべきではないか、と思った。
こうして、講支部信者の間を一巡した私は、この次は講支部の運営について、私1人の力ではどうしようもないので、手足となって仕事を分担してもらえる世話人(班長)を作ろうと思った。
そしてひとまず地域的に人選した。
地域によって熱心な人が集まっているところもあり、熱心でなくともその地域に1人しかしない場合もあった。
だから平均して世話人を設置するため、1人のところも多いところも、地域に割って1人ずつ世話人を選んだ。
実数20軒の信者で10人の世話人を選んだ。
早速日を選んで世話人会を自宅で開いた。
弁天様から、福徳をいただけるお互いが寄り集まって講社を作り助け合いが出来る喜びを語りあった。
今後も弁天様に報恩感謝の実を挙げるとともに、利用信者ではなく、本当の信仰に進む人を皆で導いて行こうと話を決め、毎月その情報を持ち寄るために定例役員会を開くことを申し合わせた。
その親睦をはかるために、会席膳で夕食を共にした。
こうして毎月回を重ねて親睦をはかった。
そのお蔭で、世話人の導きで毎日私の家を訪ねてくる初信者がふえた。
私と妻が相談相手となって、入信させ、本部へ送り届けた。
[PR]
# by nohara4241 | 2010-02-02 21:39 | 講師の回想
喘息止めのおまじないと厄年について

お宗祖さまは2月3日(旧正月の大晦日)の日に干柿と鬼灯を煎じて飲む、喘息止めの民間治療薬を残されました。
カテゴリー『お呪いと煎じ薬』の中ですでに投稿していある記事ですが、節分が近づきましたので紹介します。
ただし、投稿記事のリンク先を示しますのでクリックして各記事をご覧になって参考にしていください。

干し柿とホオズキ(喘息封じのおまじない)

a0105519_1435499.jpg


a0105519_1442496.jpg
a0105519_1443989.jpg


弁天さんの大阪茨木市冥應寺及び奈良県五條市如意寺内の薬局で1個100円で販売しているの喘息封じの干し柿とホオズキです。

1 喘息封じのおまじないの話を3つ投稿します。
喘息封じのおまじないの話を3つ投稿します。
(編集項目:ブログ者)
1 除夜と節分の夜は、年2回の喘息のおまじないの日です。
2 水の章の小竹講師の話(11月25日)
3 民間療法では何時飲んでも良い
4 大人の喘息の季節限定なしの喘息封じの薬草

2 喘息のおまじない19年宗祖伝19講法話から転記

3  節分の日の喘息のお呪いのまとめ

で説明していますので、内容は省略します。各記事の表題をクリックして、記事内容をご覧下さい。

弁天様では2月4日から来年の2月3日までの各人の星の運勢を好転させる又は悪い星周りの年を弁天様に預ける等の星祭りが行われますが、それに関してのお運び等でのお話をまとめた記事のリンク先をしましますので参考にしてください。

4  男子数え年37才の厄払い方法
[PR]
平成22年2月のお言葉17「濁っている根本を清めて来なければ、自分は澄んできません」

平成22年1月15日の茨城教区便りから頂きました。
この教区の日々のお言葉は創作です。善いことが書いてありますので、毎月読んで、他の教区便りの日々のお言葉と比較しています。

アメリカの航空機でテロを未然に防ぐことが出来たというニュースがありました。
ホッとするニュースではありますが、何故こういうことが絶えることなく続くのかと思います。
実際人間の存在がこの世にあらわれて以来、争いがどこかで行われています。
報復に報復、恨みがさらに新たな恨みを重ねていて、一体元はなんだったか?分からないくらいになっています。
先日捕鯨関係の意見の相違で、日本と環境保護団体のオーストラリアの船との衝突騒ぎもあり互いに自分の主義主張をしています。
ほとんどすべての争いに見るのは、自分が悪くなくて相手が悪いからこういう事態に陥ったという主張です。
以前ガンジーの記念公園で見たものに、世界の大きな宗教のシンボルがすべて置かれて、周りに花が飾られていました。
彼は宗教や人種を超えて、世界の人々が仲良く争いをしない事をねがっていました。
すべてを受け入れて尊敬し、すべてを愛する姿勢を貫き、様々な悪の根本は自分自身の心から発している。
相手が悪いのではないという思いを持ち続けていました。
そこに今回のお言葉が示すことと重なるように感じます。

濁っている根本は自分の心では?!と。
その自分の心を先ず清めるために、善根功徳を積み、又感謝のここをを忘れることなく、神仏を祀り、世のため、人のために何か手伝いができることがあればさせていただく、目上の人や親への孝を積む等私達の心を清らかにできることを、まず自分の方から求めて探して、一歩踏み出そうと教えてくれたいます。

お言葉17 教区便りにリンクしています。
[PR]
日々のお言葉17が教区便りに載っていましたです。

日々のお言葉17 「濁っている根本を清めて来なければ、自分は澄んできません」

教区便りの説明
激動の1年が終わり、世界は対立から協調へと向かおうとしながら、新しい秩序を模索しようとしている。
そんな時代にあって、大切なことは、平和を願う人、1人1人がまず平和は心を作っておくことだ。
戦争も環境破壊も人の心で生み出されてきたものだから。
根本を清めてこない限り、澄んだものを手にすることはできない。
新しい秩序作りに最も大切なものは心であるとの認識に立ち、今年も世界平和の祈りをご本尊さまに捧げよう。

お言葉17 茨木教区便りにリンクしています。

More
[PR]
当たり矢の始まりと節分の行事、仏壇のおまじない

2月3日は節分祭です。先にカテゴリー行事等の始まりで 節分祭の始まりについて投稿しましたが、節分祭の境内で販売されるています「当たり矢」についての講話が1月後期のお運びでもありましたので紹介します。

19年1月22日(月) 水の章20講 小竹講師の講話から抜粋しました

○ おまじない当たり矢の始まり

節分の日に販売します「当たり矢」ですが今北宇智教区で作成して貰っていますが。
元々は、お宗祖様と西川先生がこの地方だけか知りませんが、髪を「オバケ」(という髪型?)に結うそうです。オバケとはどんな髪型か知りません。
「当たり矢」のようなものを髪飾りにして差していたそうです。

お宗祖様が年越しの髪飾りとして作ってくださったのが、各家庭の1年間の入口のお守りに変わっていったようです。
お宗祖様からいわれてある信者さんが作っていたのだそうですが、今は教区で作っているそうです。
この様に辯天さまの行事はそれぞれの教区・支部でお手伝い頂いているのですよ。

節分お豆は、河内長野教区さんがビニール袋に豆を入れた節分の豆まき用の豆を作っていますね。
(現在は吉兆作成奉仕に合わせて福豆を奉仕者がビニール袋に詰めています)
節分祭の豆には、景品が入っているのもありますのでどうぞ沢山おいでくださり、福をいただいてください。

○ 節分のイワシと柊、仏壇購入時のおまじない

節分のおまじない
この辺では節分の日にはイワシの焼いたのと柊の葉を門に吊しますか? 
大阪茨木市冥應寺にいますときは、ズーと玄関(マンション住まい)でやっていました。
イワシの頭は回ってこず尻尾しか配分がないのです。
それで私宅は頭でなく尻尾でした。
柊は葉っぱの尖ったところで鬼の目を突くのだそうですね。
イワシは、あれは生臭いからでしょうかね。
生臭さが邪気を払うのでしょうね。
(インターネットで調べたら→イワシの生臭さが邪気を追い払い、ヒイラギのとがった葉が鬼の目を破るからと、『本朝食鑑』に載っているそうです。
『本朝食鑑』とは、元禄8年に江戸で出版された食品百科事典で、 あらゆる食べものについて、その性質・取り方・効能などを記述した書物。近年では柊の枝に鰯の頭を刺したものを戸口に挟み、邪気を払う行事が行われます。
これは追儺(ついな)といって、朝廷の年間行事です。
大晦日の夜、悪鬼を追い払う儀式であり、鬼遣らいともいいます。
更に土佐日記にはイワシではなくボラも子供のイナの頭になっているそうです。
(プログ佐藤直暁の徒然なるままにから転載)

○仏壇を購入した時のおまじない。

信者さんが仏壇を買ってお祀りすると、魔物がつくとか災難に遭うとかいう噂をされますので、お宗祖さまが教えられたおまじないです。
弁天宗では仏壇を新しく購入するとご本尊様や位牌を入れない空っぽの仏壇の中に、前の日の夕方から生の鯵等の小魚をお皿に入れて、翌日朝生魚を捨てて、それからご本尊様等を仏壇の中に入れてお坊さんに魂入れをしていただくように教えられています。
これも生臭さが邪気を払うのでしょうかねえ。

節分の豆が、今入荷し、宗祖殿に納めてあります。
(昨年吉兆作成奉仕で福豆(節分の豆以下略)作りをしていますので、現在は作成された福豆はすでに宗祖殿に納められているかもしれません。今回、福豆の話はありませんでした)

節分がやってきますとお豆を年の数だけ食べますが、年を取ると遠慮しますね。
弁天宗には色んな行事がありますので、それに従った行事を取り入れることが家庭の仲にいいムードを作るのではないかなと思っています。
できました葉付きの柊の小枝に焼いたイワシの頭をさして玄関に飾って頂ければいいと思います。


なお、境内では、『頒布所』という表示で「当たり矢」を初め破魔矢などを販売しています。
頒布という用語をネットの「Weblio辞書」で調べますと
『広義には,有形的方法か無形的方法かを問わず,文書,図画その他の情報を公衆に譲渡し,貸与し,または送信等することによって伝達することをいうが,
わが国においては,有形的頒布,すなわち有体物を公衆に譲渡または貸与することを「頒布」といい,
無形的頒布については「公衆送信」などとして「頒布」と区別している』
となっており、販売する場合は頒布所といえないようですね。
お宗祖さまは信者さんには安く販売し、宗本部が損をするというお考えの方でした。
従って、物を無料配布・譲渡をいう趣旨で頒布所と名づけたのでしょうね。
[PR]
故梅木先生回想録100

御所教会の機関紙「幸真」昭和21年11月1日号から頂きました。

お宗祖様のお話では、故梅木先生は弁天さまがお前に2人の弟子を与えてやると言われ、与えられたお弟子さんの1人です。

故梅木先生回想録99の続きです。
回想録80に戻ります。

当時の弁天講は十輪寺弁天様の護持団体だった。
その頃はまだ弁天宗として立宗しておらず、真言宗十輪寺の本尊とともに併置して祀ってあった弁才天女尊を拝んでおられたので、この弁天様を護持する団体として弁天講が組織された。
各地の信者が地区ごとの集まって、講支部を造っていた。
この講支部が出来ると、講本部は尊女さまのお許しを得て、特別参拝券を交付した。
30軒に対して1枚の特別参拝券だった。
だから講支部員は月に1回この特別参拝券を持って、十輪寺にお参りして尊女のご神示を受けることができた。
これを受けないものは一般日にお詣りして、多数の中で抽選をして当たったものがご神示を受けることになっていた。
この特別参拝券は、講支部に与えられた特典だった。
しかし、南葛郡内は尊女ご母堂の生地だったので親戚も多く、そのつてを求めて一般日に詣る人が多く、講の必要性を感じないので入講しなかった。
私は、これではいけないと思った。
弁天さまや、尊女さまに報恩感謝の心を養う講の組織を広めねばならない。
組織を拡大するには導きをしなければならない。
尊女のお言葉の如く、導き育てることが功徳を積み、因縁を解いていただく道である。
どうすれば多くの導きをすることができるかと考えた。
導きは自分1人の力でできるものではない。
支部の信者の協力を得てこそできるのだ。
そのため支部の講員と親しくならなければならない。
私は早速講員の家を回ることにした。
講の掛け金や講の親睦の目的を説明することを口実に、1軒1軒回った。
自転車に乗って戸別訪問した。
大衆運動のリーダーとして、世間を駆け巡ってきた経験はあるが、その相手は諸官公庁だった。
[PR]
# by nohara4241 | 2010-01-27 06:25 | 講師の回想
何のために信仰しているのについてのつぶやき
追伸を書き加えました。

本宗の弁天様について述べられた意見は私と違いますので、私見をつぶやきます。

何のために信仰しているの その2 の中にあります「5 本宗の弁天様は」の中で記載されています。

『弁天様は全国に居られますが、私達の弁天様は余所の弁天様と違いは4つあります。
水の章のテキストの1番前に書いてあるのですが、
1つは、起源が違う。私達の弁天様は宇宙が出来た時からいらっしゃる。
2つ目は、ご誓願が違う、あらゆることをお聞き届けになるのが私達の弁才天女尊である。
3つ目は、教理がある。水の心を心とせよと教えの体系がある。
4つ目は、お働きが違う。ご本尊の弁才天様は一生懸命お働きいただいている。
ご宗祖様も働いていただいている。
15童子さまも働いているというお働きが他の弁天様とは違います。
私は竹生島に行って、1信者としたら、もう一つ違いがあるやろうと思います。
宗団として、ご宗祖様ありきですから、わざわざそれをお伺いしませんけれど、1信者としましては重大な事で私は5つの違いと思っています。
昔若い時に読んだ本で1つだけ誰が書いた事で、どういう趣旨か忘れましたが、宗教の事を書いておられまして「宗教の耐用年数、数千年」と書いてあるのを見た覚えがあります。
で、何やろうと思いながら千年単位で盛んになったり衰えたりすると書いてあって、ちょっと驚きました。』
についてです。

More
[PR]
節分祭の始まり

2008年2月3日の節分祭での、管長様のお話

管長さんのお話の中で、弁天さんでは護摩を焚く星祭りだけで、節分祭はやっていなかったそうです。

弁天宗では、お宗祖さまの始められた九星占星術で各信者のその年の運勢の吉凶表が配布されます。
信者はその表を見て、普通、その年の運勢の良い人は200円、悪い人は500円の星祭り祈願を申し込み、ご祈祷後にその星祭り札をいただいて家でお祀りします。
その外に歳預け、厄除けのご祈祷札もあります。
お運びで、相性の悪い夫婦は歳預けをするという様に教えられました。

お宗祖様は、私が信者様のために幾らでもご祈願成就を祈る祭(護摩焚きの星祭祈願)はやっているが、信者の皆さんに月に1度は霊地如意寺に来てもらい信者さんと一緒になってご本尊さまのご加護を頂く報恩感謝のお勤めをしたいというご希望から弁天宗では節分祭が始まったのですと紹介されました。

今はご本尊さま様に1100から節分祭祭典でご本尊さまを礼拝し、奉納演芸が1200から行われ、その後豆まき(景品付き豆がある)、1430から星祭り護摩祈願が行われています。

この他にもお運びで、お宗祖様は月に1度はご本尊さまに報恩感謝のお祈りをして頂きたいと感謝祭を毎月1回始められ、更に全国の信者が霊地に集うようにと考えられ各月の行事を開催されたと聞いています。
お宗祖様は行事に参加すると弁天様がお喜びになり参加した信者の皆様は弁天様からお徳をご加護を頂かれますとよく話されています。
最初農家の方が多かったので農繁期の6月は、農作業に信者さんが集中できるように行事を計画されなかったとも聞いています。

節分祭・星祭祈願に関してその始まりはについて書きましたが、日本の節分祭の経緯が分かりました。
しかし、弁天宗ではどういう経緯で節分祭が始まったかが大事だと思います。
管長様が言われたのですからこちらが弁天宗の節分祭の本当の始まりでしょうね。

当たり矢・節分の豆 等へリンクしています。
[PR]
ご宗祖さまの物語(6)

都島教区便り平成22年1月号に「ご宗祖さまの物語(6)」と題して教区長優谷壽男さんの記事がありました。参考になりますので転記させてもらいました。
ご宗祖さまの物語(5)の続きです。 
ご宗祖さまの物語(1)の戻ります。

カテゴリーは「講師の回想」に入れます。
優谷教区長はお運び研席の教使でした。
ご宗祖さま物語は、宗祖伝の原稿からのお話ではないかと思い、従って教区便りの記事を転記することにしました。

がっこたてて

清子には忘れられない友人がいた。
その子は脱臼したため足が不自由になっていたので、ことあるごとに同級生にいじめられた。
しかし、何を言われても黙った笑っているようなおとなしい子だった。
その子にとって清子だけが仲の良い友達だった。
そのうち意地悪がエスカレートしていった。
ある日、何人かの同級生が校庭の隅でおしっこをして、その上にいらないものを捨て、さらに新聞で覆い、その子に「ちょっとこれを丸めて捨てて来てよ」と言いつけた。
言われたその子は「ええよ」と言って、新聞に包まれた汚れたものを持って、足を引きずりながらゴミ箱へ捨てに行った。
清子は何故止められなかったのかと悔み、忘れられない出来事となった。
その後、6年生になった歳に突然姿を見なくなった。
吉井家の持ち山であるマツタケ山のすぐ横に住んでいたので、マツタケ山に出かけるたびに思い出すのだった。
時は流れて昭和39年、1世管長と一緒に大川橋を渡っている時、偶然にも再会したのだった。
その友人は宗祖になった清子の噂を聞いて訪問する所だった。
早速庫裡に伴って行き、思い出話に花を咲かせた。
5年生を終えて退学した後、ある酒屋さんに奉公に行った。
2人の子の子守をする仕事だった。
何年かしてそこの奥さんが3人目を出産したが、産後の肥立ちが悪くて亡くなってしまった。
若旦那は「これからどうしたらいいのだろう」と途方に暮れてしまった。
その日も一生懸命赤ちゃんをあやし、おむつを替え、世話をしてくれているその子の姿を見て、他人には任せられないと思った。
上の2人の子も安心してなついている。
この子こそ再婚するにふさわしい人だと考え、若旦那はうちあけた。
このようにして後妻に迎えられたのである。
不自由だった足も、ご主人の勧めで手術を受け完治し、今では健康な人と同じように歩けるようになった。
あの穏やかな人を許す心、どんな人にも尽くす心があればこそ、この幸せを手に入れることができたのだ。
建設中の智辯学園へも多額の寄付をしてくださった。
吉井家ではカイコを飼っており、その世話はすべて母すえが受け持っていた。
これが大変な作業なのだ。1日6回食べる。
それも規則正しく与えないと死んでしまう。
小さい時は桑の葉を細かく爪切りのようなもので刻んでやらないと食べられない。
春から秋にかけて飼うのだが、室温を26度くらいに保たないといけないし、濡れた葉を食べたカイコは病気になってしまい、油断すると伝染して行くのだ。
吉井家の桑畑は、屋敷のすぐ裏の山の斜面にあった。
その季節になると、桑摘みに出る母が心配で授業に身が入らない。
ポツリポツリと雨が降ってこようものなら「先生、雨で母が困っていますから行かせてください」と言って、母のもとに駆け付けるのだった。
母を助けるために、時々学校を休んで桑摘みの手伝いにでることもあった。
時には風の向きによって、学校の方から音楽の授業で歌っている同級生の歌声が聞こえてくることもあった。
すぐ目の下に吉井家の屋敷があり、少し目を左に転ずると手の届きそうな所に学校がある。
そこから聞こえてくる唱歌は、季節がら「茶摘歌」が多かった。
「夏も近づく88夜……」友達と一緒に授業で歌いたいのに歌えない。
清子にとって悲しい思い出の歌になった。
祖母たつが病気になって3か月ほど床についたことがあった。
スエは毎日忙しく仕事に追われているので、たつの看病は清子が一手に引き受けた。
夜中に起きて下の世話をしたり、薬を煎じたり、食事を作ったり、衣類の洗濯をしながら学校に通った。
時には遅刻したり、早退することもあった。
手が空くとマッチの軸で(原文マッチ箱と軸で)人形を作り、何人かの生徒に見立てて並べ、清子が先生になって、人形に喋らせて学校ごっこをしていた。
勉強したいという気持ちを慰めていたのだろう。
その頃、家の大黒柱に
あさおきて、きものきて
おくすりとって、がっこたてて
と落書きをしたのを母すえに見つけられて大変叱られたのだった。
[PR]
# by nohara4241 | 2010-01-24 17:07 | 講師の回想
故梅木先生回想録99

御所教会の機関紙「幸真」昭和21年10月1日号から頂きました。

お宗祖様のお話では、故梅木先生は弁天さまがお前に2人の弟子を与えてやると言われ、与えられたお弟子さんの1人です。

故梅木先生回想録98からの続きです。
回想録80に戻ります。

高田講に入っていたと言われて私は驚いた。
私は高田講の講員ではない。
高田講が設立されたときに尊女から出席して見ませんかとお誘いを受けて出席しただけで、そこの講員になると言ったわけではなかった。
だからその後、高田講とは何の連絡もなかったし、参拝に利用する特別参拝券を使用したこともなかった。
それを高田講の講員だとは心外だと思った。
でも先方では、発会式に参加したので、入講したのだと思っているのだろう。
こちらは全くオブザーバーの立場で出席したのだが。
「とにかく1度高田講の講元にあって了解してもらいなさい」
ご院主さんの忠告で面会することにした。
会ってみると講元は大変良い方で「私はどうも思っていない。支部ができることは弁天さんにとって大変喜ばしい事です。
私は大賛成ですから大いに頑張ってください」
講元の真心溢れる激励の言葉に私はうれしかった。
講元はあんなよい人なのに、どうして承認中止の横槍が入ったのだろう。
ご院主さんの仰っていた某老女のしっとから、こんな工作をしたのではなかろうか。
その後まもなく、弁天講南葛支部が承認された。
昭和25年5月、弁天講理事会に出席するよう連絡を受けた。
支部長は全員、弁天講本部理事に就任することになっていた。
23番目の講元(支部長)だった。
場所は十輪寺庫裡の8畳の座敷、2間を開放して会場にあてられた。
正面床を背にしてご神代(尊女)ご院主、岸場、林、北野正副理事長以下、全理事(各支部長)出席して開催された。
この時新しく紹介された新理事は私と高野口支部長の松尾氏とであった。
[PR]
# by nohara4241 | 2010-01-18 16:08 | 講師の回想